こどもと読むたくさんのふしぎ

福音館書店の月刊誌「たくさんのふしぎ」を読んだ記録です。

ことばをおぼえたチンパンジー (たくさんのふしぎ傑作集)(第9号)

「ことばをおぼえたチンパンジー」とは、すなわちアイのこと。

「図形文字を使ったことばの勉強」に参加することになった3頭のチンパンジー。なかでも「いちばんかしこい生徒」が、2才半から勉強を始めたアイだ。

本書の最後は、

 はじめて会ったときは1才のあかちゃんだったアイも、9才。チンパンジーでは、もうすぐおとなです。やがてアイにあかちゃんが生まれたら、おぼえたことばをその子に教えるかもしれません。もしそうしてことばがひきつがれてゆけば、いつの日か、ひととチンパンジーはたがいにもっとよくわかりあえるようになるでしょう。

と結ばれているが、その後アイはアユムを生む。

おかあさんになったアイ』では、アイの子育てや親子の様子が書かれている。

そのあとがきでも松沢氏は、

アイを通してチンパンジーのことを知った子どもたちに、アイが産んだアユムのようすをぜひ知ってほしいと思います。チンパンジーのことをもっともっと知ってほしいと思います。そうした気持ちでこの本を書きました。その子どもたちがおとなになるころには、ヒトとチンパンジーはもっとよくわかりあえるようになる。そう希望しています。

と「ヒトとチンパンジー」の相互理解に希望を持っているのだ。

 

『ことばをおぼえたチンパンジー』では、アイ含めたチンパンジーを1頭、2頭と数えている。一方『おかあさんになったアイ』では、

アイという、もうすぐ二十五歳になる女性がいます。

霊長類研究所には現在、十四人チンパンジーがいます。

と人間に準えたかたちで表記されている。交配については交尾ではなくセックスという文言があてられているのだ。

かなり動揺した。

チンパンジーはヒトなのか?ヒトというなら人権はあるのか?実験動物の「人権」とは?など。倫理観の揺らぎというか、ともかくヒト扱いされることに、強い違和感を覚えたのだ。

もちろん、実験の“パートナー”として尊重する気持ち、深い愛情からの表現ということは理解している。そうはいってもチンパンジーはあくまで実験動物だ。彼らの生活は、生殺与奪は人間に握られているのだ。アイが妊娠したのだって人工授精で、人間の手が加わらなければアユムを生むこともなかった。上記「14人のチンパンジー」のうち「成人男性」は3人。うち2人は「セックスができません」という状態だ。『おかあさんになったアイ』によると、飼育環境下のチンパンジーは「男性はセックスができないことがあり、女性では子どもを産んでも育てられない」ことが多いという。自然に任せていては遺伝的多様性が保てなくなるので、人工授精を使ったファミリープランが作られているのだ。パートナーやヒト扱いする一方、実験動物として妊娠出産を人為的にコントロールするという事態。どう気持ちの落としどころをつけたらいいのかわからなかった。単なる感傷と言われればそれまでだが……。

 

アイのも初産(死産)の時は、産まれた子を抱こうとせず、育児拒否すれすれだったという。次の妊娠時は、あらかじめ育児ビデオを見せたり、ぬいぐるみを抱かせたり「予習」して備えていた。「練習」は熱心でなかったものの、実際に出産した時は、赤ん坊の全身を舐めたり、指に口を入れて自発呼吸をうながしたりと訓練では教わらなかった行動もとっている。ゲノムに組み込まれた、本能的な部分もきちんと機能しているのだ。

出産や育児について、適切な訓練をすれば、本能的な部分を引き出せることもある。ならばセックスについても同じことがいえるのではないか?行為のビデオを見せる、模型で練習させてみる、あるいは目の前で人間がセックスしてみせたらどうか?「正常位」ならその体位でするようになるのか?それとも本能的に「後背位」でするのか?性行為の学習は受け継がれるのか?倫理観がどうとかいいつつ、こういう下世話な想像をしてしまうから大概だけれど。

 

『おかあさんになったアイ』では、著者が講演で受けた質問などを再構成した章が設けられている。人間の子育てにも応用できそうなこともある。

たとえば「自主性を重んじる」ということ。

プロジェクトでは、アイが無理なく勉強するための工夫が重ねられてきたという。ほんとうに自由でリラックスした雰囲気のなかでこそ、発揮される知性があるはずだというのだ。

「障害をもつ子どもにどう接したらよいか?」という質問には二つの視点を提供している。

まずは「その子どもに障害があるというラベルをはらないこと」。

もう一つは「できないことを生徒のせいにするのではなく、教え方の問題に帰すること」。

なにより大事なのは「何が本当の目標なのか」をよく考えること。

 その子に障害があると思わずに、その子が何かできない、何か欠けているとしたら、まず思想としては「ハンディキャップの思想」をもつべきではないでしょうか。人間はみなだれもが何かハンディキャップを負っている、と考えるわけです。たまたまその子に、ある面で、ある深さをもってハンディキャップが現れているだけで、それを補償する努力をまわりがすればよいのです。

 そのときに、いろんな補償のしかたがあります。その子の才能を伸ばすというのもその一つの方法ですが、代わりにやってあげるとか、問題をやさしくするとか、物理的な環境として、たとえば踏み台を低くするとか、いろんな形で課題を解決する方法があります。その子の能力の足りなさに原因を帰属する必要はどこにもないのです。

 同じことが学習の場面にいえます。その子の能力の低さに原因を帰属したら、話が先へは進みません。チンパンジーの教育でも、もともとみんな文字なんかおぼえっこないと二十年前には思っていました。だからできないとしても、「チンパンジーは人間ではないからできない」といってしまったら、もうそこでおしまいです。(『おかあさんになったアイ』より)

チンパンジーは「いわば人間の子どもでときどき見かける多動児に似て」いて、それに合わせた指導をしているという。おっしゃることはごもっとも。とくに「できないことを子供のせいにするな」というのは親として耳が痛い話だ。一方でヒトの子をチンパンジー扱いするか、という気持ちのざわつきもある。これは著者がチンパンジーをヒト扱いすることの裏返しだから当然だが、価値観をぐらぐら揺さぶられるような落ち着かない気分がわき起こってくる。

「人間も動物の一部である」なんて表面上は思っていたけれど、実のところ私は、人間を特別なものと考えていたらしい。その本音が露にされて動揺しているのかもしれない。猫や犬などペットを家族の一員として擬人化することもあるけど、あくまでペットは動物だ。人間とは違う。

チンパンジーをヒト扱いされて、ヒトをチンパンジー扱いされて落ち着かない気分になるのは、私たち・・・が、あまりにも近すぎる関係だからかもしれない。 

本号の絵を担当したのは薮内正幸

子供が学校を保健室で過ごしていた頃のこと。下校時迎えにいったら、養護の先生から「きょうは一日、本を読んで過ごしていました。ものすごい集中力でしたよ」と言われたことがある。

その本は『冒険者たち ガンバと十五ひきの仲間』。

私が先生と話している間も読みつづけ、下校の準備を促してやっと名残惜しそうに本を閉じた。そして、ほら、薮内さんが絵を描いてるんだよ!とうれしそうに表紙を見せた。これまで薮内さんの動物絵本をどれだけ読んでやったことだろうか。

野鳥に興味をもつようになってからは『日本の野鳥』全6巻。それらをまとめた『野鳥の図鑑 にわやこうえんの鳥からうみの鳥まで』。しかしまさか『ガンバ』にまで手を伸ばすとは思ってもみなかった。その後も『グリックの冒険』『ガンバとカワウソの冒険』とシリーズを読み進めていったのはいうまでもない。「ガンバ」の出版こそ岩波だが、お話を書いた斎藤惇夫氏はかつて福音館で仕事をしていた方だ。

薮内さんも福音館勤務だったことがあり、多くの動物絵本を手がけている。「たくさんのふしぎ」もその一つ。『町のスズメ 林のスズメ(第15号)』そしてこの『ことばをおぼえたチンパンジー』だ。ウィキペディアには“鳥や動物の羽毛や毛の一本一本まで丹念に描き「僕は毛描き」と言うほどだった”と記述があるが、確かにチンパンジーの毛の質感は見事だ。ヒトとチンパンジーの赤ちゃんを比べるページでは、ヒトの赤ちゃんの髪の毛は割とそっけないのに対し、チンパンジーの赤ちゃんは毛の向きなどもていねいに細かく描かれている。