こどもと読むたくさんのふしぎ

福音館書店の月刊誌「たくさんのふしぎ」を読んだ記録です。

おしっこの研究 (たくさんのふしぎ傑作集) (第14号)

 いまから「おしっこの研究」というのをやります。

 おしっこというのは、小便とか尿とかいう、あのおしっこのことです。研究というのは、ものをしらべて考えて、もうこれ以上先のないところまでしろうということです。

作者は柳生弦一郎。

からだに関する絵本をたくさん描いている。「かがくのとも」でもおなじみだ。

その絵本は実にユニーク。イラストで一目でわかる。自筆文字をふんだんに使っているところも他にはない特徴だ。

文章量が多いけど、内容も口調も面白いのでするするっと読めてしまう。何よりからだという身近なものがテーマなので、子供たちが自分でも試してみることができる。当の柳生氏も、

この「しらべる」ということについても、これまたいろんなやりかたがあるわけで、たとえば、ぼくがいまから宇宙人をしらべるというときは、ぼくのばあいそばに宇宙人がいないから、宇宙人をみたり、宇宙人にさわったりできないので、宇宙人について書いてある本を読んだり、宇宙人にあったことがあるという人に話を聞いたり、ぼくは宇宙人だあという人にあいにいったりして宇宙人をしらべることになるわけで、これはなかなかやっかいなことになりそうなのですが、おしっこをしらべるのは宇宙人をしらべるのとちがって、すぐ、みたりさわったりしてしらべることができるわけです。あ〜〜〜〜よかった。

てなことを、おっしゃってる。

確かにおしっこも「みたりさわったりして」調べることができるけど……でもうっかり手についちゃったとか以外で、あえておしっこをまじまじ見たり、触ってみたりというのはなかなかない。

では、ちょっと、おしっこを、な・め・て・み・る・か・な?

って言われて、果たして実践できた子供たちはいただろうか?

一日分のおしっこをためてみよう。」というのもある。

家に尿瓶なんてないだろうから、空いた牛乳パックを使ってやってみようと。これも案外ハードルが高い。入院中の人なら病院で指示される場合はあるけど、健康な人があえてやる機会はなかなかないものだ。

おしっことうんこの違い、腎臓で作られることに始まり、おしっこの原料、膀胱の話、おしっこは汚いものなのか?などなど順を追って、おしっこについての話が進められていく。「みみずにおしっこをかけるとおちんちんがはれるというのは────ほんとうか?うそか?」で締めくくられているところが、ユーモアあふれる柳生氏の本らしい。

最終ページは「おしっこ」をキーにしたマインドマップのようなものが描かれている。おそらくこれを元に『おしっこの研究』を作ったのだろうなあと、つまり、子供たちが何かを考えたり、調べたり、知りたかったりする時に、どう取っ掛かりを作ってまとめていくかを提案しているところも興味深い。ちなみに私も、小学校中学年くらいの時に、担任の指導でマインドマップを書いたことがあるが、当時の流行だったのだろうか?

じゃあ「おしっこがでなくなったら、どうなるのですか」?

『おしっこの研究』ではこう書かれている。

 おしっこがでなくなると、血えきのなかにイラナイモノがどんどんたまってしまい、ぼくたちのからだは病気になってしまいます。

そしてその後には→で、

おしっこをするということは、とてもだいじなことなのだ!!

と太字の手書き文字が付け加えられている。

 

先日、NHKのドキュメンタリー、ノーナレ「“悪魔の医師”か“赤ひげ”か」を見た。腎臓移植手術の話だ。レシピエントの手術が終わった後、医師が手術台の下をみずから膝をついてのぞきこみ、ボトルにたまった液体を見て、

「おしっこ出よる。おしっこ出ればええが」

と、マスクごしにもわかる笑顔を浮かべていたのが印象的だった。

タイトルで悪魔か赤ひげかと問われている医師は万波誠。77歳になる今も現役で腎臓移植手術を行っている。

病気腎移植については、当時興味をもって報道を見ていたし、この問題についてのブログ記事にブックマークもしている。それからおよそ10年後、条件付きではあるが認められることになろうとは想像もしていなかった。

万波先生をどう見るのか、悪魔なのか、赤ひげなのかはその人の置かれている立場によるかもしれない。たとえば、自分または近い親族が透析治療などで苦労していれば、万波先生はそれこそ赤ひげにしか見えないだろう。しかし、腎臓を摘出される立場(ドナー)だったら、部分切除で済まないのか、移植目的で摘出を進められているのではないのか、という疑念をもつのはもっともなことだと思う。

私はどちらの立場でもないし、医療現場に関係のない素人だが、万波先生の、ただ目の前の患者のために治療を行いたいという気持ちもわかるし、透析治療で苦しんでいる人たちの、たとえ病気の腎臓でもいいから欲しいと思う気持ちも想像できる。

一方で、治療にはやはりルールを設けるべきだという思いもある。治療効果がわからないなかで、いくら患者さんのためとはいっても「一部の医師だけが勝手に行う治療が、野放しになっている」という状況は好ましいものではない。インフォームド・コンセントがあればいいのではという考えもあるだろうが、医師と患者では情報量・知識量にかなりの差がある。十分な説明の上の同意であっても、未知の治療法である以上、ある意味賭けのようなものにならざるを得ない。

ブックマークしたブログでは、

そうやって禁忌事項を踏み越えられた成功事例というのは、ある段階で、必ず、医学のCommon Knowledgeの中に取り込まれます。多くの場合、それは学会や雑誌などに発表され、追認するものが出て、これまで最良と思われた治療と比較されます。そこで、優れた治療はメインストリームになる。

と書かれているが、病気腎移植がメインストリームになるかどうかは、さらに今後の行末を見守っていくしかないのだろう。

ノーナレでは、当時万波医師を「人体実験」と激しく批判した元日本移植学会幹部の大島伸一医師が、この10年なんだったのだろう、と涙をこらえた表情をしていた。10年は必要な年月だったと私は思う。治療を受ける側としては、10年も!という気持ちはあるだろう。自分や身内が病気腎移植を考える立場だったら、大島先生の方を悪魔として見てしまうかもしれない。

なぜ、大島先生は批判の急先鋒となったのか?それは先生自身、かつて「無脳児をドナーとした小児腎移植」を行った経験があるからだ。無脳症の胎児や乳児は必ず死に至る。ドナーの両親からの同意も得ている。臓器提供によって助かる命があるなら、目の前の患者をこそ救いたいという気持ちは、まさに万波医師と同じものなのだ。しかし「無脳児を人間と思っていないのか」という質問に、大島先生は答えを出すことができなかった。大島先生は「考えると、それは医師が決めてよいことではない。自分たちだけの価値観で物事を決めるのは非常に危ない、と思い知らされた」と語っている*1

過去の苦い経験から、万波医師を批判した大島医師。しかしドナー不足という根本的な問題を解決することはできなかった。もちろん病気腎移植は解決の一端にしかならないけれども、それでももっと早く認められていたら、救える患者さんもいたのではないか。大島先生の表情に苦悩の色が滲んでいたのは、そんな思いがあるからかもしれない。私の勝手な想像にしか過ぎないけれど。

「いつまで医師を続けますか?」という質問に、そんなのはわからない、明日終わるかもしれないし、ただ一日一日やっていくだけだ、と答える万波先生。「大島先生に何かか思うことはありますか?」という質問に、少し黙った後「何にも思わない。でも(医師としての)第一線に戻ったらどうかとは思う」と答える先生。大島先生は、自分が選んだ道をただ黙々と進みつづける万波先生を、少しうらやましく感じているかもしれない。

ノーナレには、当時この「事件」を取材していた週刊誌記者も登場しているが、件のブログを書いた半熟ドクター氏が、

こういう事件は、逆にマスコミ、それもワイドショーの独壇場です。

と書いているとおり、下種い発言を次々に繰り出していたのが興味深かった。

かつてブックマークした記事を、10年以上も経った後、自分のブログで取り上げて書くことになろうとは、当時の自分が知ったらさぞや驚くだろう。月日が経つというのは面白いものだ。10年も経つと、そして経たなくても「お探しのページが見つかりませんでした」という無情なメッセージを寄越すブックマークのエントリーも多い中、半熟ドクター氏のブログは今も現役で、過去の記事を読める状態なのはありがたいことである。

”悪魔の医師”か”赤ひげ”か (出版芸術ライブラリー)

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  • 作者:池座 雅之
  • 発売日: 2019/05/20
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

患者に強い痛みの「筋生検」、代替法を開発 「おしっこから筋肉へ」:朝日新聞デジタル

*1:脳波がある無脳児ドナーより「無頭蓋症(むとうがいしょう)児からの臓器摘出例」