たくさんのふしぎには、勝手に「…シリーズ」と呼んでいるものがある。
『ほら、きのこが… (たくさんのふしぎ傑作集)(第127号)』
『ここにも、こけが… (たくさんのふしぎ傑作集) (第195号)』
と、この『どこでも花が……』の3冊だ。
どれも身近な、だれでも、子供でも、どこででも見つけられるようなものを題材にしている。
『どこでも花が……』に出てくる花も、きのこやこけと同じく、自然に生えているもの。
でも、どれも、見ようとしなければ見えないものだ。
きのこもこけも、路傍の花も、しっかり目を留めなければ、意識されるものではない。単なる背景のようにチラッと映るか、目にも入らず通り過ぎるだけだ。
いったん目に留まれば、きのこもこけも花も、その美しさを存分に見せてくれる。野鳥のような動物たちと違って、さっと飛んでったりしない。じっくりゆっくり観察できるのだ。
コンクリ壁面の穴から伸びる、小さな花たち。ヒメオドリコソウとカラスノエンドウだ。場所を奪い合うように咲く二つの花。いわゆる雑草だけど、新手の投げ入れと思えば素敵に見えてこないだろうか?
草屋根の天辺にはヤマユリ、コオニユリがちんまり咲いている。人の手を借りない天然の花壇だ。歩道のアスファルト、U字溝の泥の上、土管のなか、水路脇の壁、石垣のすき間……人工物などものともせず、わずかな培地さえあれば、芽をだし花を咲かせるのだ。
「どこでも」とあるとおり、咲くのはもちろん、人の暮らす場所だけではない。
里山の雑木林には、春いちばん乗りの“スプリング・エフェメラル”たち。冬の土気た地面を可憐に彩るさまは、来る春のよろこびを先どりしてるみたいだ。
春から夏、高山の岩場や崖を彩るのは高山植物たち。山の緑に色とりどりが映えて、登山の疲れを癒してくれる。『立山に咲くチングルマ(第323号)』で紹介した、イワギキョウ、ハクサンフウロも登場している。
水気の多いところも格好の生息場所だ。湿原、小川、池の中……雪どけ水のなかにさえ咲く花もある。潮風や砂地の乾燥にだって負けず咲くものがある。
それぞれの場所で息づく花を見ていると、ここで生きている!と主張する植物の声が聞こえてくるようだ。置かれた場所で生き延びて、花を咲かせる。自力で動けない植物たちは、根付いた場所の運を天にまかせるしかない。人間からすれば、美しいだの可憐だのいう言葉で修飾される花も、咲かせる方にとっては命をつなぐ一大事だ。
植物の生活は、知れば知るほど不思議がいっぱいです。たとえば、花粉を運んでもらうために色とりどりの花や甘い香りで昆虫を引きよせる一方、動物に食べられないようにトゲや毒で武装している植物があります。さまざまな役目をしている花弁やガク片、雄しべなどが、葉が進化したものだということも驚きです。(本号「作者のことば」より)
本文そのものには、植物のこんな“ふしぎ”は書かれていない。シンプルな説明がつけられているだけだ。解説をし過ぎないことで、逆に花の姿がグッと引き立つ。花々の写真が雄弁に生きざまを語っているからだ。こんなとこにも、あんなとこでも咲くんだ!と素直に驚嘆するだけで十分なのだ。
ふしぎ新聞内「ふしぎ博物館 98」のテーマは、“そこにしかいない小さな生き物たち”。以下の4種が紹介されている。
シノハラフサヤスデ、カントウイドウズムシ、ヨコハマナガゴミムシ、ホンドワラジムシ。
どれもこれも数センチにも満たない生きものたち。しかも生息地はごく限られた場所だ。カントウイドウズムシに至っては「茨城県の2ヶ所の井戸だけでしか生息が確認されていません」て。見つけたとしても、ただのプラナリアじゃね?で終わってしまいそうな生きものだ。これもきちんと目を向けて観察した人がいたからこその発見だ。子供はホンドワラジムシが龍泉洞にしかいないと知って、見に行かないと!と意気込んでいたが、果たして見つけることができるだろうか?