こどもと読むたくさんのふしぎ

福音館書店の月刊誌「たくさんのふしぎ」を読んだ記録です。

ぼくの南極越冬記(第250号)

つい先日、南極からハガキが届いた。

昨夏訪れた情報通信研究機構イベントで「南極ゆうびん」をやっていたので、子供と一緒に自宅宛てハガキを書いてみたのだ。「投函したハガキは船で南極に運ばれ、NICT職員が局長を務める南極昭和基地郵便局の消印が押印されて、翌春に船で日本に帰ってきます」ということで、ハガキは南極を経て、ようやくわが家に到着したという次第だ。私はすっかり忘れていたが、子供の方は楽しみに待っていたらしい。このハガキは南極の空気に触れてきたんだなあと思うと、何だか不思議な気分になってくる。夫もすごいすごいと喜んでいた。ペンギンをあしらった消印がなんとも可愛らしく、忘れていた頃に届くというのも楽しかった。

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小さいころから、遠いところに行きたかった。

なんにもないところ、人がかんたんに近づけないところ、

そういうところに行ってみたかった。

と言う作者にとって、南極はうってつけの場所ではないだろうか。宇宙でもいいのだろうけれど、行けるチャンスとしては南極の方がはるかに現実的だ。「作者のことば」のプロフィールによると著者は、第33次越冬隊と、第40次夏隊に参加し、第43次・44次は観測船の船医として南極観測に携わったらしい。

この号のお話は、奥付の解説によると、

1991年11月から1993年3月まで行なわれた第33次南極地域観測隊の越冬経験をもとにしたものです。

ということで、南極の夏から始まっている。

著者の山内氏は船医、というからにはつまり医師なのだが、基地の建物の増築・補修などは、人手があり天気のいい夏の間に済まさなければならないということで、

「ドクターは薬の調合の要領で、これをおねがいします!」

と建築担当の責任者に言われ、

ぼくはそれから毎日、セメントと砂利と水を混ぜてコンクリートをこねることになった。こんな仕事ははじめてだ。

という羽目におちいる。南極の夏は白夜、つまり日が沈まないので作業の時間もたっぷりあるということで、沈まない太陽がちょっとうらめしい、とぼやき気味に書いているところも面白い。

作者がこねるのはコンクリートだけではない。パン生地もこねる。雪上車の整備も手伝う。衣類の洗濯もすれば、基地発行の新聞作りもする。本業の方はというと、

けが人も病人も滅多に出ないので、医者のぼくはひまな時間が多い。そのため、毎日いろんな作業にかりだされる。

ということで、開店休業状態らしい。もともと頑健な人物を隊員として選んでいるということもあるだろうし、隊員自身、不測の事態が起こらないよう気をつけているのかもしれない。

たくさんのふしぎ」らしく、この号でも一目で見てわかりやすい写真ではなく、挿絵を使って表現されている。興味を持ったのなら、将来自分自身の目で、南極を見に行って欲しいという思いがあるのかもしれない。写真や動画でもある程度わかるとは思うが、やはり実際行ってみなければわからないことも多くあるはずだ。実体験だけがすべてではないけれど、こういうところに行ってみたい、体験してみたいと子供に憧れをもってもらうのも大事なことだ。

そして、子供向けの本である「ふしぎ」の「作者のことば」にしては珍しく、

この本を手に取っていただいたあなたにも。ほんとにどうもありがとう。

と謝辞が述べられている。ありがとう、という言葉は万能だ。これだけで、この本を読む価値があるような気がする。この話だって家族愛だのなんだの言う前に、親の方も子供も「いつもありがとう」の一言で済む話ではないのだろうか?

わが家とて、子供のお手伝いや頑張りに対しお金を渡すこともある(お駄賃欲しさに子供自ら仕事を買って出ることもある)。すぐにお金を渡せない時は、請求書書いておいてねと子供に言うことすらある。逆にやって欲しくないこと、たとえば癇癪を起こして障子を破いたとか、について、月のお小遣いから障子代を差っ引くこともある。このように感謝の気持ちやペナルティを金銭という形で表現することもあるけれども、おおもとになるのは「ありがとう」とか「ごめんなさい」という気持ちの方だ。

もちろん、親と子という力関係の差はあるので対等ではないけれど「家の仕事」というのは、大人だろうが子供だろうが、一緒に暮らしているメンバーの一員として気づかいの問題であり、家族愛などというものではないと私は思う。

いちばん近い基地ですら200キロメートル以上はなれている、という越冬隊が過ごす昭和基地では、隊員たちみなが助け合って生活や仕事をしていく他はない。同じく医療隊員として南極を経験したこちらの先生も書かれているが、医者だからといって医療の仕事だけをしていては、南極生活は成り立たないのだ。この号でも、医療の話はほんのわずかしか書かれておらず(同じく歯の詰め物が取れてしまった話)、著者はほとんどパシリかと思われるほどさまざまな作業を手伝っている。

もちろん南極生活は仕事なので、作業は「無償」ではないけれど、気が沈みがちになる極夜を乗り切るために開催する”ミッドウィンター祭”(運動会や豪華ディナー、演芸大会などが行われる)は、仕事という範疇には収まらないものだ。同じ面子で限られた空間の中で、昼夜を共にしなければならない南極では、精神面でもお互いに支え合いながら生活することが求められるのだ。

隊員たちは家族ではない。時にはちょっとした諍いもあるだろうし、調子が悪い時は支えてもらうこともあるかもしれないが、家族ではないからこそ、家族に対する以上の配慮と協力で生活しているのだと思う。だったら家族愛とは何なのか?それは、安心して甘えられる関係ということではないだろうか。

子供が親に甘えるのは当然としても、親が子に甘えることがあってもいいだろうし、夫が妻に、妻が夫にでもいい。きょうだい同士でも。家族同士の甘え合いに”請求書”という言葉は似合わないし、お前たちは親にこれだけ面倒をかけてるんだ、なんて学校から教わってくる必要はない。「病気をしたときの看病代」が無償なんて当たり前のことではないか。むしろ請求したいのは「心配代」の方だ。小学生の子供に必要なのは親に甘えることだ。甘えすぎて叱られるくらいがちょうどいい。

公立学校には、施設で暮らさざるを得ないような子供たちや、親などからの虐待で”無償の愛”など感じられないという子供たちもいる。そのような子供たちには、家族同士の甘え合いという「家族愛」なども、なかなか実感しづらいものなのではないだろうか。どんな環境の子供であっても等しく考えさせてやれるのは、この南極観測隊のような、同じ目的をもった仲間同士で過ごす楽しさ、共同生活での役割分担や支え合いの方なのではないかなあと思う。公立学校や家族などなど、子供時代を過ごす環境は自分では選べないけれど、”大人になった未来の自分”は選べるのだ、そこで楽しく過ごすこともできるのだ、そして仲間と楽しく過ごすためはどういうことが必要なのか、それをこそ考えてもらいたいと思うのは理想論だろうか。

「作者のことば」の「ありがとう」は、上記に書いた読者のみあてならず、挿絵担当の三上氏、越冬隊の仲間たち、そして「ぼくを快く南極に送り出してくれた両親。妻と子どもたち」にも向けられていることは言うまでもない。