こどもと読むたくさんのふしぎ

福音館書店の月刊誌「たくさんのふしぎ」を読んだ記録です。

チューの夢 トゥーの夢 難民キャンプの子どもたち(第151号)

 毎日あそびにくる子どもたちの中に、絵本が大すきで、なんでもやりたがる、ふたりのやんちゃぼうずがいました。

 10才くらいの男の子。名前は、ひとりはチュー、もうひとりはトゥーです。 

チューは、お話を読むだけでなく、お話を作って書いたり、絵を描いたりするのが好き。トゥーは好奇心旺盛、人形劇をやったり、歌をうたったりするのが大好き。 

本号表紙の絵は「絵」ではない。刺繍でできている。

チューが下絵を描き、いとこの女の子シュアが刺繍した、壁掛けの一部なのだ。

 

チューとは?トゥーとは?そしてシュアは?彼らは難民キャンプで暮らす子供たちだ。

 以前、ラオスの国の中で戦争がおこり、その戦争にまきこまれ、命があぶなくなった人々がおおぜい、川をわたって、となりの国のタイににげてきました。

ラオスの国の中で戦争……ラオス内戦のことだ。当時は冷戦の真っ只中。対立する勢力は、それぞれの背後で支援国が介入し、泥沼化の様相を呈していた。ベトナム戦争にも巻き込まれ、終結まで、およそ20年もの年月を要することになった。

本号の舞台となるのは、ラオスから逃れてきた人たちが暮らす難民キャンプの一つ。バンビナイキャンプという。「モン族」という山岳民族が中心になって生活している。

モン族?

わたしのスカート(第236号)』で、スカートを作っていた人々だ!それもそのはず。同じ安井清子氏の手によるものなのだ。 

 わたしは、日本のボランティア団体に入り、難民キャンプではたらくことになりました。

 わたしの仕事は、モンの子どもたちが本を見たり、絵をかいたり、あそんだりできる楽しい場所を作ることでした。

ボランティア団体とは、シャンティ国際ボランティア会の前身である「曹洞宗国際ボランティア会」のこと。作者は当地で、1985年から5年あまり、図書館活動に携わっている。

 

難民キャンプという言葉は聞くが、どんなところなのかほとんど知ることはない。

描かれる全体図を見ると、配給所や給水所はもちろんのこと、市場や病院、学校までそろっていて、ちょっとした町のようだ。難民にはそれぞれ番号がつけられる。家族単位の番号があり、個々の番号もある。お父さんが1.1なら、お母さんは1.2。子供がいれば年長順に1.3、1.4……と付けられている。マイナンバーもかくやという感じである。 

学校はあるけれど、通えるとは限らない。とくに女の子は。子守、炊事、家事……家庭によっては子供の手すら必要とされるからだ。親を失った子供たちもいる。学ぶべきとき、遊びたい盛りに、小さい弟妹のお母さんがわりとして、家族を支えなければならない。

難民キャンプは小さな町のようだけど、境目にくれば、厳然たる現実も見えてくる。あるときチューが「キャンプのはしっこにある池には龍が住んでる」と言い出して、みんなで見に行くことになるが、池はキャンプを囲む柵の外。難民たちはキャンプの外には出られないのだ。柵の合間から池をのぞき込もうとすれば、警備兵の怒鳴り声が飛んでくる。

そんな中、作られたのが「子ども小屋」。キャンプにいるのは、つらい戦争を体験し、厳しい生活を送る子供たちだ。子供たちが思い切り遊べるところ、楽しく過ごせる居場所づくり。赤ちゃんを背負い、子守しながらやってくる子供たちもいる。

作者は来た当初、 

もちろん、わたしは、はじめはモン語がわかりませんでした。

という有様だった。そこで活躍したのが、日本から持ってきた絵本。絵本なら言葉がわからなくても、絵を見れば楽しめる。「ダッチ(なに)?」という言葉を武器に、子供たちと交流を深めてゆく。絵本の絵を見せては、ダッチ?”。そうしたら子供たちが答えてくれる。

たとえば、母牛を指して、ダッチ?”。子供たちはニュー”と答えてくれる。次は、仔牛を指してダッチ?”。子供たちはミニュア・ニュー”。もう一度母牛にもどって“ダッチ?”。そうしたら子供たちはニア・ニュー”。だから「お母さん」は“ニア”だとわかるのだ。

 わたしは、こうして絵本をとおして、子どもたちから、モン語を学んでいきました。そして、子どもたちも、絵本を見るのが大すきになったのです。

 

『わたしのスカート』では、スカートに刺繍を施していたが、刺繍の役目はそれだけではない。語ることもできるのだ。たとえば壁掛けを作って売っているミーおばあさん。彼女が語る”のは、ラオスで暮らしていた頃の穏やかな風景だ。そして戦争や戦火から逃げる様子。美しい刺繍で紡がれるなかには、空襲で家が焼ける様があり、略奪の様子があり、モンの人たちが殺されるシーンもある。着の身着のまま逃れ、粗末な筏で川を渡る様子。鮮やかに細やかに語られる過去の物語は、悲惨そのものだ。

子供たちも負けじと針と糸を繰る。冒頭紹介した、チューシュアの壁掛けもその一つだ。 子ども小屋の活動を描いた絵日記ばかりでなく、モンの昔話や、日本からもってきた絵本などもいい素材。『あおい目のこねこ』に『スーホの白い馬』『三びきのこぶた』など……お馴染みのお話も刺繍で仕立てれば、世界でたった一つの絵本になる。

 

難民キャンプでの生活は、当然ながら期間限定だ。いずれ別れの時がくるのだ。

親子や兄弟、友だちも、べつべつの国に行くことも多く、もう一生会えないかもしれません。みんな、泣きながらわかれをおしんでいました。

バンビナイキャンプ自体も、1992年に閉鎖となる。ラオスに帰還する目処が立ったからだ。

チューは弟といっしょにアメリカへ。それまで別れて暮らしていたお母さんや、弟妹たちと生活している。いちばん上の彼は、一家の大黒柱となって家族を支えているのだ。

チューの夢は「作家になる」ことだ。

モンの話をたくさん書いて書いて書きまくって、たくさんのモンの本を作りたいんだよ。ぼくら難民は国もないし、難民キャンプにもいられないし、これからどこへ行くのかわからないけどさ、どこへ行っても、モンのお話は、ぼくにとっては、いつも心に持っていたいとってもたいせつなものだからだよ。

トゥーはお父さんとラオスへ帰還。戦争で離れ、ラオスに残っていたお兄さんと合流し、ビエンチャン郊外の村に住んでいる。お母さんは難民キャンプを去る前に病死、お姉さんは結婚してアメリカへ。

トゥーの夢は、技術者とか発明家とか。ミュージシャンも。でも、まずは勉強がしたい。農業で身を立てろというお父さんの意向に反し、村を離れ、高校へ行きたいと願っている。

本号最後のページには、それぞれの場所で暮らす、二人の写真がある。1996年に写されたものだ。キャンプ内でのあどけない表情はすっかり消え失せ、これからを生きんとする青年の姿がある。

 

裏表紙にも刺繍の絵。小さな枠に、キャンプ内の生活を刺繍した絵が切り取られている。枠の外には刺繍でできた一羽の鳥。キャンプを出て自由になったモンの人たちを表しているようだ。 

ラオスのほうが、キャンプの中よりいいや。どこへ行くのも自由だからね。」

 

作者の安井さんは、現在ラオスヴィエンチャンで暮らしている。ラオスの人と結婚し、縁あって子育ての真っ最中でもある。

43歳の私に年下のラオス人がプロポーズ その結果…:日経xwoman 

 難民キャンプで、モンの子どもたちが私に教えてくれた一番大きなことは、子ども自身が持っている「力」だったかもしれません。(中略)

 モンの子どもたちは、「子どもはもともと生きる力といろんな可能性をもっている」ということをあらためて教えてくれた気がします。

 でも、もう一つどうしようもない「力」があることも知りました。戦争は人間一人一人のことなどおかまいなしの、権力と権力のあらそいです。いくら元気な子どもたちでも、戦争の大きな力にまきこまれると、その存在など完全に無視されてしまうのです。戦争で国を失った難民の立場も同じです。すきな人といっしょにいたい、行きたい所に行きたいなどという、私たちにはあたりまえなこともゆるされず、親兄弟までが別れ別れになった人たちがおおぜいいます。(本号「作者のことば」より)

ラオスではきっと、キャンプで暮らしていた子供たちと再会することもあっただろう。今でも交流が続いている子がいるかもしれない。作者は現地で、どんな思いで、我が子を育てていることだろうか。 

PajHnub's Pumpkin Patch 

合わせて読んだのが『空の民(チャオファー)の子どもたち―難民キャンプで出会ったラオスのモン族』。同じく、安井清子さんの本だ。

前述のとおり、安井さんはキャンプで図書館活動に携わっていた。あるとき投げかけられた言葉で、活動に行き詰まりを感じることになる。

「安井さんが日本に帰ったら、子ども小屋も終わりだよ。あとに何も残らないよ」

 ある人から言われたその言葉が耳に残って離れなかった。モン語の本がない。子ども小屋には、日本から持ってきた絵本しかない。私がいなくなったら、日本語の絵本を語れる人がいない。今までのように絵本を見せているだけではだめなのか?でもどうすればいいのだ?私は何をしたらいいのかが急にわからなくなった。(『空の民(チャオファー)の子どもたち』58ページより)

そこからまず始めたのが、絵本のストーリーがわかるよう、モン語の訳をつけること。そして、モンの民話の本を作ること。

モンの民話、“ダナン”を本に仕立てるべく、録音収集を開始する。そこで言われたのが、

「昼間は話すもんじゃないんだよ。夜、話すものなんだ」

 

ここでハッと思い出したのが、『絶望読書~苦悩の時期、私を救った本~』に書かれていたこと。作者は頭木弘樹氏。大学生の時に難病を発症し、長年闘病生活を送ってきた人だ。物語のもつ「救いの力」について、自らの体験を交えつつ書かれている。

誰もが物語に助けられて生きている

 

 これは障害のある人たちだけの話でしょうか?

 決してそうではありません。障害のある人たちの場合には、生きていくうえでさまざまな困難があるので、それを助ける物語の力が、より目立つだけです。

 物語の力に助けられているのは、健常者も同じです。生きづらさのまったくない人などいません。誰だって助けを必要としています。

 

 子供は物語を聞きたがります。それはなぜでしょうか?

 それは、まだこの世の中のことがよくわからないからではないでしょうか。

 サックスはこう書いています。「ごく幼い子供たちは、物語が好きでそれを聞きたがる。一般的な概念や範例を理解する力はまだないうちから、物語として示される複雑なことがらは理解することができる。世界とはどういうものなのかを子供に教えるのは、『物語的な』あるいは『象徴的な』力なのである。」

 

 子供だけではありません。大人だって、日常的に、本を読んだり、映画を見たり、テレビドラマを見たり、マンガを読んだりしています。

 それは教養のためとか、娯楽のためと思われがちですが、本当にそれだけでしょうか?

 

 人類学者のポリー・ウィスナーが、アフリカの狩猟民族のジュホアン族について、その会話の内容を調べています。

 昼間の会話は、お金のこと、売り買いのこと、狩猟のこと、土地の権利のこと、生活の不満、他人の噂話などが主でした。

 ところが、夜間にたき火のそばで行われる会話は、なんとその八一%までもが、物語であったそうです。

 物語が、生きるために欠かせないものであることがわかります。

 人間にとって、「物語は必要な栄養であり、現実を知らせてくれるもの」なのです。

(『絶望読書』26〜28ページより)

私は長年本を読んできたが、何もわかっていなかった。娯楽のために読んでいると思い込んでいた。私の人生に、本はあって当たり前のものだけど、「救われた」「生きるために欠かせない」なんて意識したこともなかった。気づかないうちに助けられていたというのは、ある意味幸せなことかもしれない。

というかお前の子供だって、物語に救われた一人ではないのか?教室に入れなかったとき、保健室にいる時、あいつはずっと本の世界に没入してたじゃないか(『ことばをおぼえたチンパンジー (たくさんのふしぎ傑作集)(第9号)』)

物語のもつ力。

安井さんは、ダナンを上手に語ることができるという“トンセンおじさん“を紹介してもらう。

トンセンおじさんの口から流れ出してくる言葉は、活字の寄せ集めではなく、言葉そのものが心であり世界だった。(『空の民(チャオファー)の子どもたち』61ページより)

 口から語り出された言葉が、まるで生きもののように、力強く、敏捷に、軽やかに舞い上がり、静かに染み入るように耳に飛び込んでくる。目には見えない世界、それは、私がそれまで知らなかった、深く大きく豊かに色鮮やかに広がる、モンの人々のもう一つの世界であった(同62ページより)

作者が何より感銘を受けたのが、子供たちの反応だ。思い思いの場所で、好きな体勢で、耳だけがお話に集中している。「魔法にでもかかったかのように」聴き入っているのだ。

録音されたテープから、ローマ字を使ったモン語への書き起こしも始まり、モンの民話本を作ろうという目標ができる。

この活動は思わぬ副産物をうむことになった。子ども小屋でモン語教室を開くことになったのだ。先にも書いたが、キャンプ内に学校はあれど、通うことのできない子供たちもいる。学校自体、教師の数も質も足りておらず、しかもラオス語の教科書を使って教えられている状態なのだ。

 それまで、私は字を教えることに関しては無関心だった。絵本やおはなしは、識字教育のためではない。絵本やおはなしから子どもたちが心に受け取るものは、もっと別のものだと思っていたからだ。しかし、実際、本が関わってくると、字と無関係でいられないのも事実で、この私自身もモン語の読み書きを勉強し始めたが、そんな時、「日本人の私がモン語を勉強しているのに、あの子たちにはそんな機会すらないのだ」ということが、頭をよぎった。こんな事でいいのだろうか?あの子たちは、このまま大きくなってしまっていいのだろうか?今、私たちはモンの民話の本を作ろうとしている。できあがった時、あの子たちはモンの民話なのに読めないじゃないか?(同68ページより)

モン語教室が始まったはいいものの、子供たちが文字に触れる場面は極めて少ない。学んだことを定着させる機会がないのだ。そこで始まったのが、刺繍絵本づくり。女性たちが作る、モンの民話を刺繍した壁掛けがヒントになった。もっともこちらは観光客向けなので、英語で書かれている。それをモン語でやろうというのだ。

先に、ミーおばあさんが作る刺繍壁掛けの話を書いたが、女性たちは、ラオスで暮らしていた時も壁掛けを作っていたわけではない。壁掛けだの、ベッドカバーだのエプロンだの……農作業中心の生活で作るヒマなどあったものじゃない。難民キャンプでは農作業をすることができないのだ。農業を展開する余地がないからだ。畢竟、唯一現金収入を得られる、ハンクラを物して生活をする他はない。

『チューの夢 トゥーの夢』の表紙を飾る壁掛けを刺繍した、シュアのエピソードもあるが、一緒に作業していた大人が、字の部分をただの線として刺していたのに対し、シュアは字を追って順番に運針していたことが書かれている。シュアは学校へ行けなかったけれど、モン語の読み書きはちゃんとできるようになったのだ。

 

子供向けの「たくさんのふしぎ」には、出せないことも書かれている。アヘンの話だ。

病院や薬と縁遠い彼らにとって、アヘンは重要な“薬”だった。小さい時ケシ作りを手伝っていたという大人たちもいる。禁じられている今、大部分のモンはアヘンと関係ない生活をしているが、年配の人のなかには習慣を断ち切れない人もいるのだ。キャンプ内には「アヘン中毒患者更生プログラム」が設けられていたという。ダナンを語るトンセンおじさんもアヘン中毒で、禁煙ならぬ禁アヘンに取り組む一人だった。

難民キャンプには“牢屋”もあって、盗みやケンカなど“軽犯罪”をした人たちが収容されている。なかには子供たちもいる。出たり入ったりを繰り返す子供たちの多くは、親がアヘン中毒者だ。そして自身も、小さい頃から具合が悪いとアヘンを使われていたりして、中毒になっている子供たちもいる。

 

安井さんは帰国することを決めてから、こっそりキャンプに泊まり込んでいたが、決まってやってきていたのが、チュートゥーだった。夜遅くまで話し込んでいったという。とくにチューは「たまったものを吐き出すかのように、そして、私がいるうちに、とにかく聞いてもらいたいというように、まるで取りつかれたかのように、話し続けた」。チューの語る言葉が、気持ちが、14ページにわたって書かれているが、まだ少年という年なのに、こんなにも過酷な経験をし、こんなにも大きな苦悩を抱えていることに、胸がつぶれる思いがした。

子どもらしい無邪気な笑顔の影に、難民という鎖はあまりにも重い。

子供たちを育てる大人自身も、もちろん苦しみを抱えている。

「あぁ。私はきよこになりたいもんだよ。どこでも好きなところに行けて、いろんなものが見られて。今度生まれてきたら、きよこみたいになりたいもんだねぇ。モンになんか生まれるもんじゃないよ。ラオスにはいられないし、ここに来ても難民キャンプにいつまでもいられるわけじゃなし、アメリカには行きたかないし……」(同179ページより)

難民という人々は、非常に弱い立場にある。難民キャンプという彼らの国でないところに仮住まいさせてもらっているだけに、非常に弱い立場にある。彼らは、祖国を離れなければならず、また、本来なら難民を守るはずの難民キャンプであるが、しばしば、難民の人々の人権などまるで無視され、彼らの生命の尊厳など虫けらのごとくつぶされてしまうことがある。そのようなことが起こるたびに、難民とは、なんと不安定な弱い立場にいるのだろうか、と実感する。(同178ページより)

アメリカへ渡り、新しい環境で生きるモンの人々。ラオスに帰った人々も、これまでの伝統生活に戻るのは難しい状況になっている。難民キャンプを出てなお、厳しい現実に向き合うなかで、物語ーダナンや、モンの民話本、刺繍絵本の数々は、人々の心にそっと寄り添う「救いの力」になったことだろう。たとえ本という形で手元になくても、“生きる上での糧”としてはたらいているに違いないのだ。

私は、彼らに言いたかった。

「あんたたち、自分たちじゃ、気がついてないかもしれないけれど、結構すごいことやっていると思うんだよ。それに、今でなきゃできないんだよ。今、この難民キャンプにいるうちに、やっておかなかったら、アメリカやラオスに行っても、こんな本を作れるチャンスはあんまりないと思う。今、頑張ってやらなくっちゃ!モン語の本なんて、どこにも売ってないんだもの。自分たちで作るしかないんだもの。そして、あんたたちがやらなけりゃ、誰がやるの?すごく大切なことやってるって、誇りを持って欲しい。自分たちがやっていかなくちゃいけないっていうこと。そして、自分たちができるっていうことを、知っていて欲しい」(同105ページより)

(公社)シャンティ国際ボランティア会 アジアの子どもに教育を。本を通じて世界が拓ける|公益社団法人 シャンティ国際ボランティア会(SVA) 

安井さんはその後、ふたたびシャンティ国際ボランティア会のスタッフとして、ラオスへ渡る。ラオス国内で図書館支援活動をするためだ。しかし、モンの住む山の村へ行くチャンスはなかなか巡って来なかった。その仕事を辞めた後も、モンへの思いは止まず「モンの民話を録音記録する調査研究」というプロジェクトを、ラオスの政府機関へ持ちこむのだ。いろいろな縁がつながって、モンの住むゲオバトゥ村に図書館を作るまでの話は『ラオス 山の村に図書館ができた』に詳しい。