こどもと読むたくさんのふしぎ

福音館書店の月刊誌「たくさんのふしぎ」を読んだ記録です。

ことばをおぼえたチンパンジー (たくさんのふしぎ傑作集)(第9号)

子供が学校を保健室で過ごしていた頃、下校時に迎えに行ったところ養護の先生から、「きょうは一日、本を読んで過ごしていました。ものすごい集中力でしたよ」と言われたことがある。その本とは『冒険者たち ガンバと十五ひきの仲間』。私が先生と話している間なおも読みつづけ、下校の準備を促してやっと名残惜しそうに本を閉じた。そして、ほら、薮内さんが絵を描いてるんだよ!とうれしそうに表紙を見せた。薮内さん、こと薮内正幸氏の動物絵本を、これまでどれだけ読んでやったことだろうか。野鳥に興味をもつようになってからは、『日本の野鳥』全6巻や、それらをまとめた『野鳥の図鑑 にわやこうえんの鳥からうみの鳥まで』を熱心に読むようになっていたが、まさか『ガンバ』にまで手を伸ばすとは思ってもみなかった。その後も『グリックの冒険』、『ガンバとカワウソの冒険』とシリーズを読み進めていったのはいうまでもない。「ガンバ」は岩波から出版されているが、物語を書いた斎藤惇夫氏はもともと福音館で仕事をしていた方だ。

ガンバの挿絵を描いた薮内氏も同じく福音館に勤務していて、動物絵本を数多く手がけているが、この「たくさんのふしぎ」でもいくつか動物ものの絵を担当している。『町のスズメ 林のスズメ』と『ことばをおぼえたチンパンジー』だ。ウィキペディアには"鳥や動物の羽毛や毛の一本一本まで丹念に描き「僕は毛描き」と言うほどだった"との記述があるが、確かにチンパンジーの毛の質感は見事で、ヒトの赤ちゃんとチンパンジーの赤ちゃんとを比べるページでは、ヒトの赤ちゃんの髪の毛は割とそっけないのに対し、チンパンジーの赤ちゃんは毛の向きなどもていねいに細かく描かれている。

 

「ことばをおぼえたチンパンジー」とは、すなわちアイのことであり、本書によると、3頭のチンパンジーが「図形文字を使ったことばの勉強」に参加することになったが、中でも「いちばんかしこい生徒」が2才半から勉強を始めたアイなのだということだ。

本書の最後は、

 はじめて会ったときは1才のあかちゃんだったアイも、9才。チンパンジーでは、もうすぐおとなです。やがてアイにあかちゃんが生まれたら、おぼえたことばをその子に教えるかもしれません。もしそうしてことばがひきつがれてゆけば、いつの日か、ひととチンパンジーはたがいにもっとよくわかりあえるようになるでしょう。

と結ばれているが、その後アイは実際にアユムを生む。『おかあさんになったアイ』という本では、アイの子育てや親子の様子が書かれているが、そのあとがきで作者の松沢氏は、

アイを通してチンパンジーのことを知った子どもたちに、アイが産んだアユムのようすをぜひ知ってほしいと思います。チンパンジーのことをもっともっと知ってほしいと思います。そうした気持ちでこの本を書きました。その子どもたちがおとなになるころには、ヒトとチンパンジーはもっとよくわかりあえるようになる。そう希望しています。

と述べている。

『ことばをおぼえたチンパンジー』では、アイを含めたチンパンジーを1頭、2頭と数えているが、『おかあさんになったアイ』の方では、

アイという、もうすぐ二十五歳になる女性がいます。

霊長類研究所には現在、十四人チンパンジーがいます。

ということで人間に準えたかたちで表記されている。交配については交尾ではなくセックスという文言があてられているのだ。

これを見て、私はかなり動揺した。チンパンジーはヒトなのか?ヒトというならば人権はあるのか?実験動物の「人権」とは?などなど、倫理観の揺らぎというか、ともかくヒト扱いされていることに、強い違和感を覚えたのだ。

もちろん、彼らを実験の”パートナー”として尊重する気持ち、彼らに対する深い愛情からこその表現だということは理解している。しかし、そうはいってもここのチンパンジーたちはあくまで実験動物であり、彼らの生活は、もっといえば生殺与奪は人間に握られているのだ。アイが妊娠したのだって人工授精で、人間の手が加わらなければアユムを生むこともなかった。上記の「14人のチンパンジー」のうち「成人男性」は3人。うち2人は「セックスができません」という状態だ。『おかあさんになったアイ』によると、飼育環境下のチンパンジーは「男性はセックスができないことがあり、女性では子どもを産んでも育てられない」といった事例が多いという。自然に任せていては、遺伝的多様性が保てなくなるということで、人工授精を使ったファミリープランが作られたとのことだ。しかし、パートナーやヒト扱いする一方、実験動物として、妊娠出産を人為的にコントロールするという事態に、どう気持ちの落としどころをつけたらいいのかわからなかった。単なる感傷と言われればそれまでなのだが。

 

アイの場合も最初の出産(死産)の時は、産まれた子を抱こうとせず、育児拒否すれすれだったようで、次の妊娠の時は、あらかじめ育児ビデオを見せたり、ぬいぐるみを抱かせたりと「予習」をして備えていた。「練習」の時は、熱心でなかったアイだが、実際に出産した時は、子育て訓練では教えていない、赤ん坊の全身を舐めたり、指に口を入れて自発呼吸を促すなどの行動をとり、ゲノムに組み込まれた本能的な部分もきちんと機能していることがわかったのだった。

出産や育児について、適切な訓練をすれば、本能的な部分を引き出せることもある、というのなら、セックスについても同じことがいえるのではないか?行為のビデオを見せる、ぬいぐるみの模型で練習させてみる、あるいは目の前で人間がセックスしてみせたらどうなのか?「正常位」なら、その体位でするようになるのか?それとも本能的に「後背位」でするようになるのか?性行為の学習は受け継がれるのか?倫理観がどうのとかいいつつ、こういう下世話な想像をしてしまうのだから、私も大概だけれども。

 

『おかあさんになったアイ』では、著者が講演で受けた質問などを再構成した章が設けられているが、人間の子育てにも応用ができそうなことが多く書かれている。たとえば「自主性を重んじる」ということ。プロジェクトでは、アイが無理なく勉強するための工夫を重ねてきたということで、ほんとうに自由でリラックスした雰囲気の中でこそ、発揮される知性があるはずだと述べている。

「障害をもつ子どもにどう接したらよいか?」という質問には二つの視点を提供している。まずは「その子どもに障害があるというラベルをはらないこと」。もう一つは「できないことを生徒のせいにするのではなく、教え方の問題に帰すること」。そしてなにより大事なのは「何が本当の目標なのか」ということをよく考えることだと述べている。

 その子に障害があると思わずに、その子が何かできない、何か欠けているとしたら、まず思想としては「ハンディキャップの思想」をもつべきではないでしょうか。人間はみなだれもが何かハンディキャップを負っている、と考えるわけです。たまたまその子に、ある面で、ある深さをもってハンディキャップが現れているだけで、それを補償する努力をまわりがすればよいのです。

 そのときに、いろんな補償のしかたがあります。その子の才能を伸ばすというのもその一つの方法ですが、代わりにやってあげるとか、問題をやさしくするとか、物理的な環境として、たとえば踏み台を低くするとか、いろんな形で課題を解決する方法があります。その子の能力の足りなさに原因を帰属する必要はどこにもないのです。

 同じことが学習の場面にいえます。その子の能力の低さに原因を帰属したら、話が先へは進みません。チンパンジーの教育でも、もともとみんな文字なんかおぼえっこないと二十年前には思っていました。だからできないとしても、「チンパンジーは人間ではないからできない」といってしまったら、もうそこでおしまいです。(『おかあさんになったアイ』より)

著者によると、チンパンジーは「いわば人間の子どもでときどき見かける多動児に似ている」ということで、それに合わせた指導をしているという。おっしゃることはもっともで、とくに「できないことを子供のせいにするな」というのは、親として耳が痛い話でもある。一方で、ヒトの子をチンパンジー扱いするか、という気持ちのざわつきもやはりあって、もちろんこれは著者がチンパンジーをヒトと同様に扱っていることの裏返しだから、当然のことなのだけれども、自分の価値観がぐらぐら揺さぶられるような、落ち着かない気分がわき起こってくる。

人間も動物の一部である、と表面上は思っていたけれど、実のところ私は、人間はただの動物とは違う特別なものだと考えていたのだろう。それが露になって動揺しているだけなのかもしれない。猫や犬や、ペットの鳥などを擬人化して扱うということはあるけれども、そういう感覚とは何かが違う。チンパンジーをヒト扱いされて、ヒトをチンパンジー扱いされて落ち着かない気分になるのは、あまりにもチンパンジーとヒトが近すぎる関係だからなのかもしれない。 

ことばをおぼえたチンパンジー (たくさんのふしぎ傑作集)

ことばをおぼえたチンパンジー (たくさんのふしぎ傑作集)

おかあさんになったアイ

おかあさんになったアイ