こどもと読むたくさんのふしぎ

福音館書店の月刊誌「たくさんのふしぎ」を読んだ記録です。

アイヌネノアンアイヌ(たくさんのふしぎ傑作集) (第55号)

本のれきし5000年 (たくさんのふしぎ傑作集)(第56号)』で、「大学生であるならば、“何のために勉強するの?”という問いかけをするはずがない」と書いた。

しかしながら彼自身、勉強してないわけではないし、本を読まないわけでもない。彼の名誉のために全文を紹介する。

読書はしないといけないの?

 「大学生の読書時間『0分』が5割に」(2月24日朝刊)という記事に、懸念や疑問の声が上がっている。もちろん、読書をする理由として、教養をつけ、新しい価値観に触れるためというのはあり得るだろう。しかし、だからと言って本を読まないのは良くないと言えるのだろうか。

 私は、高校生の時まで読書は全くしなかった。それで特に困ったことはない。強いて言うなら文字を追うスピードが遅く、大学受験で苦労したぐらいだ。

 大学では教育学部ということもあり、教育や社会一般に関する書籍を幅広く読むようになった。だが、読書が生きる上での糧になると感じたことはない。

 役に立つかもしれないが、読まなくても生きていく上で問題はないのではないかというのが本音である。読書よりもアルバイトや大学の勉強の方が必要と感じられるのである。

 読書は楽器やスポーツと同じように趣味の範囲であり、読んでも読まなくても構わないのではないか。なぜ問題視されるのか。もし、読書をしなければいけない確固たる理由があるならば教えて頂きたい。

今の彼は、少なくとも勉強のための本を読んでいる。それ以外の本も読んでいるだろう。決して読書をしないわけではないのだ。大学の勉強の方が必要というからには、学生の本分にしっかりと励んでいる?こともわかる。

では、問題提起の真のところは何か?

「生きていく上で問題はない」「読書が生きる上での糧になると感じたことはない」というところがキーなのだと思う。

 

アイヌネノアンアイヌ』を書いた萱野茂によると、彼の母は、

アイヌネノアンアイヌ エネップナ(人間らしい人間、人らしい人になるんだよ)」

とくりかえしくりかえし語っていたという。

アイヌは文字をもたない。だから当然「読書」という文化はなかった。アイヌの人々にとって、読書が「生きていく上で問題」となることはなかったはずだ。

しかしながら「文学」は書き留められた言葉だけに存在するものではない。アイヌは“ユーカラ”や“ウエペケレ”といった口承文芸を持つ。アイヌの生活と密接に結びついたものだ。もしもその文化のなかで生きているアイヌに「ユーカラやウエペケレは“生きる上での糧になる”と感じますか」と尋ねたとしたら、おそらく多くの人が「エー(はい)」と答えるに違いない。生活の一部であり、なくてはならないものだと言うことだろう。

今の日本で、読書は生活の一部でありなくてはならないものだと感じる人は、そう多くはないかもしれない。それでも、大切な文化の一つだと思う人は少なくないだろう。生きる上での糧とまでいかなくても、“人間らしい人間、人らしい人”になるための「必要なものの一つ」であることは確かだ。

破壊されてしまったアイヌの文化はいま、取り戻すための努力が続けられている。

その文化を生きる人、楽しむ人、そして伝えていく人……人がいないとその文化は継承されないのだ。私は「読書の文化」も続いていってほしいと思う。それには私一人が読書を楽しみ、続けていくだけではダメなのだ。読書を楽しむ仲間がいてほしい。文化をつないでいく人がほしい。だからこそ、私は自分の子どもに、学校の子どもたちに読み聞かせをするのだ。子供たちが楽しんで聞いてくれるのを喜ぶのだ。決して教育のためではない。本を読む楽しみを受け継いでほしいからだ。

件の彼の「読んでも読まなくても構わないのではないか」という考えは変わることはないかもしれない。それでもおそらく、読書をきっぱり止めてしまうことはないだろう。「趣味の範囲」で続けていってくれるのではないだろうか。そう思いたい。本好きの一人として願っている。