こどもと読むたくさんのふしぎ

福音館書店の月刊誌「たくさんのふしぎ」を読んだ記録です。

ある都市のれきし―横浜・330年 (たくさんのふしぎ傑作集) (第10号)

運転免許証の更新に行ってきた。

自分の本籍地が横浜にあることを久々に思い出した。婚姻届を作成した時、夫の実家の住所にしたからだ。しかしのちに夫の実家は家を売って引越をし、今やその住所にいる関係者は誰もいない。自分とそれに関わる者が、関係のない場所においてひもづけられる事態……戸籍というのはつくづく不思議な制度だと思う。

本号は福音館の紹介文によると、

日本で2番目に人口が多い大都市「横浜」。でも、1656年の横浜は、ほんの小さな村でした。1986年まで330年間の横浜の移り変わりを見ていきます。 

ここで取り上げられる「横浜」は、関内とよばれる中心地のことである。私の本籍地であるところの「横浜」では決してない。そこは「皆がイメージする横浜とはほど遠い地区にある“横浜市”の一部」にしか過ぎないからだ。

 

本書の冒頭「1986年(昭和61年)今、横浜は」に描かれる横浜は、今やもう様変わりしている。そこから30年以上経過しているからだ。横浜みなとみらい21地区はようやく開発が始まったかな?というところ、日本丸メモリアルパークの完成部分だけが一部見えている。横浜のイメージシンボルともいえるヨコハマグランドインターコンチネンタルホテルなぞ、影も形もない。赤レンガ倉庫の周囲は、すでに新港埠頭の役割は終わりかけていたとはいえ、停泊している船もまだまだ多くあり現役の風情を色濃く残している。

様変わりといっても、ここ30年の変化など無いといっても等しい。

なんせ1656年(明暦2年)の横浜は、細長い砂州の上に営まれる細々とした農業と、小舟を繰り出す漁業で生計を立てる、数十戸足らずの小村だったのだから。その後新田開発で農地が広がったとはいえ、1854年安政元年)の時点ではまだまだ静かな農漁村だった。

それを一変させたのは誰あろうこの男だ。

その後、1865年(慶応元年)、1892年(明治25年)、1922年(大正11年)とまちの変化が描かれてゆく。関東大震災後1935年(昭和10年)の様子、1945年(昭和20年)の横浜大空襲を経て、1986年までの復興の様子が描かれている。

面白いのは中華街あたりの軸線がほとんど変わっていないこと。この付近は砂州の中海の埋め立て初期に作られた土地、そのために周囲の通りとは軸線がずれているそうだ。大震災や大空襲を経て、なお変わらないことに驚かされた。どのページ(時代)の鳥瞰図を見ても、ここだけきっちりずれた区画が現れている。

 

「作者のことば」では、自分の町の絵本をつくってみようと呼びかけられている。

どんな遊びがはやっていたかなど聞いてみよう。今の町のすがたも描いてみよう。大きくなったらこんな町になってほしいというイメージも描いてみようと。昔の町、今の町、未来の町、これらを比べてみるともっと面白いはずだというのだ。

「自分の町」を持たない私はこれをうらやましく思う。私が比べられるのは、せいぜい生まれ育った町の数十年の変化くらいなものだ。これからもそこに住む可能性はほとんどない以上、こんな町になってほしいという願いを持つこともない。

子供も同じく、自分の町と呼べるところを持たないけれど、巣立ってゆけば好きな町で暮らすことができる。好きな町に住み着けば、こんな町になってほしいという願いを持つかもしれないし、現実の町づくりに協力することがあるかもしれない。

人口減少が進みつつある日本では、町のダウンサイジングも取り沙汰されている。愛着をもって住み続け、こんな町であってほしいという理想を持つ人がいてこそ、より良い方向に変化していけるものだ。しかし実際は、利害関係の対立もあれば、愛着ゆえに変化を拒む問題もあるしで、幅広い問題が横たわっている。一筋縄ではいかない現実が見えてくるのも悩ましいところだ。