こどもと読むたくさんのふしぎ

福音館書店の月刊誌「たくさんのふしぎ」を読んだ記録です。

すれちがいの生態学 キオビベッコウと小道の虫たち(第388号)

わたしは蜘蛛がなにより苦手だ。

ムカデに熱湯をかけることも、ゴキブリを叩き潰すことも厭わないが、蜘蛛だけはどうしてもダメだ。さすがにハエトリくらいは慣れた(見なかったふり)が、ジョロウグモコガネグモサイズは冷や汗もの。アシダカグモは問題外の問題外の問題外。抜け殻すら恐ろしい。鹿児島住みの頃は、あれが頻繁に出た(実際のところは合わせて10回も見ていない)ので、本当に恐怖だった。現れたが最後、その部屋には絶対入れない。夫が帰宅して追い出すまでは絶対に。害はないといわれようが、益虫といわれようが、そんなのは関係ない!のだ。

アリグモなどは平気。クモに見えないから。「蜘蛛らしいかどうか」という外見の問題なのだろう。「生理的に受け付けない」というのは、外見など生まれもって変えることのできないことに対して無情な物言いだが、だからこそ、内面の理解に努めようとするのが人間らしいあり方なのかもしれない。にしても、加治木くも合戦はきついイベントだった……(加治木まんじゅうはおいしいけど)。

 

本書の主人公、キオビベッコウはハチなのに、なぜクモの話?彼らの獲物はクモなのだ。好物はコガネグモ。同じ仲間のオオベッコウバチなどは、英語でタランチュラホーク(Tarantula hawk)と呼ばれ、タランチュラを狩っている。げえ……。

ちなみに、ベッコウバチの仲間は、クモバチ科として分類し直されている。子供の昆虫図鑑『DVD付 昆虫 (講談社の動く図鑑MOVE)』でも、キオビベッコウはキオビクモバチとして記載されている。蜘蛛専門のハンターであること、必ずしも鼈甲色とは限らないこと、から変更になったようだ。ベッコウの方が風情があっていいと思うのは、蜘蛛嫌いゆえだろうか。

蜘蛛狩ってくれるんだから、ベッコウバチは大歓迎なのでは?と思われることだろう。しかし、狩られた蜘蛛の行末は“悲惨”そのものだ。麻酔をかけられ、巣に引きずり込まれ、卵を産みつけられる。生きたまま(仮死状態)幼虫のエサになるのだ。人間の感傷とはいえ、気の毒に思えてきてしまう。

本書のタイトルである「すれちがい」とは何か?

キオビベッコウのメスは、巣作りをするためにやってきた場所で、どんな生き物とどのような出会い(すれちがい)があるのか。

ということだ。

結論からいえば、キオビベッコウのメスがいちばん出くわすのは、同じキオビベッコウのメス。キオビベッコウは巣作りする砂地にこだわりをもっている。適した場所が限られる以上、同じような場所に集まってくるのは当然とも思われる。

とはいえ、お互い干渉することなく、知らぬふりで仕事に勤しんでいるんじゃないか?意外にもそこには、さまざまなドラマが繰り広げられていたのだ。

集まってくる、といってもてんでばらばらな時間ではない。規則正しい一日を送るキオビベッコウは、朝夕同じような時間帯に、おなじ砂地に集まってくる。メス同士が朝夕集まってくるなんて、井戸端会議みたいな様相だ。

ハチたちはご近所同士の触れ合いのため集まっているわけではない。そこはある意味戦場なのだ。時に出し抜き出し抜かれ……といった神経戦、直接対決の肉弾戦、カマキリが参戦しての“異種”格闘技まで見ることができる。

砂地のキオビベッコウたちは、ミツバチやスズメバチのように、協力して子そだてをすることは、もちろんない。むしろ、おたがいは、できれば出会いたくない敵であり、ライバルである。しかし、そんな彼女たちもまた、おたがいの存在がなくてはなりたたないくらしをおくっている。(略)そこには、出会いたくないのに、その相手を身近に必要とする矛盾をかかえた、フクザツな生き方があった。

なぜ、ライバルである同種のメス同士、井戸端会議ならぬ井戸端戦争をしなければならないのか?そこはぜひ、本号を手に取って読んでみてほしい。滅法面白いドラマが見られること請け合いだ。

男ども(オス)は何やってんだ……と思って、あらためて図鑑を見てみたら、大きさも模様もまったく違うハチ同士が並んでいた。あまりに違う外見なので、かつては別種だと思われていたそうだ。オスは何してんだろう?交尾だけ?