こどもと読むたくさんのふしぎ

福音館書店の月刊誌「たくさんのふしぎ」を読んだ記録です。

写真の国のアリス(第192号)

本号のテーマは写真。

アリスを主人公にすえ、不思議の国ならぬ“写真の国”に迷い込み冒険するという態で描かれている。

本家アリスは風刺漫画家の手で描かれ、グロテスクとも思えるテイストだが、こちらのアリスはメルヘンチックでかわいらしい。本家よりこちらの方が、モデルとなったアリス・リデルと似たところがある。

本家アリスが「のんで」と書かれた瓶を慎重に味見しながら大胆に飲み干す一方、こちらのアリスは「注意! のぞくべからず」と書かれた機械のレンズを、「ふん、気にしないわ。<べからず>と書いてあるほうが、ぜったいおもしろいはずよ」とばかり、すぐさま目にあててしまう。

一方で、

「うれしいな。仲間ができたぞ」と喜ぶガイコツ人間に、

「何言ってるの。あんたといっしょになんかされたくないわ。どうすればここから出られるか教えてよ」

と凄い剣幕で詰め寄る様子は、ハートの女王に向かって「ただのトランプの束のくせに!」と叫ぶ気の強さに通じるものがある。怖いもの知らずの好奇心と臆病さをアンバランスに抱え込んだキャラは、本家アリスを彷彿とさせる。

 

この号の発行は2001年3月。デジタルカメラが普及し始めてきたかなという頃だ。当時と比べ機材や技術が進んだ今、本号を構成する写真の数々は、面白さはあっても驚きを感じるようなものではない。

しかし「作者のことば」には、今でも、むしろ今だからこそ通用することが書かれている。

写真が空気や水のようにあたりまえになってしまうと、それがどんなもので、どんな役割を果たしているのか、逆によくわからなくなってしまいます。(本号「作者のことば」より)

家も、当たり前のように子供の写真を撮るし、プリントされないままの画像がたくさん残っている。なんのためなのか意識しないので、撮っただけのものが溜まっていくだけになっている。撮る、写真に残すという行為自体、愛情表現の一種ととらえる見方もあろうが、そうなると写真そのものには意味がなくなってしまう。役割があるとすれば、年月が経過したあとの、思い出の縁となることだろうか。

webの世界でも、写真は「空気や水のようにあたりまえ」のものと化している。今のwebページで、広告含め写真をまったく使っていないものがあるだろうか?かの有名な、

阿部寛のホームページ

ですら、トップには写真がひとつ、きっちり使われている。

こんなにも写真があふれかえる状況で、写真そのものにじっくり目を向ける機会がどれだけあるだろうか。多くの中から取捨選択して「見る」なかでも、細部までじっくり見ようと思って見る写真は、ほんのわずかにしか過ぎない。ほとんどの写真は、BGMのようにただ聞き流す、いわば“見流す”ものになっている。

もちろん「空気や水のように」撮ったり見たりできるのは、利点もある。気軽に撮ったり見たり、剰え子供にカメラを与えることもできるからだ。フィルムカメラの時代は、フィルム代・現像代などお金も手間もかかっていたので、子供にカメラを渡すなど考えられないことだった。それがいまや子供でも、手軽に動画まで作れる時代になっている。web上にアップし、多くの人に見てもらうことすら可能になっているのだ。

しかし「プロ」以外の人にも「空気や水のように」浸透した結果、写真や動画の「真実性」が揺らいできていることも確かだ。

たとえば写真は、ほんとうに「真実」を写すのでしょうか。それは時に嘘をつくこともあるし、人間の目や感覚ではとらえきれない、信じられないような不思議な世界の姿を見せてくれることもあります。(本号「作者のことば」より)

「人間の目や感覚ではとらえきれない、信じられないような不思議な世界」を、プロの写真家でなくとも撮れるようになってきたし、嘘をつくどころか、ディープフェイクという技術まであらわれている。

こうなると「真実」かどうかどころの話ではない。一昔前ならコラでしょ?で済まされたものが、本物と見分けがつかないレベルになり、フェイク画像が世間に与える影響も甚大なものになっている。

MIT Tech Review: ディープフェイク問題、真の脅威は「フェイク」というレッテル

フェイクかどうか見破るという単純な話ではなく、本物が「フェイク」ではないかと疑われる事態に直面しているのだ。リアルの信憑性が揺らぐ、これは大変なことだ。どれが本当で、なにがウソなのか、信頼性が担保できないとしたら、何をもとに判断すればいいのかわからなくなる。そして人は、私自身含め、見たいものしか見ない、信じたいものしか信じないクセがある。画像という決定的な証拠*1自体、ウソかまことかという話になれば、自分にとって都合のいい絵はリアルで、都合の悪い絵はフェイクだ、と解釈してしまうこともありうるのだ(もちろん昔だってトリミング加工などで、都合のいい「真実」だけを切り取るようなこともあったけれど)。

「事実が事実であると証明することと、そのことを実際に一般大衆に信用してもらうことは別の問題です」 (「MIT Tech Review: ディープフェイク問題、真の脅威は「フェイク」というレッテル」より)

「写真」という言葉は、「真を写したもの」から来ているようだが、それが「真」かどうかというのは、結局人間の判断にしか過ぎない。本物を写しているから、本物を写しているように見えるからこそ「写真の国」は素晴らしく、同時に厄介なものになりうる。写真を見る私たちは、いつでも「写真の国」に迷い込んだままのアリスなのかもしれない。

「ふしぎ新聞」には、“高知県取材記「仙人を訪ねる」”という記事が。これは『じいちゃんの自然教室(第209号)』の川村じいちゃんを取材したものだ。山でイタドリをかじり、タラの芽を摘んでたかと思えば、潮の引く頃を見計って海へ出る。自然のめぐみを自在に手にする様はまさに仙人そのものだ。我が家の人たち(夫と子供)も、なんの思いつきか、山行のついでに山菜採りすると出かけていったが、果たしてどうなることやら……。

*1:犯罪捜査や医療分野では、即時性・改竄防止性が求められるので、インスタントカメラが使われているようだ。インスタントカメラ - Wikipedia