こどもと読むたくさんのふしぎ

福音館書店の月刊誌「たくさんのふしぎ」を読んだ記録です。

極夜の探検(第419号)

真っ黒な表紙。
たくさんのふしぎ」のタイトルロゴは濃いグレーに沈み、『極夜の探検』の題字、作者名だけがほの白く浮かび上がっている。
こう来たか、と思った。

この体験を探検を、絵本にすることができるのだろうか。
絵を付けて表現することは可能なのか。
作者は物書きなので、言葉を使って表現することはできる。
極夜行』がそれだ。
でもこれは絵本だ。文章と絵の、両方が「揃っていなければ」作れない。

極夜の探検は、あまりにも抽象的なのだ。
角幡唯介が体験したすべてを、見たものを、追体験するには想像力をフルに働かせなければならない。冒頭の、

太陽を見てみたい。
それも本物の太陽だ。

というところから、想像力が必要だ。
なぜ太陽を見るために、極夜を旅しなければならないのか。
なぜ、GPSの時代に六分儀なのか。
「どうして私たちを置いてグリーンランドくんだりに行くわけ?」*1か。

頭ではわかる。理解できる。想像もできる。いや……できないかな、本当には。
本物の太陽とはどんなものなのか。
極限状態からの、あれは、すごいんだろうな、こんな感じかな、と気持ちを高めてみるものの結局は想像力の限界に気づく。
どんな絵を描いても、角幡唯介の味わった体験に追いつくことはできないのだ。

正直「本物の太陽」より印象的だったのは、生命の危機にさらされているという極限状態の方だった。
事前にデポしていた食料をホッキョクグマに食い尽くされるという絶望的な状況。旅の相棒であるウヤミリック(犬)とのひりひりした関係や、彼を食う直前まで追いつめられる様は、おそらく「たくさんのふしぎ」の40ページでは描ききれないものだろう。

それでは、この絵本は意味のないものなのか?
そうではない。
極夜と言っても、表紙のような暗黒の一色ではなく、さまざまな色合いがあることがわかるのだ。月明かりに照らされる大地、星々に支配される空、闇の世界がじわじわと明けていく様。角幡唯介が見た風景そのものではないけれども、山村浩二がそれを「見た」絵だ。

私は私で『極夜行』を読んで「見た」風景があり、読んだ人それぞれに見た絵がある。あたかも読んだ本が映画化されて、それを見ているような、不思議な感覚がある。

子供たちは『極夜の探検』を読んで、果たしてどんな心象風景を描くのだろうか。

今月の新刊エッセイ特別編|角幡唯介さん『極夜の探検』|ふくふく本棚|福音館書店公式Webマガジン

極夜の探検 (月刊たくさんのふしぎ2020年2月号)

極夜の探検 (月刊たくさんのふしぎ2020年2月号)

極夜行

極夜行

角幡唯介には幼い娘がいる。
もっと成長して本を読むようになるころ、『極夜の探検』はきっと、父の仕事を垣間みる最初の本になるかもしれない。
なーんて想像してみたけれど、娘ことペネロペちゃんこと「角幡あお」嬢は、父親を理解しない可能性がある。『探検家とペネロペちゃん』を読むとそう思うしかない。よくこんな気色悪い本を出す気になったな。まあ彼は娘の理解なんか欲していないだろうけど(かっこいいとは思われたいらしい。でもこの本で台無しだよ)。
角幡唯介の書くものはこの本も含め好きだけど、彼の妻やそして娘じゃなくて本当によかった。物書きというのは、ときに自分の家族さえネタにする生業とはいえ『探検家とペネロペちゃん』は、その物書きの業というものをまざまざと見せつけてくる。
奥さんもよくこの男*2と結婚したものだ……。ともあれペネロペちゃんの未来に幸あれ。

探検家とペネロペちゃん

探検家とペネロペちゃん

*1:『探検家とペネロペちゃん』62ページより。角幡氏の、娘との架空の会話上の言葉。

*2:学生時代に「この男」を見ていた可能性がある。私が所属していたサークルの部室が、探検部のすぐそばにあったからだ。もっともその頃、探検部はアマゾン川での事件もあって大変な時でひっそりとしていたけれど。