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こどもと読むたくさんのふしぎ

福音館書店の月刊誌「たくさんのふしぎ」を読んだ記録です。

草と木で包む (たくさんのふしぎ傑作集) (第183号)

図工 101-200

桜餅や柏餅、笹団子にちまき、竹の皮につつまれたおにぎり…自然の葉っぱで包まれた食べ物を見ると、本当にわくわくする。

とくに好きなのが、鱒寿司だ。たまにスーパーで駅弁が出る時、ラインナップに入っているのでつい買ってしまう。富山には一度も行ったことがないくせに、ますのすしだけはこれまでに何個食べたことだろうか。

本書はそんな、自然の草や木を使って食べるものを包む工夫をしてきた、日本の”包装文化”について書かれている。

冒頭の”自然を包む こころを包む”で「どれもこれもびっくりするほど美しい」と評される通り、もとは実用品ながら、自然の美と人間の手が生み出す芸術品、とも言える素晴らしいものがたくさん紹介されている。

卵づとの見事な美しさも捨てがたいが、何と言っても最高傑作は、本書でも”わらの傑作”と題される通り、米俵だと思う。稲を収穫して米を取りわけた後、残ったわらを使って米を包む。わらは通気性が良いので保存も完璧、丸い形は人力での運搬にも便利、使い終わった俵は肥料や燃料にもなるという、まさに「まったくむだのない包み方」なのだ。

しかし、今、米俵を見たことがあるだろうか?博物館とかではなしに、実際に使われているところを、である。子供と参加した田んぼの学校のイベントでは、稲刈りの後、束ねた稲を干す稲架掛け(はさかけ)の作業もやったのだが、この稲束を縛るのもわらなのだ。これが案外難しくて、ゆるく結ぶと解けてしまうし、きつく縛り過ぎると、後の作業に支障が出る。藁を使って、ただ稲の束を縛るだけでもこの有様。卵づとを美しく作るにはどれくらいの練習が必要なのか、ましてや米俵など、用途をなすようにきちっと作れるようになるにはどのくらい時間がかかるのだろうか…。

そもそも機械化の進んだ現代の稲作では、稲架掛けも俵作りも必要ないのだ。竹と同じようにわらを使った品の需要が減り、藁文化を支える藁仕事も行われなくなった今、藁製品は、手間も時間もお金もかかる、本当の芸術品になってしまった。

では「草と木で包む」文化は、もう必要ないのだろうか?

 『中学生の教科書―今ここにいるということ』の中で、「芸術」を担当した大林宣彦はこんなことを書いている。

便利であるということの素晴らしさと、不便であるということの素晴らしさ。効率が良いということの幸福と、効率が悪いということの幸福が共にある。これが大事なことである。

本書の最後には、”風呂敷を見直す”ということも書かれているが、毎日の買い物などで使うことは難しくても、たまに風呂敷を使ってみるだけで、快適・便利とはまた違った「幸せ」が見えてくるのかもしれない。

が、たまのことだけでは粋に使いこなせないわけで、それには毎日使って熟練する必要があるというジレンマ…。

草と木で包む (たくさんのふしぎ傑作集)

草と木で包む (たくさんのふしぎ傑作集)

 

本書の奥付のところには、

この本は岡秀行氏の著書『包 TSUTSUMI』(毎日新聞社)を参考に作りました。

との記述がある。『包』は残念ながら蔵書になかったが、同著者の『こころの造形―日本の伝統パッケージ』があったので図書館で借りてみた。

「あとがきにかえて」のところでは、”いま、伝統パッケージの歴史は終る……”と題し、亡びゆく伝統パッケージに対する深い愛が語られている。

自然の恵みを素直に受けとめて人間らしい工夫の中に生かした伝統パッケージは、いまや、どこにもその材料がなくなってしまった。木も、竹も、笹も、わらも……。辛抱と根気と愛情なしでは成り立たない手わざも、受け継ぐ若い人がないまま、急激に衰えて行った。高い誇りと自負を持って包装工芸の職人気質を守り続けてきた老舗も、この過酷な時代環境の中で、いやおうなく変質して行った。伝統パッケージの根底ー自然の材料、手の技、つつむ愛情ーが崩壊したのであった。

ちなみに、このあとがきが書かれたのは、1974年のことである。