こどもと読むたくさんのふしぎ

福音館書店の月刊誌「たくさんのふしぎ」を読んだ記録です。

砂漠のサイーダさん(第290号)

砂漠のサイーダさん。

砂漠とはエジプト北東部、ハルガダ近郊にある砂漠のこと。

サイーダとは女性の名前だ。

サイーダさんは、砂漠でひとり遊牧生活を送っている。ベドウィンと呼ばれる人たちだ。

なぜひとりなのか?

彼女の家族はみな遊牧生活を止め「定住地」で暮らすようになったからだ。

「なぜ定住地に住まないの?」サイーダさんに聞いてみました。

「いつも1か所にじっとしているのは好きじゃない。砂漠なら、どこに行ってなにをしてもいい。ひとつの場所にあきたら、別のところに移動する。いつも動いている暮らしは楽しいよ。そして好きなときに休んで、好きなときに昼寝する。きれいな空気の中をいつも歩き回っているから、心も体も元気そのものさ」

サイーダさんの「車」はラクダ。6〜7頭のラクダに荷物をくくりつけて移動する。食べ物、水筒、調理用具、衣服などなど、荷物は最小限だ。

行き先はラクダまかせ。草を喰ませながらのんびり好きな方向に進んでいく。とはいえ、草のあるところ、木陰で休める場所、水を汲める泉は決まっているので、まるっきりラクダ任せというわけではない。

これを読んだ子供たちは、自分たちの生活とあまりにも違うことに、びっくりしたのではないだろうか。

 

こんな暑そうなところで、袖も裾も長いワンピースみたいなのを着て、スカーフまで被ってる。暑くないのかな?

13歳で結婚してる!子供が9人もいる!

ラクダ、勝手にどっか行っちゃわないのかな……。

え、ラクダのうんちが燃料になるの!?

炭火の灰みたいなところに、直接パン生地突っ込んでる!え、ついた砂や灰をはらうだけ?そのまま食べるの?

外の砂の上に直接寝っ転がってお昼寝してる!え、夜も?ちゃんと寝られるのかなあ?

 

 朝、目覚めれば、またラクダとともに出かけます。疲れたらひと休みし、枯れ木を集め、お腹がすいたらパンを焼き、暗くなったら眠る。サイーダさんの毎日は、ずっとそのくり返しです。

崎山さん(『小さな南の島のくらし(第353号)』)は『何もなくて豊かな島―南海の小島カオハガンに暮らす』で、島の人たちはくり返しの時間を生きている、というようなことを書いていたが、通じるものがあるかもしれない。

ところで、彼女の家族……「定住地」で暮らす遊牧民はどういう生活をしているのか?外国人観光客を相手にラクダの騎乗体験を行ったり、ファティールというパンを焼く様子を見せたりして、働いているようだ。ちなみにサイーダさんが焼いている砂のパンはファティールではなく“ゴルス”という。

彼らが遊牧生活を“あきらめた”のは、気候のせいでもある。以前は年1〜2回降っていた雨が、何年も降らない年が続き、草が育たなくなってしまったのだ。水の有無は生死をも左右する。砂漠での死は毒蛇やサソリより、渇水によってもたらされるのだ。定住地では水も食べ物もきちんと手に入り、何より定期的な収入を得られる。

以前シリアに行ったとき、私もそういった観光業を営むベドウィン・キャンプを訪れたことがある。これは本来の姿ではないんだろうなあと思いつつも、砂漠の風景には圧倒されたし、羊の群れを自在に操る彼らの姿に驚いた覚えがある。

観光ではなく“本物”の遊牧生活に飛び込んで、いっしょにサイーダさんと暮らすバイタリティは作者ならではのものだ。なんせサイーダさんと落ち合うのもひと苦労。「作者のことば」では、サイーダさんと会えるまで何時間もかかったり、その日のうちに見つからないことさえあると書かれている(ひと晩砂漠で寝るのだ!)。彼女に会うには、サイーダさんとラクダの足跡をたどって探すしかない。定住地で暮らす彼女の子供たちは今やみんな携帯を持っているが、遊牧生活を楽しんでいるサイーダさんには必要のないものなのだろう。

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ギョレメ村でじゅうたんを織る (たくさんのふしぎ傑作集) (第102号)』と同じく「たくさんのふしぎ」で描かれるのは、いわば表層的な部分だけ。『女ノマド、一人砂漠に生きる』には、その裏とも言える“舞台裏”がたっぷり描かれている。

ラクダは勝手にどっか行っちゃったりすること。でも足跡をたどればだいたいは見つかること。発情期のオスラクダは凶暴で、人を噛んだり荷物を噛まれたりもあること。ときに人間がラクダに殺されてしまうこともある。

砂漠にはハナシュという毒蛇の一種がいて、噛まれると死んだりする場合もあること。見つけ次第叩き殺すこと。砂漠では注射が間に合わないので、噛まれたら死を覚悟するしかないこと。

14歳で*1当時30歳だった夫と結婚したこと。親同士が決めた結婚で、夫とはその日初めて会ったこと。16歳で出産したのを皮切りに、9人の子供たちすべてを砂漠で産んだこと。

作者がサイーダさんと過ごすのに、送迎などもろもろ対価を支払った上で、定住地に住む彼女の係累の手を借りているが、いわゆるセクシュアルハラスメントを受けた話も率直に書かれている。遊牧民の女性は運転しない。どうしても男性ドライバーに頼るしかないのだ。セックスの誘い、キスを迫られたり、身体を触られることもあったという。

 この時まで、女一人であることの意味を深刻に自覚してはいなかった。エジプトでは、未婚の女性がたいした目的もなく、一人で遠出するようなことなど、めったにない。そんな所へ、イイ年した女が一人で海外から来て、ぶらっと砂漠へ出かける。それが男性たちにどんな印象を与えるか……私はそれまで何度もエジプトに来て、そのあたりは十分わかっていたつもりだったが、ついうっかり気がゆるんでいたのだった。(『女ノマド、一人砂漠に生きる』63ページより)

「第3部 男と女」は、「ふしぎ」には決して載せられない赤裸々な話が盛りだくさん。「処女の証・血の付いた白いハンカチ」だの「夫を共有する2人の妻の対面」だの「夫婦でセックスを我慢するのは罪」だの「古い妻をないがしろにする夫」だの「男はアソコが好きなのさ」だの「夫のモノをちょん切ってやる!」だの、まあそういう話だ。女性器切除の話もちらっと出てくる。エジプトはじめ、アフリカのさまざまな国で行われている風習だ。

作者が遊牧民を知ったきっかけは、高校時代に見た写真集。そこに写されたアフガニスタン遊牧民の様子に興味をひかれたという。資料を探すうち、一冊の本『Bedouin Life in the Egyptian Wilderness』に出会う。著者であるジョセフ・J・ホッブズ氏のウェブサイトを見つけメールを送ったところ、なんと送信して1時間足らずで返信が届く。彼が本を書くうえで取材した、ホシュマン族とのコンタクトの仕方を教えてもらったという。

常見さんは男性であるホッブズ氏がなんの気兼ねもなく、信頼のおける遊牧民のガイドで1ヶ月も取材をおこなった話にうらやましさを感じているが、逆に女性であるがこそ、遊牧民女性たちの赤裸々な話を聞き出せたというのはあるはずだ。女性が親しく接触できる男性は夫と親族だけという世界では、たとえ研究者であろうとも本音のところを聞き出すのは難しい。

作者もまた、サイーダさんとの暮らしの中で当時感じていた自分の本音を、素直に吐露している。

 日中ラクダを放牧させている間は、昼寝くらいしかやることがない。この何もしない時間が、何より苦痛だった。時間をムダにしているような気がしてならない。

 私は砂漠が好きではなかった。遊牧民がいなければ、決してこんな所には来なかっただろう。砂と山と空ばかりの荒涼とした砂漠は、何も面白い物などない気がした。砂漠からハルガタに帰り、通りに人が、スーパーに物があふれる光景を見るたびに、私は心底嬉しくなった。(同100ページより)

印象的だったのは、サイーダさんがいない間に、悩みながらゴルス作りをするシーン。ちょうど彼女との関係がうまくいっておらず、どうしたらいいか途方に暮れていた頃の話だ。ときどき、サイーダさんから「(藤代も)ゴルスでも作ってくれればいいのに」と文句を言われていた作者。あるとき、日没後もラクダを連れ出歩いているサイーダさんを待つ間、ゴルスを作ろうかどうか逡巡する。以前ファティールを作らされた時、サイーダさんは一口食べただけで犬にやってしまったからだ。それでもサイーダさんの作る様子を思い出し、見よう見まねで作りはじめるが、火の具合がうまくいかずいまいちの出来になってしまう。帰ってきたサイーダさんに「おいしいかどうか、わからないよ」と恐る恐る差し出したところ。

「おいしいにきまってるじゃないか!さあ、タマネギといっしょに食べるか、ハチミツかい?どれにしようか……」

と、声がいつになく興奮でうわずっている。(同108ページより)

そして、いつもよりたくさん食べてくれたという。

共同体の外にいる者が、なかの人たちと仲良くなるには「同じ釜の飯を食う」ことが欠かせないが、「同じ釜の飯を作る」のもその一つかもしれない。自分のために、自分がいつも料理しているのと同じものを作ってくれたら、それだけでうれしくなるのはわかる。

 

サイーダさんと付き合ううち、必ずしも「砂漠でひとり遊牧生活」というわけではないこともわかってくる。

今度来るときペプシコカ・コーラを一本ずつ持ってきて、とリクエストが飛ぶことがあるし、作者が運んできたお菓子を食べながら、前食べたあっちのお菓子の方がおいしかったと注文が出ることもある。

 私はてっきり、サイーダは、ゴルスばかりの食事に満足していると信じて疑わず、そのストイックともいえる生き方に、尊敬の念すら抱いていた。それが裏切られたような気がして、勝手にがっかりしたものだ。

 

 彼女の持ち物についても同じだった。最初の頃は、サイーダはラクダに積み切れるだけの荷物で暮らしていると思っていた。しかし実は、砂漠の中に荷物置き場を数ヶ所持っており、すぐに必要のない荷物を保管していた。そこにはドラム缶が数個あり、色とりどりのガラビーヤが入っていた。それといっしょにマニキュアや手鏡数個、スカーフ数枚、指輪3個……なども。それらを嬉しそうに私に見せる。私は心の中で少なからず落胆したものだ。

 しかし……私は、はたと気づいた。もしかしたら、私は自分の理想像を彼女に押しつけていただけなのかもしれない。

 

 高校生の時に手にした本。

 その中で見た、ラクダに積めるだけの荷物を持ち、さっそうと移動していく遊牧民の姿を、ずっと私は追い求めてきた……。

 しかし現実の遊牧民は、それとはずいぶん違っていた。

 砂漠で一人でたくましく生きていると思えたサイーダも、実は家族や同じ部族の人たちなど、他者とのつながりの中で生かされていた。その事実は、人は一人では生きられないというあたりまえのことを私に思い出させてくれたように思う。(同244〜245ページより)

それでもサイーダさんが、ある意味たくましく生きていることには変わりない。作者が彼女に初めて出会ったのは2003年、おそらくサイーダさん56歳の時。今や70半ばだろう。2012年発行のこの本でも、少し衰えが見えてきた様子が書かれているが、今でも元気で遊牧生活を送っているだろうか?

ちなみにこの本の表紙写真は、「たくさんのふしぎ」では裏表紙に使われている。おもてではなく、裏表紙に使うところが「ふしぎ」らしい。

いつもバックナンバーを借りている小さな図書館で、この号の貸出手続きをしてもらっているとき、

ー「たくさんのふしぎ」良いですよね〜

と話しかけられた。

カメムシ集める話とか面白かったですよ〜。珪藻の本もきれいでしたねえ。家をしょって旅する話、あれ県内にもいらしたことあるんですよ!

もちろん、存じておりますとも。

こういうとこが良かったですよね〜とか、あれの傑作集入れました?とか、今月号はきっといずれ傑作集になりますよ、とか館員の方とちょこっとだけお話しした。図書館の方にも「ふしぎ」が愛されているのを知ってうれしくなった。

*1:「ふしぎ」では13歳になっていたがどっちだろう……まあ変わらんけど。