子供には、“おばあちゃんち”がない。
夫の両親も私の両親も健在なので、おばあちゃんちはある。
しかしながら、双方とも、ふるさと、帰省という言葉からかけ離れた場所だ。
私の実家は田舎っぽさが残る地域だけれど、ニュータウンと呼ばれる住宅地。
夫の実家に至っては、タワーマンションだ。
家の鍵含め4つのバリアを突破しないとたどり着けない、ある意味秘境のようなところだ。
私たち夫婦の両親は、4人とも地方の出身。
だから私たちには“おばあちゃんち”があった。
遠いから滅多に行けなかったけれど、夏休みは長いこといて、祖父母たちと過ごしていた。おじさんおばさん、いとこたちも来て一緒に遊んだりもした。
子供が生まれ育ったのは地方のまち。
多くの人たちが、盆や正月に帰る「ふるさと」の方だ。
その私たちが帰省する場所は、ニュータウンであり、タワマンなのだ。
おまけに一人っ子の私と、きょうだいが未婚の夫では、子のいとこすら存在しない。
帰省が楽でいいじゃない、私もそう思っていた。
逆方向だから、交通渋滞も、チケットの争奪戦も無縁だ。
でも、子供は、私たちが経験したような田舎の開放感、わくわくするような特別感を味わうことはない。“おばあちゃんち”で過ごす夏休みは、ファスト風土化が進む街のショッピングモールであり、タワマンが立ち並ぶ人工的な街だ。
子供にとって、楽しいと感じられるところだろうか?
都市は、子供にお行儀を要求する。
電車やバスに乗れば動くな騒ぐなと注意され、大人のテンポや時間に否応なく急かされる。ゆったりのんびり過ごせる場所ではないのだ。
家の子は、私たちが過ごしたような“おばあちゃんち”がなくてかわいそうだ。
しかし、こんなのはただのノスタルジーにしか過ぎない。
「私にとって都市も自然だ」と書いた日野啓三を引くまでもなく、これが子供にとっての、“おばあちゃんち”であり、帰省なのだ。
『おぼん ふるさとへ帰る夏』は、そんなノスタルジーが目一杯詰まった絵本だ。
かつて私が、たぶん夫も過ごしたであろう夏休みそのものが描かれている。
じいちゃんばあちゃんがうれしそうに出迎え、何はさておきご先祖様へのご挨拶を済ます。仏間の長押に並ぶはご先祖様たちの遺影。
この人は戦争で死んだとか、病気で死んだとか、あれは誰々のきょうだいだよとか。ご先祖たちにまつわる昔話を聞かされたものだ。モノクロ写真に囲まれた仏間がちょっぴり怖かったのも覚えている。
おばあちゃんちには、仏間には、「死」が存在していた。戦争の名残も。
ひとことにお盆といっても、各家庭、地域それぞれ風習があるのはご承知のことだろう。この絵本は酒田が舞台。精霊馬を作ったり、大きな精霊棚を整えたりと、念入りに準備をしている。吊るされた精霊馬のなかに、主人公の「ぼく」が作った宇宙戦艦のプラモデルが混じっているのが面白い。
うちのばあちゃんちでもお盆の準備をしていたはずだが……精霊棚も精霊馬も見たことがない。飾るものといえば盆提灯くらいだったように思う。
都下にある現住地の街でも、お盆の頃、精霊馬が道ばたに供えられていたりする。
地主さんが健在の土地で、畑や田んぼが残り、昔からの人が多く住んでいるところだからかもしれない。
本を見た子供が、これ作ってみたい、作ろうよというので、誰に帰ってきてほしいの?と聞くと、ひいばあちゃん、ひいじいちゃんと言う。
息子が、夫の父親の田舎に行ったのは、幼いときのことだ。数えるほどの回数の、ほんの短い滞在だったけれど、楽しい思い出として残っているようだ。
ひいばあちゃんと野菜を取りに行ったり、ひいじいちゃんと川に遊びに行ったり。『おぼん』にも描かれている風景だ。外遊び大好き、自然大好きという子供にとって、この田舎こそ、“おばあちゃんち”だったのかもしれない。
祖父母は口をそろえて、ここはエツって魚が獲れるんだよ、おいしいんだよって何度も話してくれた。しかし、漁期が限られているため、ついぞ口にすることはなかった。二人はきっと、曾孫に食べさせてやりたかったのだろうなと思う。
最終ページに描かれるは見送りのシーン。空港の保安検査場ごしに何度も手を振る祖母や、実家の最寄駅で名残惜しそうに見送りする母の姿を重ね合わせ、ちょっぴり切なくなった。
今は、山形の祖父母とも死んでしまいました。それでも、ぼくと新せきは、祖父母への愛情でつながっています。
お盆は、ご先祖様という過去の家族から、現在と未来へ「家」をつないでいく行事なのでしょう。(本号「作者のことば」より)
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