こどもと読むたくさんのふしぎ

福音館書店の月刊誌「たくさんのふしぎ」を読んだ記録です。

バルセロナ建築たんけん (たくさんのふしぎ傑作集) (第84号)

通っていた大学近くに、ガウディを思わせる建築物があった。

日本のガウディと呼ばれる男。建築家・梵寿綱インタビュー|美術手帖

通学などの動線から外れていたこともあり*1、チラッとしか見たことはないが、殺風景なビル群の中、そこだけ異様な佇まいを見せていたことは覚えている。

 

本号のタイトルは『バルセロナ建築たんけん』。バルセロナで建築を語る上でこの男、ガウディの名を避けては通れない。

表紙だってガウディ。グエル公園入口にある「門衛館」の屋根だ。屋根……つまりこれは建物の一部にしか過ぎないということ。建築物の全体像を体感することについては、写真や動画の限界を思い知らされる。もちろん写真や動画の利点は十分過ぎるほどだ。ズームアップで細部まで見られたりするし、普段は入れない見られないところまで見せてくれる。しかし、建物のスケールやランドスケープということにかけては、現地でないと体感できるものではない。受験の時、初めて目にした大隈講堂。地下鉄を降りて南門通りを抜け、先端の時計塔が目に飛び込んできた時、言いようもなく痺れたことを今でも覚えている。大隈講堂なんて、写真やテレビで見るような名所の一つにしか過ぎなかった。それが、全容を見る前に圧倒的な存在感で迫ってくるなんて、こんなにもすごい建物だったなんて、思ってもみなかったことだった。

 

本文で真っ先に登場するのは、やはりサグラダ・ファミリア。メディアではよく見るこの建物も、本号を読んだだけでは、全体像、スケール感をまったくつかめない。面白いのは『パリ建築たんけん(第117号)』と同じく(といってもこちらの方が先だが)、子供たちといっしょにサグラダ・ファミリアを訪れていること。ポンピドゥーを訪れるのは、パリ在住の日本の子供たちだったが、バルセロナでのお供は現地小学生の子供たち。中の一人、ベルナット君はサグラダ・ファミリアの説明がいろいろできるくらいに詳しい。現地で、でき上がっていくさまを具に見られるのは、なんて幸福なことだろうか。

バルセロナは街全体が美術館だ。公園にミロの彫刻がそびえたてば、カテドラルの前、モダンな建物に描かれるはピカソの壁画。レストラン「GAMBRINUS」には、マリスカル作の巨大エビのモニュメント「La Gamba」がある。マリスカルはバルセロナ五輪のマスコットを手掛けたアーティストだ。現在「GAMBRINUS」は閉店し、跡地には「La Gamba」のみ残されているが、本書にはレストラン営業時の在りし日の姿が写されている。

バルセロナには新旧二つの市街がある。ガウディの建築物は主に新市街に集中してるが、これは産業革命による街の発展で、優れた建築に潤沢な資本が投下されたからだという。建築家たちは競うように建物を作り上げ、モデルニスモという新たな様式も確立されることになった。いつの時代も、優れた芸術の背後には莫大な資金と芸術家たちの競演が見え隠れする。

ガウディの時代もガウディだけが活躍していたのではない。ガウディの先生にしてライバルの、ドメネク・イ・モンタールも負けず劣らず優れた建物を残している。サン・パウ病院は病院とは思えない壮麗さだ。プーチ・イ・カダファルクが手掛けたカサ・アマトリェールの隣には、ガウディのカサ・バトリョが競い合うように建てられる。ガウディの後に続いた建築家たちもいる。そのひとりジュジョールは、グエル公園カサ・バトリョの建設にも携わった、右腕ともいえる人物だ。カサ・ミラの仕事を途中で放棄したガウディに代わり、完成に導いた立役者でもある。

パッと見珍奇に思えるガウディの建築は、自然をお手本にしたものなのだという。バルセロナ近郊にモンセラットという景勝地があるが、ガウディはこの岩山をヒントに建物の形や構造を考え出したといわれている。カサ・ミラのうねるような曲線は、まさにモンセラットの岩山を彷彿とさせるものだ。

自然をお手本にするといえば聞こえはいいが、本来自然は「都市の秩序」と相容れないものだ。整えられた住宅街のなか「自然のまま」蔦や葛に覆われた廃屋の存在は、美しいものではなく見苦しいものにしか過ぎない。都市における「自然」は、あくまで人間にコントロールされたものだ。自然を模倣したガウディの建築は、都市のなかでは異様なものにならざるを得ない。碁盤の目のような通りをもつ整った街(新市街)に、自然を模した暴力的な建築物を置く。バルセロナ市民が、モデルニスモという様式を受け入れたのは、あまりに人工的な街とのバランスを取るためだったのだろうか?とふと思ってしまった。

 カサ・ミラを案内する仕事をしているマリオナさんは、こんな話をしてくれました。

バルセロナ近くの町で工事をしていたときのことです。階段をつくるところに1本の木があったので、大工のひとりが切りたおそうとしました。するとガウディは、『階段をつくるには数カ月もあれば十分だが、この木が育つには何十年もかかるはずだ。そんなだいじな木を切ってはいけない』といい、木を切らずにすむよう、階段をまげてつくりました。」

この現場、コロニア・グエル教会は、未完ながらガウディの最高傑作とも評されている。コロニア・グエルの構造を考えるために、ガウディは10年もの年月をかけ実験を繰り返したという。幾何学的な線というものを一切拒むかのような教会は、礼拝用の椅子すら独特の線で形づくられ、この教会にかける力の入れ具合を垣間見るようだ。

しかしガウディは、コロニア・グエルの建設から身を引いてしまう。サグラダ・ファミリアに全精力を注ぎこむためだ。カサ・ミラ、コロニア・グエルそしてサグラダ・ファミリア。稀代の天才建築家も、施主とのトラブル、パトロンの死、そして自身の寿命を乗り越えることはできなかった。

ガウディが半生を捧げたサグラダ・ファミリア。自然を模しているとされながらも、自然に逆らうようにそびえ立つファサードを見ると、神に対する挑戦なのかとも思えてくる。しかし、後半生を熱心なカトリック信者として過ごしたガウディは、ただただ、自分の持てる力を持って神に奉仕することしか考えていなかっただろう。

私が子供のころすら、生あるうちに完成を見ないといわれていたが、本号でもベルナット君がこんな未来予想図を説明している。

「これから数百年もかかるんだ。今生きている人は、だれも完成した教会を見ることはできないんだよ」

それが!なんと、ガウディ没後100年を迎える2026年をめどに、完成を見込んでいるという。3Dプリンターの登場やコンピュータによる設計技術などで、大幅な工期短縮が可能になったおかげだ。

 この教会を建設するための費用は、人々の寄付金や入場料によってまかなわれています。そのために、少しずつしかつくることができず、いつになったら完成するのかまだわからないのです。

このような資金不足の問題が改善されたことも大きい。2005年「アントニ・ガウディの作品群」を構成する物件として、世界文化遺産に登録されたことも後押しとなり、サグラダ・ファミリアはスペイン屈指の人気観光地に昇り詰めている。年々観光客が増加し拝観料収入が増えたおかげで資金状況も好転。本号出版時とは大きく事情が変化しているのだ。

しかし……その目標にも今や暗雲が垂れ込めている。パンデミックの影響だ。観光客を受け入れることが難しい今、寄付金や入場料を見込むことはできない。サグラダ・ファミリアはふたたび資金難で工事が滞る時代に入ってしまった。

サグラダ・ファミリア、2026年の完成不可能に: 日本経済新聞

完成の光が見えたかと思えば、消え去ってしまう。ガウディは、

"My client is not in a hurry.(私の依頼主は完成をお急ぎではない)"

と宣うたそうだが、クライアントである「神」はともかく、人の生命には限りがある。果たして、私の、作者の、そしてベルナット君の「目の黒いうち」に完成を見ることができるのだろうか。

バルセロナ建築たんけん (たくさんのふしぎ傑作集)

バルセロナ建築たんけん (たくさんのふしぎ傑作集)

  • 作者:森枝 雄司
  • 発売日: 1998/04/01
  • メディア: 単行本

またまた地球ドラマチック

「サグラダ・ファミリア 未完の傑作」 - 地球ドラマチック - NHK

こういう番組は本当にありがたいもので、サグラダ・ファミリアの全体像、スケールの一端だけでも体感することができた。なみいる観光客に比して、圧倒的な存在感を誇り、画面で見るだけでも信じられないくらいの迫力でせまってくる。これはもう現地に行ったら、言葉を失うくらいの衝撃を受けるのではないか。

さらに、現在作業が進められているメインの塔が完成すれば「バルセロナの風景が変わる」とも言われている。サグラダ・ファミリアは、完成後なお、風景を一変させる力を秘めているのだ。現存のものすら、整然とした碁盤目状の街に異様な形でそそり立つ教会は、空から見ても平伏したくなるくらいの存在感にあふれている。

その力こそが、建設に携わる人、建設を見守り完成を心待ちにする人たちを支えているのだろう。詳細な設計図などをうしなってなお、古い模型の写真、スケッチ、ガウディの残した言葉などを手がかりに、ガウディ、否、神の理想を実現せんとする原動力は、サグラダ・ファミリア自体に宿っている。

科学の始まりは「神のみわざを明らかにすること」だったといわれるが、最新の科学知見を取り入れ耐震、強風対策など施すことは、まさに教会建設にこそふさわしいものではないだろうか。

サグラダ・ファミリアが完成すれば、ケルン大聖堂の157メートルを抜き、高さ170メートル以上の“世界一高い教会”になることが予定されている。そのケルン大聖堂も、完成まで優に600年以上要したというから驚きだ。こうなると、時代が違うとはいえ、サグラダ・ファミリアの百数十年など短く思えてくるから面白い。 

ケルン大聖堂を支えているのはフライング・バットレスという構造物。ガウディはこれを「みっともなくて不自然だ」と嫌い、サグラダ・ファミリアでは、身廊中に配置された何本もの円柱が、途方もない重量を擁する塔を支える仕組みになっている。ガウディの仕事があったからこそ、死後も理想を追求し続けることができるのだ。

今、数百年単位で完成を考える建築物があるだろうか?宗教に関わる施設さえ、そんな途方もない年月をかけるところは皆無といえよう(何かご存知のものがあれば教えてほしい)。ガウディは自らを「神との共同制作者」と考えていたという。サグラダ・ファミリアは、そんなガウディの遺志を受け継ぎ、材料を選び抜くところから含め、さまざまな人たちが理想を実現するべく働き続けている。

死してなお生き続けるガウディ。建設に関わる人びとは志のもとに集い、人生をかけ、限りある生命をも超え、あるべき姿を目指す……サグラダ・ファミリアは、そんな最後の理想郷なのかもしれない。

*1:近くには有名な弁当屋があるが、一度も食べたことがない。私はたきたて派。