NHKスペシャル「ヒグマと老漁師~世界遺産・知床を生きる~」を見た。
NHKオンデマンド | NHKスペシャル 「ヒグマと老漁師~世界遺産・知床を生きる~」
知床の海でサケやマスをとってきた一人の漁師が、ヒグマとともに生きる様を描いたものだ。その漁師、大瀬初三郎さんは、ヒグマが頻繁に出没する海岸に番屋を建て漁を営んでいる。作業をする横ではヒグマがうろついているが臆することはない。だがクマが近づきすぎたり、獲った魚に手を出そうとしたりすると、大声をあげて叱りつける。
番組では“老漁師”と呼ばれる大瀬さんも、2009年出版の「たくさんのふしぎ」ではまだ“漁師”だ。
大瀬さんが番屋を建てた頃(50年ほど前)、知床を始め道内各地はヒグマの害に見舞われており、駆除することが当たり前だったという。大瀬さんも、最初はクマがとても恐かったようだ。ところがヒグマの行動を観察するうちに、危険というのは思い込みであり、駆除をしなくてもやっていけるのではないかと思い始めた。こうして番屋では、1989年を最後にヒグマの駆除は中止された。
近づきすぎたら、かならず追い払ってやる。あまりにも近くまで侵入された場合、危険ということも考えなければならない。クマと人間との距離を、ある程度おかなければだめだ。
クマとの距離をおくというのは、単に怒鳴りつけて近づくなと威嚇することだけではない。小屋に立ち入って食べものを漁らせないようにしたり、生ゴミを放置して引き寄せることのないようにしたり、決して餌付けをしないよう注意したり。
餌付けなどするわけがないと思われるだろうか。番組では、かつてない不漁の年、飢えたクマたちが命を落とす場面もあり、さしもの大瀬さんも苦渋の色を浮かべる様子が撮影されている。それでも決して餌を与えてはならないのだ。
人間のいるところに行けばエサがある、人間はエサをくれる、そう思われたら大変だ。それをうばおうとして人を傷つけるかもしれないでしょ。
だから、痩せ細った熊たちを前に大瀬さんにできることといえば、うちあげられたイルカの死骸を、ヒグマたちが存分に食べられるようロープで止めてやることだけだった。
番組でも本書でも、大瀬さんがヒグマに向ける眼差しからは、知床で生きるもの同士、「隣人」としての情を感じることができる。隣人ではあるけれど、一歩付き合い方を間違えればお互い不幸な結果を招くことになる。長年当地で漁を続けてきた大瀬さんには、付近で暮らすクマたちなど、ある種知り合いみたいなものだろう。名前こそ付けていないだろうが(ときに愛称で呼ばれる個体もいそうだけれど)、個体の識別はできるだろうし、クマ同士の力関係なども見えているはずだ。子熊が生まれ、その熊が子供を産み、ときに大瀬さんに怒鳴りつけられ追っ払われ、年をとって死を迎える。そんなクマたちを隣で見続けてきたからこそ、一線を引いた行動を守り続けてこられたのだと思う。
本号出版時は世界遺産登録間もない時期だった知床も、それから15年が経過した。番組ではユネスコの調査団が訪れる様子も撮影されている。調査団を迎える大瀬さんの表情はどこか不安げで、クマたちと対峙する時の迫力は失われている。大瀬さんにとって、ユネスコの人々は同じ種であるはずなのに、ヒグマたちよりはるかに遠い存在として感じられているように見えた。