こどもと読むたくさんのふしぎ

福音館書店の月刊誌「たくさんのふしぎ」を読んだ記録です。

森の小さなアーティスト (たくさんのふしぎ傑作集) (第58号)

英題は"Mimicry in insects"。

昆虫の擬態をテーマにしている。

生きものの擬態を取り上げた子供向けの本は、手をかえ品をかえ出版されている。古くは『自然のかくし絵―昆虫の保護色と擬態』から『なりすます むしたち』まで。作者の今森さん自身『あれあれ? そっくり!』という別の絵本を出してたりする。

逆に言えば、手をかえ品をかえ作りたいほど魅力的なテーマなのだ。

数あるなかでも、この絵本が素晴らしいのはなんといってもタイトルだ。

森の小さなアーティスト。

普通なら昆虫かつ擬態の本だとわかるように題名をつける。『むしたちのさくせん』然り『昆虫たちの擬態―昆虫の驚くべき戦略、威嚇からカムフラージュまで』然り。

普通なら昆虫の擬態は“nature(自然)”になる。それを今森さんは“art(芸術)”だと言うのだ。私たちが芸術家たちの素晴らしい作品を前に、その高い技術や精緻な技巧に驚嘆するように、この絵本は昆虫たちの巧妙な擬態に対する素直な驚きと畏敬の念に満ちている。

“森の小さなアーティスト”たちが見せる姿(写真)もさることながら、魅力はやはり今森さんの語り口だ。

 でも、どうしてあれほどほんものそっくりになる必要があるのでしょうか。ぼくは、いつもそのことをふしぎにおもいます。よほど目のするどい強敵が、虫たちをねらっているにちがいありません。

また、ぼくは、トラフカミキリを手につかんでみておどろきました。毒針をもっていないこのカミキリムシは、腹をまげてさすまねまでするではありませんか。なかなかの役者です。

それにしても、おそろしい小鳥たちを目の前にして、目玉もようをみせつけるとは、たいへん勇気のいることだとおもいませんか。もし運わるく小鳥がそれでおどろかなかったら、もうにげることはできないのです。

虫たちがアーティストであること。「たくさんのふしぎ」では心持ち控えめに語られているが、前述紹介した『あれあれ? そっくり!』のあとがきでは、そこのところがもっと率直に書かれている。

 科学的ではありませんが、私は、こう考えています。昆虫たちには、それぞれ独自の美意識がそなわっていて、敵から身をかくしながらも、凝ったオシャレを楽しんでいるのではないかと。私たちが、かくれんぼのじょうずな昆虫たちを見て、美しいと感じるのは、昆虫たちもわたしたちもきっと同じ感性をもっているからでしょう。

 これからも、地球を旅して、もっともっと楽しい芸術家に出会いたいです。(『あれあれ? そっくり!』32ページより)

『昆虫たちの擬態』でも、作者の海野さんはこう語っている。海野さんは昆虫の擬態をライフワークとする写真家だ。

 それにしてもコノハムシは葉になんとよく似ていることだろうか。どうやってそんなに似てしまったのかと聞きたくなる。そこまでやって何の利益があるのだろうか。もう少し葉に似ていなくても、すばやく動けた方がよいのではないか、よけいなお節介をだしたくなる。

(中略)けれど何もわからなくても、そうした昆虫たちがたくさんいること自体がすばらしいことだと僕は思う。そしてよくぞここまで似たものだという職人芸的な生き物の形態に驚き、そうした生き物たちをはぐくんできた地球はなんとすばらしいのだろうかと思うのである。(『昆虫たちの擬態』95ページあとがきより)

しかし、人間の目には芸術的に見える職人芸も、彼らをつけ狙う天敵はお構いなしだ。いくら上手に擬態しようが、生きている上には動かなければならない・・・・・・・・・・ので、どうしたって敵の目を欺くことはできない。小鳥やトカゲも彼らを食べて生きている。ちょっとした動きも見逃すことはないのだ。

擬態する昆虫もまた、食べる側でもある。『なりすます むしたち』では、果たして擬態は食べられないためなのか、それとも食べるためなのかという疑問を投げかけている。

 アリグモが蟻になりすますのは、強い蟻に似ていると食べられにくいからなのか、蟻が守るアブラムシを食べるのにつごうがいいのか、ほんとうの答えを出すのは、むずかしいことに違いありません。(かがくのとも 2018年12月号『なりすます むしたち』別紙「作者のことば」より)

『森の小さなアーティスト』でも、

 ジャングルのなかで、花にばけてえものをたべているハナカマキリ。

 でも、花にやってくるハチはうまくだませても、頭の上には、自分をねらっている小鳥がいることをハナカマキリは知っているのでしょうか。

とある。

食べる・食べられるともに命がかかった業だ。命がかかっているからこそ、擬態はあんなにも芸術的で驚きを呼ぶものなのかもしれない。“森の小さなアーティスト”たちは、これからも多くの子供たちを魅了し続けることだろう。

擬態をテーマにしたどの本も、それぞれに違った良さがあるが、とりわけ引かれたのが『自然のかくし絵』だ。

最大の魅力は、作者をガイドに自然を探索しているような気分になれること。昆虫のクローズアップのみならず、周囲の自然やその描写がふんだんに盛り込まれている。ほとんどが身近にあるような自然だ。擬態する昆虫は海外にも多くいる。『森の小さなアーティスト』はじめ、海外にいる昆虫を紹介する本も多い。しかし『自然のかくし絵』に登場するのは、もっぱら日本の自然だ。地域によって、すむ昆虫の種類や季節の移り変わりは異なるだろうが、子供が自分で見つけにいくことができる、身近なものを取り扱っている。

付けられた文章がまた、美しい。

木の幹には、はだがつるつるのものや、でこぼこのものがある。幹にコケのつくような大木になると、風格がそなわってきて、でこぼこのはげしいはだは、風雪にたえたしわ・・のように見える。

この、幹のはだにできた、複雑な、あれた舞台が、林にすむ虫たちの、安全な休息所になる。幹に似た色をしたセミが、大樹にいだかれ、樹皮になりきって、くつろいでいる。(『自然のかくし絵』27ページより)

あたかも「自然のかくし絵」を鑑賞し、その美しさや技巧を解説した「美術書」のようだ。

メインの絵本部分のほか、さらに知りたい子のために詳しい解説や、各ページの写真解説までつけられ、盛りだくさんの内容になっている。

印象に残ったのが「擬態のすばらしさと限界」という箇所だ。

作者がセスジスカシバ(スズメバチに擬態する蛾)を観察していたときのこと。飛び立ったガが、突如もがいて不自然なポーズを取ったと思うがいなや、駆け寄ってきたオニグモに糸でぐるぐる巻きにされてしまう。クモの巣に引っかかってしまったのだ。

 どれほど鳥にたいしてすぐれた擬態をし、その攻撃をふせげても、その効果が通用しない敵にはひとたまりもなく殺されてしまうという例を、目のあたりにしたことで、擬態の限界を見せつけられたように思いました。

 色彩と模様、それに動作までモデルに似せるという適応は、仮想される敵には防御効果はあるでしょうが、他の敵にはなんの力もないという説明をしないのは片手落ちだと思います。(同27ページより)

この絵本は単に「昆虫の保護色と擬態」を紹介するものではない。いちばんの目的は、子供たちに自然観察をすすめ、自分の目で見、こころで感じる大切さを、身をもって見せることだ。

 小さくて、かくれる種類の多い昆虫を観察するには自分の目や鼻を使って、見つけなければなりません。

 そして根気よく続けなければ簡単にさがしだせないし、昆虫の面白さを自分のものにする事はできません。(中略)

「自然を知ることは体験することで、野外で実物を観察する楽しさ」こそ、21世紀以降の人間にいちばん大切なことだと考えるからです。