こどもと読むたくさんのふしぎ

福音館書店の月刊誌「たくさんのふしぎ」を読んだ記録です。

アメリカ・インディアンはうたう (たくさんのふしぎ傑作集)(第18号)

朝刊を読んでいたら、『アメリカ・インディアンはうたう』に触れた記事が出ていた。

多彩な音楽の絵、詩の「片思い」 故堀内誠一さん×谷川俊太郎さん、『音楽の肖像』出版:朝日新聞デジタル

 民族の多様性や社会的弱者へのまなざしをたたえた『アメリカ・インディアンはうたう』(金関寿夫著)では、民族衣装や装飾などの膨大かつ詳細なスケッチを。『こすずめのぼうけん』(ルース・エインズワース著、石井桃子訳)では、物語に実際に出てこない場所も含む、大自然の絵コンテを残している。

本書に載るのは「民族衣装や装飾などの膨大かつ詳細なスケッチ」の、ほんの一部ということになる。見て、調べて、描いて、たくさんの積み重ねを経て厳選したものが、この本のイラストなのだ。だからこの本は、絵だけ見ても楽しめるようにできている。もちろん、絵だけ見てもというのは、文は読まなくてよいという意味ではない。低学年あるいはもっと下の年齢でもよめるということだ。本当の意味で楽しむためには、文章と絵、両方が必要なのは明らかだ。

たとえば、16〜17ページの食文化の話。トウモロコシの調理法や、メイプル・シュガーの作り方、ワイルド・ライスの収獲方法まで、文章を補足するようにイラストが細かく付けられている。18〜19ページの住文化、20〜21ページに描かれる衣文化も同様だ。こういうものは、文章だけ読んでもなかなかイメージしにくいものだ。詳しいイラストがあることで、生活の一部だけでも想像することができる。カラフルに詳しく細やかに描かれた絵。子供のころ読んでたら、すごくわくわくしただろうなあと思った。

衣食住の文化は、目で見えるものなので、おおむねはイラストでも伝えることができる。しかし、本書のタイトルは「アメリカ・インディアンはうたう」だ。メインとなるのは「アメリカ・インディアン(呼称の問題はいろいろあるが、本書に準じて“アメリカ・インディアン”で統一する)のうた」とその文化ということになる。「アメリカ・インディアンのうた」というのは、口承文化のなかに入るものだ。実際のパフォーマンスを通じてのみ、伝えられるものなのだ。口承文化を本という形で伝える矛盾。イラストの力を借りても、表現するのはなかなか難しい。肝心のメロディやリズムを伝えることはできないからだ。

著者自身も、子守歌を紹介したページで、

 インディアンにも、子どもをねかしつけるための子守歌がたくさんあります。ふしまわしがわからないのはくやしいけれど、読むだけでたのしくなる歌も、少なくありません。

と書いている。

アメリカ・インディアンのうた」は、“音楽”の類に入るものだろうか? 

 インディアンは、自分たちがとなえることばには、霊の力があることをしんじています。ことばには、魔法のように、自分がねがっていることを、じっさいにおこしてくれる力があると思っています。

 だから、インディアンは、わたしたちのように、たのしみのために歌をうたうこともあるけれど、いくさに勝つことや、豊作をいのって歌をうたうことのほうが、ずっと多いのです。

アメリカ・インディアンのうた」は、単なる娯楽や余興ではなく、彼らにとって生活の一部であり、なくてはならないものだったのではないだろうか。アイヌ口承文芸のように(『アイヌネノアンアイヌ(たくさんのふしぎ傑作集) (第55号)』)。

おれは歌だ おれはここを歩く』に寄せられた解説文には、次のようなことが書かれている。この絵本は、金関寿夫氏の訳詞をもとに、秋野亥左牟氏が絵を描いたものだ。秋野亥左牟は、金関氏の著作『魔法としての言葉―アメリカ・インディアンの口承詩』にインスピレーションを受け、ペンと墨で11点もの絵を描きあげたのだ。絵本の続編には『神々の母に捧げる詩』もある。

 ところで、彼らの口承詩について、まず真先に特筆すべきことは、彼らの詩が、私たち近代人の詩のように、個人の魂の叫びだとか、言語美の創造とかいった動機によって作られることは絶対にないということだ。第一どの歌も、そもそも誰が作ったかということは分らないし、それを作った人物が誰であろうと、自分が詩人だという意識は、その人物には皆無なのである。アリス・フレッチャーという人類学者は、その辺のところをこう説明している。「アメリカ・インディアンの詩とは、人間と、宇宙のなかの、眼に見えない存在との間に交わされる伝達の手段なのだ」と。

 つまり詩は、一種の「実用」の道具だ、ということである。(『おれは歌だ おれはここを歩く』解説「アメリカ・インディアンの口承詩」より)

口承文化と縁遠い私たちの生活では、口に出すことばに霊力が宿っていること、詩は「実用」の道具である、とはなかなか腑に落ちるものではない。しかも前述のとおり、詩は字面をおうものではなく、音になることで初めて意味をなすものなのだ。

音に、声になる……もともとの原詩はアメリカ・インディアンそれぞれの部族特有のことばで作られているわけだ。それを英語という文字で書き表したものを、さらに日本語に翻訳したものがこれらの本の訳詞なのだ。金関氏もその辺の限界を率直に語っている。

私は単にアメリカ文学の学徒であって、人類学者や民族学者ではないこと。だからアメリカ・インディアンの歌(詩)を翻訳紹介する場合、そうした学問的な角度からはそれを取り扱わない。したがってこの本の目的は、なによりもまず「文学的」でなければならない。つまり私は、アメリカ・インディアン詩の、詩としての魅力を、なるべく多くの日本の読者と、分かち合いたいのである。

 といっても、ここに一つの大きな問題がある。翻訳の問題である。文学、とくに詩の翻訳の場合、原詩の音楽性を日本語で再現することは、どんな才能をもってしても不可能なこと、これは言うまでもない。もとの言葉と日本語との、音韻体系が、まったくちがうからである。つまり詩においては、言葉のひびきや音の流れ(リズム)が、詩の、いわば「生命」になる。言葉の「意味」は翻訳できても、「音楽性」を翻訳はできない。せいぜいできることは、日本語として、、、、、、 流れのいい、つまり聴いて快い言葉になおすこと位であろう。もちろんその場合、原語のもつリズムとは、まったく似ても似つかぬものになることは、覚悟しなければならない。

 一つの言語からもう一つ別の言語への翻訳の場合でも、このとおりなのに、私がここで紹介するインディアンの詩の場合は、文字を持たない彼らの口承詩を一度英語で表記したものを、さらに日本語に置き換えるという、いわば二重の手続きを踏むことになる。(記録された、、、、、インディアンの詩には、英訳されたものしかないから、英訳を使わざるを得ない)その場合、まずインディアンのある部族語が英語になった瞬間、もとの詩の持つ固有の音は、すでに跡かたもなく消えている。ところがこの本の場合には、その英訳されたものを、今度はまた日本語に直すのだから、日本語訳の、原詩からの距離は、普通の翻訳の二倍になるというわけである。しかしこれは、残念だが仕方ない。

 つぎの問題はもっと厄介かもしれない。それは後述するアメリカ・インディアンの詩が持つ本質的な性格に関係している。彼らの詩を日本語に翻訳して紙の上に印刷しても、それは私たちが考える「詩」として、立派に通用すると思う。だがもとの詩が本来もっている呪術的な性格のことを考えると、そういうふうに記録され、印刷された「作品」ーー静止したものーーが、それが初めに持っていたものーー動的なものーーを、はたしてどれだけ伝えているか、まことに怪しいものである。

 つまり理想を言うなら、それを聴いたり読んだりするものは、部族、ないし共同体の全員が持つ「神話」を、彼らと共有していなければならない。そういう信仰的裏づけがないかぎり、そこで発声されている言葉は、しばしば無意味か、あるいは退屈にひびくにちがいない。そのうえ、こうした形で機能する詩は、それが実地に発声される時の条件によって、おそらく強く支配される。つまりその場のパーフォーマンス(発声者たちの声の出し方、身振り、アドリブなど)の質に関係してくるだろう。つまり臨場感というものが大切なのである。(『魔法としての言葉―アメリカ・インディアンの口承詩』16〜18ページより)

ナバホの人たちに聞く(第163号)』でも見たように、アメリカ・インディアンのことばや文化は、その土地に、大地に深く根ざしたものだ。その土地、その場で儀式や祭礼に臨まないと本当には理解できないものかもしれない。

それでは、日本語という文字に引き写された詩は、意味をなさないものなのだろうか?否、ことばが力を失っていたなら、秋野亥左牟に描かせるはずがないではないか。『神々の母に捧げる詩』のあとがきで、亥左牟の妻、和子氏が語るとおり「長い年月に幾世代にわたって口伝えに紡がれた言葉の力がイサムの中に入り込み描かせた」のだ。アメリカ・インディアンの詩のもつことばの、魔法の力が、英訳にも、金関氏の日本語訳にも力を与えたのだと思う。

『おれは歌だ おれはここを歩く』、そして『神々の母に捧げる詩』で描かれる世界は、自然の力に満ちた素晴らしいものだ。とくに『おれは歌だ おれはここを歩く』。力強い黒で表現された詩の数々を順々に味わっているさなか、突然「守り神の歌」で真っ赤な色が飛び出してくる。そこからは色の世界だ。かと思えばまた黒の世界に支配され、最後の「岩」もまた、黒と白を効果的に使った画で締めくくられている。線と色の力で、アメリカ・インディアンの詩の世界を、こんなにも表すことができるとは驚きだ。自然と自分が一体となり、心の底からわーっと叫びたくなるような力が湧き上がってくる。 

 

『おれは歌だ おれはここを歩く』『神々の母に捧げる詩』が、詩のもつ原始的な世界をそのまま描き出しているのに対し、「たくさんのふしぎ」はもう少し落ち着いたタッチで描かれている。詩だけでなく、アメリカ・インディアンのくらしや世界観の説明など“散文”も取り扱っているからだ。ページによって内容によって、スタイルを違えて描き出すさまは、まるで異なる人が描いているようでもある。説明がメインのページは細やかに、詩やお話が載るページは内容に合わせ力づよくあるいはコミカルにと、描き分けているのだ。

絵本作家のアトリエ 2*1の「堀内誠一」の章にはこう書かれている。

 堀内絵本の特徴の一つが、作品ごとにスタイルが違うということだ。「文章を読んだ時にまずパッと浮かんだものをすぐ描いて、それがプロットとしてほとんど変わらなくなっちゃう場合が多いですね」と語ったように、物語の本質を瞬時につかみ、それに合った表現をつねに考えていた。

「とにかく、絵本の絵っていうのは、たんに事物を示すだけじゃない。それだけじゃ絵でもないって言えますね。テキストをいかに味わったかを伝えて、結局のところ子どもの魂を引き上げるってことができなきゃね」。

 長年の修練と膨大な勉強量に支えられた引き出しの豊富さが、多彩な表現を可能にしたが、表現を選びとる元には、物語への深い敬意があった。(『絵本作家のアトリエ 2』30〜31ページより)

 

アメリカ・インディアンの詩を、詩のもつ文化を、精神を感じとり、日本語という言葉の上に表した金関寿夫氏。そのことばをとおして、アメリカ・インディアンの魂に触発され絵筆をとった秋野亥左牟。そして金関氏が伝えようとしたアメリカ・インディアンの世界を、子供たちの面前に広げてみせた堀内誠一。『アメリカ・インディアンはうたう』は、伝えたいこと・ものに、いかにして命を吹き込むか、表現の奥深さを考えさせられた一冊だった。

おれは歌だ おれはここを歩く (福音館の単行本)

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神々の母に捧げる詩 (福音館の単行本)

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アメリカ・インディアンはうたう』には、コヨーテとオナラ少年のお話が紹介されているが、アメリカ・インディアンの民話や詩にはコヨーテが頻繁に登場するという。彼らにとって「魅力的な文化ヒーローの代表」であるらしい。いわばトリックスターのような存在だ。『魔法としての言葉―アメリカ・インディアンの口承詩』にも、コヨーテの関わるお話が多く紹介されている。なかでも「コヨーテの大偉業」はちょっと怖いお話だ。

その昔 女の陰部にはみな歯が生えていた

という一文から始まるお話は、ヴァギナ・デンタタの流れを汲むものといえる。

きみの妻が 「かじりたい」と言ったなら これはきみにとって

 生命にかかわる問題だった

って……。

この事態が正常になったのは だれあろうコヨーテのおかげだった

かれがこうした歯だらけ女性を ちゃんと治療してやったからだ!

たしかにこれは「コヨーテの大偉業」なのだろうが、なんとも言い難いお話である。

*1:ちなみに『絵本作家のアトリエ 2』には、秋野亥左牟も載っていて『おれは歌だ おれはここを歩く』にまつわる話も出てくる。ペン画で描き始めて5年目、ホピ族居留地を訪れて絵を見せたところ、白黒じゃ全然わからないと言われてしまったらしい。帰国後金関氏と「あの人たち原色の世界だから、色のページもいるね」と話していたところから、カラーページが登場したようだ。