『馬と生きる』の裏表紙見返しには、遠野物語からのオシラサマの話が紹介されている。
百姓の娘が家の飼い馬と恋仲になるが、怒った父親によって馬は殺されてしまう。死んだ馬にすがりつく娘に腹を立てた父親は、馬の首を切り落とす。刎ねられた首に飛び乗った娘はそのまま天に上がり、おしら様という神になった話だ。
昔話や伝説として取り扱われるお話だろうが、ひょっとすると、フィクションとは言い切れないものかもしれない。
『聖なるズー』という動物性愛を取材した本には、馬を愛する男が出てくる。動物性愛なんて眉をひそめるどころか、吐き気さえもよおす人もいるかもしれないが、『聖なるズー』の取材姿勢は至って真剣そのものだ。際物扱いせずに一読する価値はあると思う。真剣すぎて危うささえ感じてしまうほどだ。
「ズー」とは動物園のことではもちろんなく、ズーファイル(zoophile)の略で、動物性愛者たちは、みずからをそう称しているという。著者が出会ったズーたちは、ほとんどが犬をパートナーとしていたが、次に多かったのが馬。彼らは「ホース・ピープル」と呼ばれている。
ズーたちは、パートナー(動物)の「パーソナリティ」に惹かれているという。人が、ある人の性格や雰囲気に惹かれて恋愛するのと同じような感じだろうか。犬と馬は、比較的コミュニケーションを取りやすい種であり、歴史的に見ても人間と深く関わり合ってきた種だ。だからこそ、犬と馬が選ばれやすいのだろうと著者は推測している。
人間と深く関わり合っている動物なら、猫などの愛玩動物や、牛や羊などの家畜だっている。しかし、人間の片腕として「仕事」をしてきた動物といえばやはり犬と、そして馬だ。『馬と生きる』は、そのような、馬と人とが一緒に働き生活する様を描いたものだ。
今は機械運搬に頼っている林業も、50年ほど前までは馬を使って木を運び出すことが主流だった。本書の舞台である遠野にも、かつては「地駄引き」をする「馬方」がたくさんいたという。
そんな遠野に残る馬方の一人*1が、見方芳勝さんだ。見方さんと馬との付き合いは、子供の頃にさかのぼる。見方さんの家では、田んぼの作業に馬を使っていたのだ。トラクターや機械は人間の思うがままになるが、馬はそうはいかない。見方さんが馬との付き合い方を学び始めたのは、この少年時代からなのだ。
見方さんの家は曲り家で、まさに馬とひとつ屋根の下で暮らす生活をしている。同じ家で生活する馬は、まるで家族の一員のようにも見える。仕事帰りに川で身体を洗ってやったり、のんびり散歩して好きな草を食べさせたり。しかし、馬はあくまで仕事のパートナーだ。家族の一員のように見えてそうではない。見方さんが馬を愛し、大切に思う気持ちは疑いようがないものだけれど、同時に、馬との付き合いに一線を引くということも心に留めてきたように思う。
本書の最後には、2017年春、見方さんは、足を痛めて働くことができなくなってしまったと書かれている。見方さんの馬は、後継の「馬方」と共に生きることになり、遠野の地駄引きの伝統はかろうじて続くことになった。しかし、現状を考えれば地駄引きも馬方も、いずれ消え去る運命にあるものかもしれない。この本は、地駄引きという仕事の、馬方という生き方の、一つの記録になるものだといえる。だがこれは、失われゆく伝統の単なる記録の話ではない。見方さんという一人の男が、馬と共に生きてきた姿を描いたものなのだ。見方さんが馬とどう心を通わし、「馬たち」とどう別れてきたのか。本書を読んで、そこのところをぜひ感じてみてほしい。
- 作者:澄川 嘉彦
- 発売日: 2019/10/03
- メディア: 雑誌