なぜまるい?の“まるい”は、どちらかといえば立体的な“まる”、球体の方のお話だ。
自然は、まるいもの、まるっこいものが好きなようだ。
自然のなかには、なぜ
まるいものが多い のだろう?球は、いろいろなものがひとりでになっていく形、いちばん
自然な 形の一つなのだ。
この本を見ていくうちに、そのことがだんだんわかってくるだろう。球のひみつが見えてくるだろう。
子供向けの本らしく、身近な「球」がたくさん例示されている。やってみようという実験もある。
湯のみを手で持って、水道の水をうけて、あふれさせよう。そのあと、水玉がポタポタと落ちるくらいになるまで
せん をしめて、湯のみの水の水面を水道の口から1センチくらいまで近づけてごらん。ほら、水玉がつぎつぎに水面を走って行く!水玉と水面のあいだに空気のごくうすい
まく ができて、水玉はそのまく にのっかってころがって行くのだ。
今すぐできる実験だ。やってみた。
ホントだ〜なんか不思議。きれいだなあ……。
自分では難しい実験は、写真で見せてくれる。
たとえば、同じ体積の形でも、いちばん表面積が小さくなるのは「球」になる、という実験。
三角錐、立方体、球、円柱形(円筒)と、それぞれ同じ体積の立体が用意される。それぞれの立体を水槽の水に沈め、水面の高さが同じだけ上がることを見せ、まずは「体積が同じ」という証明までするのだ。
次は、表面積を比べる実験。ちょうど「球」の表面を覆い尽くすだけの長さの紐を用意し、三角錐、立方体、円柱形(円筒)にそれぞれ巻きつけてみる。すると、どれも覆い尽くすだけの長さが足りないことがわかる。つまり「球」の表面積がいちばん小さいというわけだ。
大人なら、計算で出してしまうところだ。表面積や体積の計算など習わない子供たちには、こうして見える形で示す方が圧倒的にわかりやすい。
「ものの表面積を小さくしようとしてはたらく力」すなわち表面張力をキーに、身近にある「球」についても説明がされていく。
たとえば線香花火の芯。たとえばシャボン玉。でもゴム風船の仕組みは違う。
説明は文章だけだ。図を加えたらわかりやすいのになあと思ったが、考えてみると「たくさんのふしぎ」で、一目見て“わかりやすい図”というのにお目にかかったことがない。絵や写真をふんだんに使ってはいるけれど、図で説明する、図解するページというのはほとんどない。だから読む子供は、絵や写真を頼りに、文章を読んで想像する必要があるのだ。図解がほしければ自分で描くしかない。
わかりやすく描く、こういう分野は映像の独擅場なのかもしれない。「ミミクリーズ」なんか見ていると、大人の私でも知らないようなことをわかりやすく映像に仕立てている。ボロノイとかフラクタルとかいう言葉も出てくるけれど、それがどういうものなのか、どういう仕組みでできているかは、映像を見れば子供でもわかる。
しかし、「たくさんのふしぎ」の対象である小学生は、「ミミクリーズ」の対象である幼児とは違う。小学生は「書かれた言葉」を学んでいる。自分で文章を読んで理解する、想像できる段階にいるのだ。科学に触れる上では、いずれ文章を読んで理解する力が必要になる。何かを知りたい、調べたいときは「読むこと」を避けては通れないからだ。わかりやすくないわけではないけれど、
「たくさんのふしぎ」で書かれるのは、わかっていることばかりではない。
「
これは どうしてまるいの?」と聞かれると、いまの科学者には答えられないことだって、たくさんある。
玉ねぎやりんごなどがなぜ丸くなるかも、
こういうものがなぜ球形になるかは、わかったようでいて、まだはっきりしたせつめいがついていない。
最後は「大きな球」地球や天体の話にまで及び、
たくさんある星たちも、みんなまるい形をしている。
天体はどうやってできたのだろうね?
と疑問が投げかけられている。
こういう部分は、教科書ー子供が毎日接する本、にはない視点だ。教科書には、主に「わかっていること」が書かれている。それが教科書の本来だからだ。わかっていないこと、疑問点などを載せる余地はない。
『かがくのとものもと』のなかに、かこさとしのこんな言葉が出ていた。
要約していえば、科学絵本や科学読物と、そうでない本との違いは、その作者が科学者であるかないかではなく、その題材が科学的なものをとりあげたかどうかではなく、その本が科学性を持った思想や哲学によって貫かれ、読者にその合理性や整合性を通じ、建設的な将来に向かうよう働きかけているかどうかにかかっているということです。
そして科学絵本や科学読物の存在意義は、私たちが真に幸福で豊かな生活を守るためには、まだまだ
かしこさ が不足で、それには学校や家庭や社会から学び教えられることと共に、子ども自身が本を通じて自主的にかしこく育って欲しいとの立場にほかなりません。民主主義は、その構成員が衆愚である場合悪平等の社会を現出し、やがて破滅の道をたどります。しかしそのひとりひとりが、そうめいさを求めて誠実に努力を積んでいくとき、その社会は、考えの浅い人をまわりの人がたすけ、こすい人をたしなめつつ、やがてもっと高いよい社会をきずいてゆくことでしょう。(『かがくのとものもと』116ページより ※原典は連載「私の科学絵本・知識絵本覚え書」最終話より 『カタカナのほん』1975年3月号折込に収録)
「たくさんのふしぎ」は、『なぜまるい?』は、球のひみつを見せる本ではないのだ。この本を読むことによって、球のひみつが見えてくることによって、著者の、科学的な姿勢や考え方、態度を見せる本なのだ。子供たちに「建設的な将来に向かうよう働きかけて」いる本なのだ。
本などに頼らずとも“ググればわかる”とされ、一足飛びに“正解(のようなもの)”まで行き着いてしまう時代。そんな時代だからこそ「科学性を持った思想や哲学によって貫かれ」た絵本が価値を持つ。web上の膨大な情報に触れているからこそ、紙の絵本1冊という限られた内容に“集中できる”ことの価値がわかるのだ。
著者は木下是雄。ん?最近読んだ『理科系の作文技術』の先生ではないか。偶然といえば偶然だが、気付かない私も大概である。これを読んでも、ブログの作文技術がまるで上がっていないのは、ご愛敬といったところだろうか……。