くりばやし、は栗林だ。
農林水産省は、人工的なものを林、自然にできたものを森と定めているらしい。
『くりばやし』の木は、人が果実を採るために植えているから、まさに林なのだ。
表紙を見れば、等間隔にリズムよく並んでいる。自然の中で同じ種類の木が、等間隔に生えることは決してない。この不自然さこそが『くりばやし』の美しさを生み出しているのだ。
幾何学的な美しさというのではない。同じものが規則正しく並んでいる様は、確かに気持ちのよいものだが、見ていると逆に個々の違いが際立ってくる。同じように見えて、ひとつとして同じ木はない。
何だか学校のようにも思えてくる。整列した児童たち。同じような年代だけれど、背の高さが違えば、枝の付きぶりも違う。春、一斉に芽吹いて葉を繁らせるけれど、旺盛に枝や葉を伸ばす木もあれば、こじんまりとまとまっているものもある。花や実のでき具合が違えば、葉を落としきるタイミングも少しずつ違う。
収穫という目的からすると、大粒で食味がよい実を多くつける木が優秀ということになる。しかし、作者の目はそこにはない。どの栗も「価値」は等しいのだ。どの木も同じではない、かけがえがないということで、皆等しいのだ。
「作者のことば」では、
「林」と「森」、違いはあってもどちらにも数えきれない、同じではないものがいっぱいある、と言いたいのです。たくさんあることは希望につながると思います。これだけしかないよ、というよりも「いっぱい」や「たくさん」には複雑ですぐには分からないことがあふれているから、そこには夢があると思いませんか。
と述べられている。
こんな頭で考えた感想も出てくるけれど、この号を手にとって読む人は、そのまま樹々の美しさに心を動かされるはずだ。私もそうだ。季節とともに変化する木の様子に、ただ無心に見入ってしまう。冬の朝、雪の上にたたずむ様子は、何ともいえない静謐な美しさにあふれている。グッと来たのは夏の日の夜。「昼間はもちろん、夜の間にも木は大きくなります」というキャプションと共に、薄暗い中に立つ様子が写されている。夜も成長する、というのは思ってもみなかったところだ。見開き左ページでの昼間の様子との対比も効いている。真夏の太陽をたっぷり浴び生命力をみなぎらせる木は、静かに寝ているように見えて、ぐんぐん大きくなろうとしているのだ。
観察一年目、実は熟さないまま落ちてしまっていた。二年目の秋、木の下には爆ぜたイガと実が転がっていた。桃栗三年とは言われることだが、秋の日に照らされつやつやと光る実が愛らしい。
「たくさんのふしぎ」らしい、素晴らしい絵本だった。
- 作者: 姉崎エミリー,姉崎一馬
- 出版社/メーカー: 福音館書店
- 発売日: 2018/10/03
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