こどもと読むたくさんのふしぎ

福音館書店の月刊誌「たくさんのふしぎ」を読んだ記録です。

南極の スコット大佐とシャクルトン (たくさんのふしぎ傑作集)(第107号)

南極探検の歴史は複雑だ。

殊に南極探検の英雄時代は、数々の遠征の中に複数のチームが組まれ、さまざまな人物が入り乱れて全体を把握するのもひと苦労。

『南極の スコット大佐とシャクルトン』はなかでも、スコット率いる「テラノバ遠征」とシャクルトンが目論んだ「帝国南極横断探検隊」を中心に据えて描いた絵本だ。

「テラノバ遠征」のメインはスコット隊の極点旅行。「アムンセンの南極点遠征」との競争の末敗れ、帰路に遭難死したことで有名だ。「帝国南極横断探検隊」も、エンデュアランス号(本号ではインデュランス号)の遭難と奇跡的な生還の物語として名高い。

未知の大陸に挑み、過酷な自然に立ち向かった男たち。その生と死。ドラマティックに描こうと思えば描ける題材を、淡々と記録を積み上げることで、あえてドラマ性を排除した内容になっている。淡々とした文章を彩るのは当時の記録写真。こうした記録がふんだんに残っているからこそできることだ。

淡々と……とはいっても、そこに描かれるは苦闘の連続、そして悲惨な死。『飛びたかった人たち (たくさんのふしぎ傑作集) (第66号)』では、危険をものともせず空に挑んだ姿があったが、こちらで描かれるのは死力を尽くして南極の自然に向かっていく人びとだ。

本来ならテラノバ遠征で一冊、エンデュアランス号だけで一冊は必要なところ。そこを合わせて40ページという限られた紙面で作るためには、息詰まるようなシーンを重ねていかざるを得ない。合間に挟まれた「ナンギなたんけんたい」というショートコミックが、それを和らげるクッションのような役割を果たしている。

なぜテラノバ遠征だけで、もしくはエンデュアランス号だけで作らなかったのだろうか?

スコットとアムンセンの極地点競争だけで十分なドラマになるし、エンデュアランス号だけでもお腹いっぱいだ。

これは想像にしか過ぎないが、本書はシャクルトンをこそ描きたかったのではないか。今でこそエンデュアランス号で知られるシャクルトンも、20世紀後半まで埋もれていた人物だった。死後もなお名声を保ち続けたスコットに対し、シャクルトンは「再発見」された男だったのだ。本書の「たくさんのふしぎ」本誌での発行は1994年。ランシングによる評伝『エンデュアランス号漂流』こそ1959年の出版だが、翻訳されたのは1998年だ。まだまだ当時、日本では知られていない人物だったのではないだろうか。

一方でシャクルトンを描くには、スコットは欠かすことのできない男。本書でも触れられるように、スコット率いるディスカバリー遠征では南進旅行で苦楽を共にした仲であり、のちには南極点到達レースにおけるライバルでもあった。二人ともイギリス人であり、“失敗”に終わった遠征から一人は生きて帰り、もう一人は志なかばで力尽きている。極地点到達レースという面からは、スコットに対するのはアムンセンであるように見えるが、実はシャクルトンの方が彼に比べるにふさわしい人物なのかもしれない。

ちなみに「ふしぎ」でもお馴染みの水口さんが書いた『南極ダイアリー』によると、1987年にアラスカで星野道夫と撮影キャンプをした時、彼はランシングの原著『Endurance -Shackleton's Incredible Voyage*1を持ってきていたということ。撮影待ちのテントのなかで、この本やシャクルトンの生き方について話が尽きなかったそうだ。

『南極ダイアリー』で水口さんはシャクルトンをこう評している。

 シャクルトンは、彼が行った多くの探検で、当初の目的をなしとげるという幸運にはことごとく見放された探検家である。しかし、苦難を前にしてさえ見せる楽天家ぶりとリーダーシップで、彼の生きざまに触れる誰もの心を強くとらえた探検家だといっていい。(『南極ダイアリー』171ページより)

シャクルトンは「当初の目的をなしとげるという幸運」のかわりに、エンデュアランス号漂流からの生還であらゆる幸運に恵まれた。本号で11ページにわたって描かれる遭難の顛末は、いつ誰が死んでもおかしくないエピソードで満載。その幸運を引き寄せたのは「苦難を前にしてさえ見せる楽天家ぶりとリーダーシップ」だったとしても、フィクションと見紛うばかりの奇跡的な出来事に満ち溢れている。船の名前からして"endurance(忍耐)"とは出来過ぎじゃないか。もっともこの船の名はシャクルトンが、自らの家の家訓「不屈の精神(endurance)で勝利する」から取ったものなのだ。まさにこの男は不屈の精神で皆を勝利(生還)に導くことになった。

惜しむらくは現実のスケールがあまりにも大きすぎて、本書だけでは伝わりきらないこと。だがもっともっと南極探検の全貌を知りたいと思う子の、呼び水となることは間違いない。もうこんな厳しい体験談はご勘弁、と思う子もいるかもしれないが……。

南極探検船エンデュアランス号をついに発見、水深3千mの海底で、沈没から107年 | ナショナル ジオグラフィック日本版サイト

ここからは関連して読んだ何冊かをご紹介する。

まずは『シャクルトンの大漂流』。ウィリアム・グリルによる絵本だ。

あたたかみのあるタッチで描かれるイラスト。一匹一匹の犬や物資の数々など細部にまで行き届いている。

一方では大判の見開きを生かし、苛烈な自然を描き出している。とくに32〜33ページ、一面を埋め尽くす海氷に囲まれた小さな船は、人間の無力さを表すようで絶望感が込み上げてくる。

 エンデュアランス号はいまや、人間が暮らすどんな場所からも800Km以上はなれたところにいた。(『シャクルトンの大漂流』33ページより)

この本の良いところは、ロス海支隊についてもきちんと紹介していること。

ロス海支隊は、シャクルトン率いる南極横断探検隊のサポート部隊。ロス海側から上陸し、探検隊のルート上に物資補給所を設ける役割を担っていた。こちらの方も本隊に負けず劣らず過酷な旅を強いられている。

本隊こそ、

 さまざまな困難にもかかわらず、シャクルトンは、隊員からひとりの犠牲者もだすことなくこの探検を終えた。(同64ページより)

わけだが、ロス海支隊では、隊長マッキントッシュ、ビクター・ヘイワード、スペンサー・スミスの3人が命を落としている。

このロス海支隊の旅の記録はあまりのこっておらず、忘れられがちだが、その任務の重要性やきびしさは、すこしも見劣りするものではない。(同66ページより)

なんせ使っていたオーロラ号の舫が切れて流された挙句、流氷に囲まれて操船不能となり、18人の乗組員とともに流されてしまったのだ(オーロラ号の漂流)。おまけに陸上側には十分な食料を持たない隊員10人が取り残されてしまった。それでも陸上隊は、すでに陸揚げされていた物資やその他を利用し、補給所設営の任務をやり遂げたのだ。3人が命を落としたのはその最中のことである。

本のカバー袖には、「ふしぎ」でもお馴染みの石川直樹が言葉を寄せている。

子どもの頃に本書と出会っていたら、自分の宝物のような一冊になっていたに違いない。

続いては『エンデュアランス号大漂流』。アメリカの児童書作家コーディー・キメルによる作品だ。

絵本も悪くはないが、やはり文章の方が断然面白い。絵本では端折られがちなエピソードも、遍く紹介できるからだ。

たとえば犬を殺すシーン。補給物資を求めてポーレ島を目指すに際し「荷物を運ぶ役には立たない動物」は殺されることになったのだ。余裕のエサはないからだ。訓練を受けていない若犬や弱っている犬、そして船乗り猫のチッピーも銃で殺された。ページ数の限られた『南極の スコット大佐とシャクルトン』では書かれないことだし、『シャクルトンの大漂流』でも軽く触れられるのみだ。

犬たちは、なかまの犬たちに気づかれないよう、遠くですばやく殺された。(『エンデュアランス号大漂流』42〜43ページより)

この『エンデュアランス号大漂流』ならびに『南極の スコット大佐とシャクルトン』でも、実際の写真がふんだんに載せられているが、それを撮ったのが同行した公式写真家フランク・ハーレーだ。海氷によって破壊され放棄されたエンデュアランス号は徐々に沈みつつあったが、完全に沈没する前に、ネガの入った箱を運び出すことに成功していた。今ある写真を見られるのも、危険をおかして回収に向かった隊員たちのおかげなのだ。

 しかし、それらのネガも、のちにはハーレーとシャクルトンで全部に目を通し、ごくわずかな枚数だけを手元にのこすことになった。あとのネガは、こなごなにくだいて雪のなかにおきざりにされた。そうでもしなければ、未練をのこしたハーレーが無理をして運ぼうとするかもしれなかったからだ。ハーレーはその後も写真を撮り続けた。これらの写真は現在もなお、この探検隊の貴重な体験を生き生きと語ってくれる。(同51ページより)

彼は大きく揺れる船のマストのてっぺんで、細い帆桁に足をからませながら撮影をおこなっていたこともあったそうだ。そんなにしてまで撮影したものをあきらめるのは、身を切られるように辛いことだっただろう。

もう一つ面白いエピソードがある。救助を求めるため、シャクルトンら6人がジェイムズ・ケアード号の航海に出発した時のこと。目的地サウスジョージア島までは約1,500 km。ゆく手に立ちはだかるは“狂う50度”とも呼ばれる悪魔の海。そんなところに小さな救命ボートで漕ぎ出そうというのだ。隊員たちの多くは心の中で、二度と彼らに会うことはないだろうと思っていた。

フランク・ハーレーにいたっては、万が一シャクルトンが死んだ場合、この探検を記録した写真の使用権や出版権をすべて自分にゆずるという契約書を用意して、サインを求めた。シャクルトンはなにもいわずに、その契約書にサインした。(同97ページより)

「万が一シャクルトンが死んだ」ら、エレファント島に残されたハーレーも生きてはいなかったことだろう。ちなみに『南極の スコット大佐とシャクルトン』31ページには、シャクルトンとハーレーの、二人が写った写真がある。

「この探検隊の貴重な体験を生き生きと語ってくれる」のはハーレーの写真だけではない。シャクルトンらがケアード号で旅立ったあと、エレファント島待機組のなかには日記をつける者もたくさんいた。

隊員たちの書いた日記は、のちに、なにものにもかえがたい情報源となって、ハーレーの撮った写真以上に貴重なものとなった。それぞれが、夢や気持ち、においや音といった、写真にはとらえることのできないものまでを語っている。それらの日記は、あるものは家宝として、あるものは博物館の展示品として、いまでも大切に保存されている。(同102ページより)

奇跡に満ち溢れた遭難エピソードのなかで、私が最高にイカれてると思うのが、サウスジョージア島横断中の出来事だ。この時は、シャクルトンワースリークリーンの3人で活動していた。山を登ったり下ったりするなかで、夕暮れがせまり、このまま山に留まっていると凍死してしまうという絶体絶命の状態。急いで下りる必要に迫られたものの、目の前に広がるは急斜面。そんなとこで悠長に足を運んでいるヒマはない。

絶望的な状況に追いつめられたシャクルトンは、たったひとつの可能性にかけることに腹を決めた。(同138ページより)

雪面を滑り降りようというのだ!

……マジか?ワースリーとクリーン、2人もこう思ったはずだ。

もはや暗くなり、斜面の先がどうなっているかもわからない。急崖から真っ逆さまに落ちる可能性もあるし、岩に激突する可能性だってある。

しかしほかに道はないのだ。

3人は縦一列にならんで座り、お互いの身体をがっちり絡ませあった。ちょうどリュージュをやるように。ただしソリはないが。

かくて、金メダルではなく、数々の命が賭けられたリュージュ競技が始まった。

やがて坂がすこしずつゆるやかになったかと思うと、三人はドサッと音を立てて、やわらかい雪の土手に投げだされた。しばらくの間、三人はぼうぜんとすわっていた。それから、止まっていることに気づくと、肩をたたきあってくるったように笑いだした。心臓が止まってしまうかと思われた滑走を無事にやりとげたのだ。(同139ページより)

エピローグで作者はこんなことを語っている。

 これほどの悪運と幸運の両方をあわせもった人間など、ほかにだれがいるだろう。運だけではない。シャクルトンと隊員たちが生きぬく上で、なにか目に見えない不思議な力が働いたとしかいえないような瞬間も数多くあった。

 嵐がとつぜん静まったり、危険に対する胸さわぎを感じて目覚めたり、流氷帯にみるみる脱出路があらわれたりといったできごとのほかに、シャクルトンはもっと別なことも感じていた。サウスジョージア島を横断している間中、シャクルトンは自分たちのほかにもう一人、だれかがそばにいるという感じをずっといだいていた。あとでワースリーやクリーンと話しているときに、じつは二人も、おなじように四人目のだれかがそばにいるように感じていたことを知った。それがだれなのかわかっていたとしても、シャクルトンは最後まで口にだすことはなかった。こうして、この不思議なできごとは、謎のままのこされることになった。(同161〜162ページより)

これを読んで思い出したが、同じような話を雪山遭難の体験でも聞いたことがあるのだ。ードマン現象と呼ばれる状況だ。シャクルトンの体験が元祖とは知らなかった。しかもシャクルトンだけでなく、同行したワースリーとクリーン二人ともが感じていたとは驚きだ。

『エンデュアランス号大漂流』の最後には「ある探検家」の言葉が紹介されている。

「科学的発見という点ではスコットに、旅のすばやさと効率のよさについてはアムンゼンに、しかし、危険がおそいかかり希望を失ったその瞬間には、シャクルトン、私はあなたの前にひざまずき、祈りをささげます*2(『エンデュアランス号大漂流』164ページより)

「ある探検家」とは、レイモンド・プリーストリーシャクルトンの「ニムロド遠征」に地質学者として加わり*3、続いてスコットの「テラノバ遠征」にも参加した男だ。シャクルトンとスコット、二人のリーダーを実際に体験している。

「テラノバ遠征」の一行は、

 1911年1月4日、25名の探検隊は、ロス海マクマード湾内、ロス島の岬に上陸し、ここを、副隊長エヴァンズ大尉にちなんでエヴァンズ岬とよぶことにした。

 さっそく船から19頭のポニー(小型の馬)、30頭の犬、動力雪上車、そして資材がおろされ、基地となる小屋が建てられた。(『南極の スコット大佐とシャクルトン』7ページより)

あとで紹介する『南極探検とペンギン』によると、プリーストリーはその動力雪上車を、もう一人の隊員とともに基地まで運ぶ作業を担っていた。そのとき突然氷が割れ、二人は雪上車もろとも冷たい海に投げ出されてしまった。プリーストリーにいたっては氷盤の下に入り込むという危険な状態。それを救い出したのがアプスレイ・チェリー=ガラードだった(『南極探検とペンギン』174ページ)

そのチェリー=ガラードが書いたのが『世界最悪の旅*4。出版以来、数々の人たち*5を魅了してきた名著だ。ここからはこの本についてご紹介する。

本作は「テラノバ遠征」についての回想録だが、“世界最悪の旅”とは、スコット隊が遭難死した極点旅行のことではない。「テラノバ遠征」で試みられたプロジェクトの一つ「ケープ・クロージャーへの冬の旅」のことだ。メンバーはエドワード・ウイルソンヘンリー・ボワーズ、そしてチェリー=ガラード。ミッションのメインはペンギンの卵を手に入れることだ。

なぜ“世界最悪の旅”になってしまったのか?

答えは明瞭だ。冬だから。

南極の冬……氷点下50度にも達する極寒の時期に、往復約250km、1ヶ月強もの旅をするなぞ正気の沙汰ではない。おまけに極夜で真っ暗なのだ。じゃあなんでわざわざ冬に?

コウテイペンギンの卵を手に入れるため。

医師にして動物学者でもあったウイルソンは、先に参加した「ディスカバリー遠征」の際に、コウテイペンギンが冬に繁殖することを発見していた。当時、コウテイペンギンは空を飛ぶ鳥たちの先祖だと考えられていた。そのコウテイペンギンの卵を採取して調べれば、鳥の進化について解明できるのではないかと考えたのだ。そこで、当時唯一の繁殖地として知られていたクロージャー岬(クロジール岬)付近を目指し旅に出ることになった。

旅の模様は、数々の人々を魅了ならぬ戦慄させるのにふさわしいものだ。

 エバンス岬からクロジール岬までの旅には、一九日のおそろしい日を費やしたが、それは体験してみなければわからないことである。もう一度これをくりかえそうという人間は愚の骨頂である。それは筆紙に尽しがたいものであった。この日から後の日は割合ましであった。それというのも、その後は状態がよくなったのではなくーーむしろはるかに悪かったのであるがーーそのわけはわれわれが無感覚になってきたからなのである。わたしは一度は、もし大した苦痛もなしに死ねるのであれば、死んでもかまわないと思うくらい、つらさの頂上にきたことがある。人々は死の英雄主義について語りあった。ーー彼らはよくは知らなかったがーーモルヒネの一服やおなじみの氷のわれ目や気持のよい眠りなどで死ぬのはたやすいことだと思っていた。ただそこまでいくのが面倒臭いというだけで……。(『世界最悪の旅』79〜80ページより)

こんな最悪な気持ちに陥らせたのは、寒さよりむしろ暗黒だったという。

なんせ起床してから出発の準備が整うまで、毎度4時間以上はかかっていたというのだ。照明器具はランプやろうそくしかない。ヘッドランプのスイッチを入れさえすれば済む時代ではないのだ。暗闇のなか、食糧を探すにも、コンパスを読むにも、テントの戸口を縛るにも、いちいち手探りでいちいち時間がかかっていた。しかも衣服をはじめあらゆるものが凍りつき、動きを妨げる始末。気持ちが挫かれていくのも無理はない。

目的地に着いてからも最悪の事態が待ち構えていた。猛烈なブリザードに襲われ、荷物置き場にしていたテントが吹っ飛ばされ、居住していた石小屋の帆布屋根もズタズタに引き裂かれてしまったのだ。テントや装備を失うのは、命の危機に直面するということ。チェリー=ガラードは「テントなしではわれわれは死んだ人間である」とまで書いている。

死んだも同然の状態を救ったのが、捜索のうち奇跡的に見つかったテント。

そしてバーディー*6がテントをもっているところに来た。テントは外おおいがまだ竹についたままであった。われわれの命は一たん奪い去られ、今ふたたびとり返されたのだ。

 うれしくてだれも何もいわなかった。(『世界最悪の旅』135ページより)

ところで、コウテイペンギンの卵を手に入れるというミッションはどうなったのか?

もちろん採取することはできた。このブリザード事件の前のことだ。だが手に入れた5個のうち、無事だったのは3個だけ。手袋に包み、チェリー=ガラードが運んでいた2つは割れてしまったのだ。残った3つの卵からは胎児が取り出され、アルコール漬けにして処理された。

しかし、これほどまでに苦労して手に入れた卵は、科学的にはほとんど役に立たなかった。前提となっていた「コウテイペンギンは空を飛ぶ鳥たちの先祖」が、そうではないことがわかったからだ。現在、アルコール標本となったペンギンの胎児と、その卵の一部はNatural History Museum at Tring(ウォルター・ロスチャイルド動物学博物館)に収蔵されている。

The worst journey in the world | Natural History Museum - YouTube

 

『南極の スコット大佐とシャクルトン』10ページにも、この“世界最悪の旅”について触れた箇所がある。旅の艱難辛苦を優れて表現しているものの、書かれているのはたったの8行きりだ。こんなに非情な旅なのに、南極探検の中ではエピソードの一つにしか過ぎないのだ。11ページには、基地に帰り着いた1911年8月1日その日、三人が食事をとる写真が載っているが、『世界最悪の旅』を読み終えてから見ると非常に味わい深いものがある。

なお、旅を共にしたウイルソンとボワーズは、その後スコット隊の極地点旅行に参加し、命を落としている。捜索にあたり彼らの遺体を発見した中にはチェリー=ガラードもいた。過酷な旅を共にくぐり抜けた友の死。それを目の当たりにするのは、痛恨の極みだったことだろう。

 ウイルソンとボワーズとは冬の旅行をやり抜いて生還し、のち南極行進に参加して死んでしまった。彼らは金のごとく純粋で光輝のある、まじり気のない人物であった。彼らの僚友ぶりがいかにすぐれたものであったかは、ここで言葉に表現できないことである。暗黒と厳酷のもと、人が生き抜く最悪の場合と信じられる、これら苦難にすべての日およびその後においても、一言半句の憎しみ、怒りの言葉も彼らの唇をもれたことはなかった。この旅行のもっとあとで、われわれはもはやこれまでと思ったことがあるが、それでも皆は快活であり、わたしの判断の限りでは、その歌も快活さも決してとってつけたようなものではなかったことをはっきりいえる。またこの人々は危機に臨んで機敏な動作こそとったものの、決してあわてるようなことはなかった。さほどでもない人間が生き残って、このような人たちが先んじて死んで行かねばならぬことがしばしばあるのは痛ましい。(『世界最悪の旅』91〜92ページより)

チェリー=ガラードは本書の最後でこう語っている。

探検とは知的情熱の肉体的表現である。

(『世界最悪の旅』273ページより)

知識に対して意欲があり、これを肉体的に表現する力があるのならば、探検に出でよと。極地に行くなんて気が狂ってると言われようが、何のために行くと問われようが、一人ソリを駆ることになろうが、それは非常に尊いものなのだ、と。欲するものがたとえペンギンの卵であるにしても*7、報われるところが必ずあるだろう、と。

『世界最悪の旅』には「テラノバ遠征」に関わる本が何冊か紹介されているが、その中の一冊にこういうものがある。

(中略)わたしはキャンベル隊の医師であったレービックが書いた『南極のペンギン』と題する小さな本について読者の注意を引かずにはすまされない。それはほとんど大部分アデリー・ペンギンについて書かれたものである。この著者は世界で最大のペンギンの営巣地の一つに一夏の大部分をすごした人で、彼はこのペンギンのこみあった生活をほとんど信じられないくらいの面白さをもって、また児童読物の筆者がうらやむほどの簡潔さでかいている。もし自分の生活をつらいものと考え、数時間でもそれからのがれたく思う人があったら、この話のおすそわけをこい、あるいは盗み出すことをおすすめする。そしてペンギンの生活がどんなものであるか読んでみるとよい。それはまったく本当の話である。(『世界最悪の旅』54ページより)

最後にご紹介する『南極探検とペンギン』は、この男レービック(レビック)について書かれた本だ。作者のロイド・スペンサー・デイヴィスは、レビックと同じく「ペンギン生物学者」でもあり、実際南極に赴いて調査研究をおこなったこともある。

 同じ一九一二年三月二十九日*8、スコットのテントから北へ三五〇キロメートルほど離れた場所に、もう一人、イギリス人がいた。ペンギンの研究をしていた人物だ。彼も医師で、スコットの南極遠征隊の隊員の一人だった。五人の仲間たちとともに南極で越冬することになり、雪の吹き溜まりを掘って洞窟を作りその中で暮らすことになったのだ。その日、彼は雪の洞窟の中で寝袋に入った。鉛筆を手に取り、「風が一日中、吹き荒れていた」と書いた。驚くべき冒険物語の始まりだった。彼は洞窟の中で一冬を過ごし、生還する。命を落とした者を含め、数々の冒険家たちに語られてきた物語のどれと比べてもひけを取らないとてつもない物語だ。スコットのテラノバ遠征に参加した、陰の英雄の物語である。世界初のペンギン生物学者にもなった彼だが、その偉業は、目的を果たさずに倒れたスコットの称賛と同情にかき消され、忘れ去られてしまった。

 本書は、彼、ジョージ・マレー・レビックのことを書いた本である。

(『南極探検とペンギン』9〜10ページより)

レビックはなぜ「五人の仲間たちとともに南極で越冬することになり、雪の吹き溜まりを掘って洞窟を作りその中で暮らすことになった」のか?どうして「彼は洞窟の中で一冬を過ごし、生還する」羽目になったのか?

レビックが加わっていたのはキャンベル隊。「テラノバ遠征」のなかの別働隊の一つだ。当初はエドワード7世半島の探検を担っていたため「東隊」と呼ばれていた。しかし上陸に失敗したため、予定を変更しクジラ湾方面からアタックをかけることになった。その途中出くわしたのが、誰あろうアムンセン隊である。エドワード7世半島に行くためには、ここに基地を作り、アムンセン隊と顔を付き合わせるほかはない。それをアムンセン自身からも勧められる始末。だが結局「東隊」はクジラ湾を離れエヴァンズ岬へ戻る。スコットへの報告の手紙を託した後、目的地をアデア岬(アデレ岬)に変更し「北隊」として活動することになる。

『南極の スコット大佐とシャクルトン』8ページには、

 いっぽうキャンベルたち6名の学術隊員は、エドワード七世ランドを調査する予定で、テラ・ノヴァ号でロス海を東に横断したが、上陸できず、西岸のアデア岬に目標を変え、ひき返す途中の2月1日、クジラ湾でアムンセンのフラム号にあった。

と書かれているが、この「6名の学術隊員」こそ、隊長のヴィクター・キャンベル、先にも紹介したレイモンド・プリーストリー、ジョージ・アボットフランク・ブラウニングハリー・ディッカソン、そしてマレー・レビックだ。

同15ページには、この「キャンベル隊」の写真が載っているが、左からディッカソン、アボット、ブラウニング、キャンベル、プリーストリー、レビックの順に写っている(Priestley, Raymond Edward (1886 - 1974) - Biographical notes "The Northern Party arrived at Cape Evans on the 6th of November 1912"のキャプションがついた6人の男が写った写真)。

1911年2月「北隊」は、「東隊」から変更後の目的地、アデア岬に上陸する。そこで宿舎を建て、気象や地磁気の観測、地質の調査、近辺の測量、ペンギンの調査など幅広い活動をおこなっている。ペンギン調査の中心となったのはもちろん、レビックだ。

レビックはメンバーに、ペンギンなどのほか、アザラシ、クジラなどあらゆる動物について何か興味深い発見をした際には、用意した記録ノートに書きつけておくよう求めている。ノートの冒頭には、次のようなルールが記されていたという。

  1. 絶対の確証がないことを事実であるかのように書かない。確証がない場合には、こうだと言い切ることはせず、「そう思った」、「そのように見える」というように確証がないことをがわかるように書く。また同時に、自分がどの程度、自信を持っているのか、またどの程度、自信がないのかも明確にする。
  2. 動物を観察する際には、できる限り動物の邪魔にならないよう注意する。特にペンギンがこの地に来た際には注意しなくてはならない。ペンギンが我々に影響されることなく、なるべく自然に居を定められるようにすることが重要だ。秋に我々が狩ったことで、オオフルマカモメが凶暴化したことがあったが、そのようなことが起きないようにする。
  3. 些細な出来事も実は重要な意味を持つことがあるので漏らさずに記録する。ただ、その場合も慎重に、正確な記述をするよう心がける。

 

注意ー鳥たちも我々と同じく生き物なので、痛みも我々と同じように感じるはずである。例えば傷ついたトウゾクカモメがゆっくりと自然に死んでいくことは仕方がないが、人間がわざわざ半時間も追い回して殺すようなことはすべきではないだろう。

(『南極探検とペンギン』228〜229ページより)

なんたる科学者魂!このルールを読んだだけで、レビックのファンになること間違いなしだ。科学者としてあらまほしい態度だけでなく、研究対象である生きものを尊重し、大切な存在として扱う気持ちにあふれている。作者によるとレビックは「科学者になるべき教育を受けたわけではないが、彼は科学者としての精神を持ち、科学の方法論を理解していた」。南極に来る前、レビックはイギリス海軍の医師として働いていたが、当時ブルセラ症の研究をおこなっていた彼は、感染者の尿からは伝染しないことを証明し、そのために自ら尿を飲んでみせたという(『南極探検とペンギン』89ページ)

レビックはその日記で、ペンギンについて、

…あの小さくかわいい者たち。私は彼らを殺したくはない。

(『南極探検とペンギン』190ページより)

とも書いていた。

しかし、結果的に多くのペンギンを殺すことになった。生きるために。

1912年1月、一行はアデア岬を引き払い、テラ・ノバ号を使ってテラ・ノバ湾エヴァンズ入江付近に上陸する。そこで40日間の調査旅行をおこない、2月半ばにふたたび迎えに来てもらう手筈になっていた。

だがしかし。

約束の日が過ぎても船は来なかった。分厚い氷に行手を阻まれ、迎えにいくことができなくなってしまったのだ。本格的な冬が来て氷に閉じ込められる前に、海氷から脱出しなければならない。テラ・ノバ号は時間の許す限り何度もエヴァンズ入江に近づこうとしたが、その度に海氷にはまり込んでしまう。しかしながら、身動きが取れなくなる前にニュージーランドに戻らねばならない。

 結局、テラノバ号は、キャンベル、レビック、プリーストリー、アボット、ブラウニング、ディッカソンの救出をあきらめた。エヴァンズ入江に取り残された北隊は、住処も、食料も、燃料も持たず、衣類もわずかしか持たずに南極で越冬する、という人類史上、例のない困難に挑むことになった。それはまさに「言葉で表現できないネクスプレシブル」な困難である。(『南極探検とペンギン』311ページより)

哀れな6人が越冬のために選んだ場所こそ「イネクスプレシブル島」だ。

"Inexpressible言葉に表現できない"と名を付けたのは彼ら自身だ。あまりにもひどい場所だったからだ。容赦なく強風が吹きつけ、大きくて丸く硬い石が無数に転がっている。レビックはこの場所について、こう書き記している。

地獄への道は善意で舗装されているということわざがあるが、私たちにとっては、イネクスプレシブル島こそが、善意で舗装された地獄への道なのではないかとも思えた。(『南極探検とペンギン』309ページより)

「言葉にできない」はずなのに、なんとも気の利いた言い回しではないか。

 

さて彼らは「住処も、食料も、燃料も」なく、どうやって生き延びたのか?

「住処」は雪洞を掘りすすめた。使える道具はなんでも利用した。氷で作った斧でも。

「食料」は……ペンギンやアザラシたち。今や6人は彼らの捕食者と化していた。

「燃料」はアザラシの脂。人も物もそこらじゅうが獣脂の煤で真っ黒に染め上げられた。

6人の悲惨な生活については、是非とも本書の「第十九章 冬」をお読みいただきたい。食料の調節、生活リズムの調整、健康の管理……男たちが生き延びるために課した規律、先を見越した洞察力は、現在に生きる我々にとっても大いに参考になる。そして、よくぞこの「筆舌に尽くし難い状況」を耐え抜き生還したものだと心の底から思うはずである。

奇跡的に越冬生活を耐え抜いた男たちは、1912年9月、ついに雪洞の住処を後にし帰路に着く。しかし生きてエヴァンズ岬に帰還するにはさらなる奇跡が必要だった。ディッカソンとブラウニングは下痢に苦しめられており、特にブラウニングの体調は最悪だった。そんな中そりを引いて歩かなければならないのだ。おまけに途中にはドリガルスキー氷舌という難所が待ち構えている。

そのドリガルスキー氷舌をわずか3日で克服することができたおかげで、希望の光が見えてきた。1912年11月7日、6人の男たちはそろってエヴァンズ岬に到着した。

小屋にいたのは2人だけだった。他の全員はスコット隊の捜索に出ていたからだ。

 

当時エヴァンズ岬の基地では、アトキンソンの指揮のもと13名の隊員が過ごしていた。チェリー=ガラードもその一人だ。

1912年6月14日、冬至まで一週間が迫るなか、13名は集まった。

その時のことを『南極の スコット大佐とシャクルトン』ではこう書かれている。

 本隊13名は対策会議をひらいた。春になったら、キャンベル隊を救出に行くか、極点隊をさがしに行くか。ふた手に分かれるには人数がたりない。

 キャンベル隊は自力で生還する可能性があるが、極点隊の運命と業績は、永久に埋もれてしまうおそれがあるーーこれが一致した意見だった。(『南極の スコット大佐とシャクルトン 』14ページより)

キャンベル隊を救出に行くか、極点隊をさがしに行くか。

もはやこの時には、極点隊つまりスコットたちはすでに死んでいると判断されていたのだ。

チェリー=ガラードは『世界最悪の旅』でこう振り返っている。

われわれが南方へ行くとして極地隊の痕跡をなにも発見することなく失敗し、ひと夏を空しく旅に費やしている間に、キャンベルの隊は救助をまちかねて死に果てることになるかも知れない。またわれわれが北方へ行くことにして、キャンベルの隊を無事に発見しても、反面に極地隊の運命とその業績は永久に不明のままに残されることとなる。死んだとわかっているものをさがすために、生きているものを見すててもいいだろうか。(『世界最悪の旅 』155〜156ページより)

かくて、スコット隊の業績は回収され*9、キャンベル隊は自力で帰還することになった。

 

作者のデイヴィスは、レビックについてこんな見方をしている。

 シャクルトンアムンゼン、スコットの三人が南極探検の歴史において特に重要な人たちであることには議論の余地はないだろう。この三人がいたからこそ、マレー・レビックが一時的にせよペンギン生物学者になるような状況が生まれたのだとも言える。(『南極探検とペンギン』402ページより)

そして、先に紹介したプリーストリー*10の言葉(「科学的発見という点ではスコットに、旅のすばやさと効率のよさについてはアムンゼンに、しかし、危険がおそいかかり希望を失ったその瞬間には、シャクルトン、私はあなたの前にひざまずき、祈りをささげます」)を引き、こう述べている。

 だが、マレー・レビックは、考えてみれば三人を合わせたような人物ではないだろうか。レビックは、形の上では北隊のリーダーではなかったが、実質的に北隊を支えていた。隊員たちの生存にとってもっとも重要な存在だったのがレビックである。その点で、彼はシャクルトンに似ている。細かいところまで神経が行き届き、計画性があるところはアムンゼンに似ていると言える。また持久力と忍耐強さはスコットに負けない。ラグビーをしていたこともあり、身体的強さもあった。(同)

南極探検の歴史にそれぞれ強烈な爪痕を残した3人を引き「それを合わせたような人物」とは、ちょっと贔屓目に過ぎるんじゃないかと思うが、デイヴィスのいうとおりレビックは「もっと有名になって当然」な男であることは確かだ。

 

本書の副題は"Antarctica's Forgotten Hero and the Secret Love Lives of Penguins"だ。

レビックはなぜ、"Antarctica's Forgotten Hero"ー忘れられた英雄、になってしまったのか?それには彼が発見した"the Secret Love Lives of Penguins"ーペンギンたちの知られざる繁殖行動、が関わっている。

彼が発見した「ペンギンたちの知られざる繁殖行動」とは?

レビックが観察をしていたのはおもにアデリーペンギンだが、奴らは同性愛行為もすれば、強姦・輪姦も辞さず、屍姦にすら及ぶことがある……ということ。

性道徳にやかましヴィクトリア朝に生きていた彼にとって、この現場を目の当たりにするのは非常な衝撃だった。たとえペンギンのであっても。秘匿しようとするあまり、観察記録をギリシャ語で書く始末。

それでもレビックは、南極からの帰還後、この衝撃的事実を論文としてまとめている。

しかし、

アデリー・ペンギンの性的習癖(The sexual habits of the Adélie penguin)*11

と題されたその論文は、公開されることはなかった。

1914年には、前述したチェリー=ガラードが絶賛した『南極のペンギンたち:その社会習慣の研究Antarctic Penguins: a study of their social habits)』を正式に出版しているが、その中でも触れることはなかった。

論文の公開を差し止め、著作への記載をも阻んだのは、シドニー・ハーマーという動物学者。当時ロンドン自然史博物館の“動物学の番人”だった男だ。レビックが秘密(secret)にしておきたいとギリシャ語で書いたように、ハーマーもまた、そう考えたのだろう。

「秘密の論文」は、ロンドン自然史博物館の、現代に生きる学芸員ダグラス・ラッセル)によって発掘された。そのレビックの論文を読んで衝撃を受けたロイド・スペンサー・デイヴィスが、今度はレビックの人生を発掘することになったわけだ。

ペンギンの「性的堕落」に戦慄、100年前の南極探検隊員 英研究 写真1枚 国際ニュース:AFPBB News

南極探検隊のノート、氷の中からみつかる 100年ぶり 写真2枚 国際ニュース:AFPBB News

 

強姦、輪姦、屍姦とまさに衝撃的な言葉をずらり並べたが、作者のデイヴィス自身も、その目で現場を見ることになった。アデリーペンギンの繁殖戦略を調べるために、交尾させてその精液を集めることになったのだが、そこに「剥製のメスペンギン」を使ったのだ。オスは何を促すこともなく行為に及んだばかりでなく、なんと試みに置いたぬいぐるみに対しても列をなしたという(『南極探検とペンギン』252〜255ページ)!節操なさすぎやな……。死んだオス相手にすらアプローチをかける、イギリスのモンシロチョウもびっくりだ(『まぼろし色のモンシロチョウ 翅にかくされた進化のなぞ(第423号)』)

つまり、オスのペンギンは、自分が交尾をする相手をよく確認してはいないということだ。相手がオスでも死体でもぬいぐるみでも、その違いを全く気にしていないのである。それは相手を間違えることのコストが安いからだろう。精子のコストが安いからだ。(『南極探検とペンギン』256ページより)

 

この『南極探検とペンギン』は、なかなか手強い本だ。

レビックがメインとはいえ、その生涯をストレートに描いているわけではないからだ。

縦糸に「レビックの人生」と「レビックのペンギン研究」を置きながら、横糸には「南極探検の歴史」「南極探検家のエピソード」を絡めるというアクロバティックな構成になっている。

さらに縦糸の「レビックの人生」と「レビックのペンギン研究」には、作者であるデイヴィス自身の「ペンギン研究」と「レビックを追うための調査研究」が絡められている。

横糸の「南極探検の歴史」「南極探検家のエピソード」に関連しては、「ペンギンの性愛事情」に絡めた「南極探検家の性愛事情(おもに不倫)」が書かれるという手の込みよう。

私も初読時は、ペンギンに引かれて手に取ったものの、複雑に絡み合うエピソードを前に立ちすくむばかり。ペンギンの箇所を拾い読みするくらいしかできず敗退を余儀なくされた。

今回『南極の スコット大佐とシャクルトン』の記事を書くにあたり、「南極探検の歴史の流れ」を叩き込むことになったわけだが、その上で『南極探検とペンギン』を読み直すと、あら不思議、それぞれのエピソードがクリアに見えてくるではないか。

そういうわけで、南極探検の歴史とくに「南極探検の英雄時代」に詳しくない方は、まずは大まかな流れ、登場人物をインストールしてから読むことをおすすめする。一冊で南極探検のエピソードを楽しめ、ペンギンの生態にも詳しくなれる*12、満腹感じゅうぶんな読書になるはずだ。

ブログ冒頭、

南極探検の歴史は複雑だ。

と書いたが、その複雑さの一因となるのが、人名や地名などの固有名詞。

一冊だけ読む分には混乱することはないが、何冊か読んでいると表記の揺れが目についてくる。『つばさをもった恐竜族 (たくさんのふしぎ傑作集)(第30号) 』で紹介した川上先生の本でも言われていた「日本語で片仮名書きにするときに混乱が生じる」問題だ。

たとえば「ヘンリー・ボワーズ」。このブログでは「ボワーズ」で統一したが、

『南極の スコット大佐とシャクルトン』では「バワーズ」、

『世界最悪の旅』では「ボワーズ」、

『南極探検とペンギン』では「バウワーズ」、

とそれぞれ片仮名表記が異なっている。他に読んだ本の中には「バワズ」表記も見られた。

 

混乱に拍車をかけるのが南極の地名。

なんせ南極探検の男たちは、地名に、自分らの名前をガンガン付けているのだ。

「キャンベル隊」の奴らだけでも、キャンベル氷河プリーストリー氷河レビック山ディッカソン山アボット山ブラウニング山、とこのとおり。

とくに厄介なのが"Evans"。このブログでは「エヴァンズ」で統一したが、

エヴァンス、エヴァンズ、エバンス、エバンズと表記が揺れる上、南極には、

など"Evans"のついた地名が多い。

エヴァンズ地名も、もちろん人名由来だが、さらなる混乱は複数のエヴァンズ氏の存在。

「テラノバ遠征」には、

  • Edward Evansエドワード・エヴァンズ)「テラノバ遠征」の副隊長。極点旅行の先発隊として途中まで同行したが、極点隊のメンバーには選ばれず。帰路に壊血病が悪化して危篤状態に陥った。
  • Edgar Evansエドガー・エヴァンズ)「テラノバ遠征」極点隊の一人。途中ケガをして、南極点到達後の帰路、状態が悪くなりいちばん始めに亡くなった。

と、二人の「エヴァンズ」が参戦しているのだ。「エヴァンズ山」と「エヴァンズ岬」は、このうちエドワード・エヴァンズ大尉の名前から取られている。

ちなみに「エヴァンズ入江」の方は、Frederick Pryce Evansフレデリック・プライス・エヴァンズ)に因んだものだそうだ。シャクルトンの「ニムロド遠征」で、帰路にニムロッド号の船長を務めた男だ。

このブログでも各固有名詞、引用含めさまざまな表記を使っているため(文章量も含め)かなり読みづらいものになってしまった。

 

↓ 他に参考にした本。こちらはスコットが隊長を務めた「ディスカバリー遠征」「テラノバ遠征」の地図や年表が見やすくまとめられている。

最後まで(お付き合いいただき)読まれた方のために、この記事に出てくる事柄だけでも整理してまとめておこうと思う。あくまでこの記事で触れたことを中心にしている。他に重要事項や重要人物があっても端折っているのでご注意いただきたい。カラーユニバーサルデザイン的には良くないが、複数の遠征に参加している人物は色をつけた太字にしている(並びは姓の50音順)。

隊員:エドワード・ウィルソンエドガー・エヴァンズトム・クリーンアーネスト・シャクルトンフランク・ワイルドなど

記事での言及:スコット、ウィルソン、シャクルトンによる南進旅行(1902〜1903)。ウィルソンはコウテイペンギンが冬に繁殖することを発見。

 

隊員:レイモンド・プリーストリーイニーアス・マッキントッシュフランク・ワイルドなど

記事での言及:プリーストリーがエレバス山で瀕死の目に遭う(1908)。

 

  • 1910年–1912年「アムンセンの南極点遠征」隊長:ロアール・アムンセン

記事での言及:「テラノバ遠征」中の「キャンベル隊」と会う(1911)。

 

  • 1910年–1913年「テラノバ遠征」隊長:ロバート・スコット

隊員:エドワード・L・アトキンソン、ジョージ・アボットエドワード・ウィルソンエドガー・エヴァンズエドワード・エヴァンズ(副隊長)、ローレンス・オーツ、ヴィクター・キャンベル、トム・クリーン、アプスレイ・チェリー=ガラード、ハリー・ディッカソン、フランク・デベナム、レイモンド・プリーストリー、フランク・ブラウニング、ヘンリー・ボワーズ、ジョージ・マレー・レビックなど

記事での言及:プリーストリー、上陸作業中海に落ちてチェリー=ガラードに助けられる(1911)。ウィルソン、ボワーズ、チェリー=ガラードの3人による“世界最悪の旅”(1911)。「キャンベル隊(キャンベル、プリーストリー、レビック、ディッカソン、アボット、ブラウニング)」による調査活動と過酷な越冬生活(1911〜1912)。極点隊(スコット、ウィルソン、ボワーズ、オーツ、エドガー・エヴァンズ)の南極点到達と遭難死(1911〜1912)。

 

隊員:トム・クリーン、フランク・ハーレー、フランク・ワイルド、フランク・ワースリーなど

記事での言及:エンデュアランス号の漂流と沈没(1915)。シャクルトンら6人によるジェイムズ・ケアード号の航海(1916)。シャクルトン、ワースリー、クリーンの3人によるサウスジョージア島横断(1916)。

 

隊員:スペンサー・スミス、ビクター・ヘイワードなど

記事での言及:南極横断探検隊のサポート部隊。オーロラ号の漂流(1915〜1916)。3人が命を落としている。

 

こう見ると数々の男たちが、複数の遠征にまたがって参加しているのがわかる。

特筆すべきが、トム・クリーンフランク・ワイルド。トム・クリーンは3回、フランク・ワイルドは5回もの南極遠征に参加している。

トム・クリーンは、「エヴァンズ」のところで紹介したエドワード・エヴァンズ(「テラノバ遠征」の副隊長)が、壊血病の悪化で危篤状態に陥ったとき、命懸けで助けを呼びに出かけた男である。

 その帰りに、エヴァンズ大尉は壊血病にかかり、危篤状態になったが、クリーンが単身、危険をおかして呼びにいった救援隊によって、助かった。(『南極の スコット大佐とシャクルトン』13ページより)

救援を求めるハット・ポイントの小屋まではおよそ55km。装備もなくわずかな食料だけを持って出発する。それまで3ヶ月半あまり厳しい長旅を続けてきたのに、そこから18時間もの危険な一人旅!ぶっ倒れるようにして到着したその直後にブリザードが発生し、危うく命を落とすところであった。

その後、エンデュアランス号の漂流でも「救援を呼びに」活躍したのは、先に紹介したとおり。サウスジョージア島横断に至る最後まで、シャクルトンとともに行動しやり遂げている。悪運の強さは折り紙付きだ。シャクルトンの幸運の一部に、この男が寄与していることは間違いない。現にシャクルトンは、クリーンを連れていけなかったその後の「シャクルトン=ローウェット遠征」で、志なかばにして病に倒れている(サウスジョージア島で生涯を閉じ、そこで眠ることになった)。

フランク・ワイルドは実は記事本文では取り上げていないが、これまた面白い男だ。クリーンが「救援」なら、ワイルドは「リーダー無き後のリーダー」として活躍した。

ディスカバリー遠征」中には、あるソリ隊が帰還の途中遭難し一人が滑落死した後、そのチームを引っ張って帰ってきたのがワイルドだったという。チェリー=ガラードは彼をこう評している。

この隊のなかにワイルドという水夫がいて、その者がビンスの死後の生き残り五名をひきつれて帰ってきた。ワイルドはそののちシャックルトンやモーソンの探検にもしばしば人の先に立った。極地旅行者として適格なものはなかなかえがたいものである。(『世界最悪の旅』39ページより)

「帝国南極横断探検隊」においては副隊長を務め、シャクルトンらがケアード号でエレファント島を旅立った後、島に残った22名を統率し根気良く待ち続けた。ワイルドのリーダーぶりについては『エンデュアランス号大漂流』にも描かれている。彼はその後の「シャクルトン=ローウェット遠征」にも参加し、シャクルトン亡き後遠征の指揮を執った。

『南極の スコット大佐とシャクルトン』36ページには、パイプをくわえポーズをきめた彼の写真がある。“シャクルトンの右腕”として活躍したワイルドの遺灰は、2011年、シャクルトンの墓の右側に埋葬されることになった。

 

以前、白瀬南極探検隊記念館を訪れた時に見たテラノバ号の模型。

われらが白瀬矗も南極点を目指し冒険を試みた一人だった。

 

<2022年12月15日追記>

佐々木マキが「作者のことば」でどんなことを書いてるのか興味を覚えたので、本誌(「たくさんのふしぎ」1994年2月号)を取り寄せて読んでみた。

 極地探検が、いまよりもっと危険で、もっと個性的だったころの物語を書いてみたいと、かねがね思っていましたが、こういう形で実現できてとてもうれしいです。(「作者のことば」より)

確かに、この「南極探検の英雄時代」は、危険で、個性的で、面白い物語でいっぱいだ。

 スコットの隊員であったチェリー=ガラードは、のちにこう言っています。「科学や地理の共同調査の組織づくりのことならスコットに、なにもかもすてて極地に突進するならアムンセンに、地獄の穴に落ちて助けを求めるなら、どんなときでもシャクルトンに、わたしは頼るであろう」(同)

え?なんかどっかで聞いたことある……でもこれ、チェリー=ガラードじゃなくて、プリーストリーじゃなかった?

実は調べるなかでチェリー=ガラードが言ったという話もあって、混乱していたのだ。

あらためて調べてみると……元ネタはチェリー=ガラードの方だった!『世界最悪の旅』の序文のなかでこう書いているのだ。

"For a joint scientific and geographical piece of organization, give me Scott; for a Winter Journey, Wilson; for a dash to the Pole and nothing else, Amundsen: and if I am in the devil of a hole and want to get out of it, give me Shackleton every time."

プリーストリーの方は、どうやらそれをパクったオマージュしたものであるらしい。上記チェリー=ガラードの原文ではウイルソンにも触れられている。

この直前の一文にも、

"They have all done good work; within their limits, the best work to date. There are jobs for which, if I had to do them, I would like to serve under Scott, Amundsen, Shackleton and Wilson⁠—each to his part."

とあって、きちんと彼の名前も書かれている。つまりこの言葉は、4人それぞれを讃えるものであったわけだ。チェリー=ガラードはやはり、Winter Journeyーー"世界最悪の旅"をともにしたウィルソンを、どうしても入れたかったのだろう。

 

 こうした、指揮者の性格や理念のちがいが、それぞれ独特のドラマを生みだして、それらがからみあっていく、そのことがわたしには、とてもおもしろいことに思えました。(同)

物語的には4人よりは3人で対比させた方が面白い。

とすると本書は「スコットとシャクルトン」じゃなく、3人の対比を描きたかったのか?

とはいえ、タイトルは「南極の スコット大佐とシャクルトン」。充てられるページ数もスコット14ページ、アムンセン4ページ、シャクルトン12ページだ。まあアムンセンは、脇目も振らずに極地点ダッシュ(奪取)したから、あとの二人と比べたら紙面を割くには限界があったかもしれない。

 

「注9」で書いたように、スコットは最期まで標本を手放さなかった。極地点を目指す途中ですら標本採集に余念がなかったのだ。

 あるいは、帰りの2月8日を地質標本の採集に使うかわりに、北へ向かって一日分の行進をしていれば・・、どうだったのでしょうか。

 しかしスコットやウィルスンの日記には、この日の地質調査がとても楽しかったとしるされていて、この人たちの興味と情熱は科学的調査にあったこと、なかば強制された極点到達競争には不向きの人間であったことが感じられて、なんだか気の毒になります。(同)

この2月8日については、本文でこう書かれている。

 7日、上氷河デポ着。翌日は、一日をついやして、ダーウィン山とバックリー島のモレーンで地質標本を採集した。(『南極の スコット大佐とシャクルトン 』17ページより)

このとき、チームの一人、エドガー・エヴァンズはかなり弱っていて、手の傷が化膿しているような状況だった。そんな最中でも調査はやめなかったのだ。

スコット隊の本来の目的は、極地点到達レースではなく、科学的調査の方だった。それはスコット隊全体に行き渡っていた理念だったのだろう。でなければ「死んだとわかっているものをさがすために、生きているものを見すて」る判断をするはずがない。結果的にはそれは正しいものとなった。

科学調査の輝き スコット南極探検隊 - 日経サイエンス

そうはいっても、佐々木マキはアムンセン隊に悪い気持ちを持っているわけではないという。ヴィクトリア朝を生きたお堅いスコットたちより、アムンセン隊の、ヴァイキングを思わせる「粗野な陽気さ」が好みだと書いている。

<2023年7月25日追記>

チェリー=ガラードが絶賛した『南極のペンギンたち:その社会習慣の研究(Antarctic Penguins: a study of their social habits)』の邦訳が出た。彼の言葉どおりの面白い本なので、ペンギン好きは、いや好きでなくともぜひ読んでみてほしい。

*1:邦訳『エンデュアランス号漂流』が出されたのも、星野道夫の話がきっかけだったようだ。Pan;エンデュアランス――史上最強のリーダー シャクルトンとその仲間はいかにして生還したか

*2:“For scientific discovery, give me Scott; for speed and efficiency of travel, give me Amundsen; but when you are in a hopeless situation, when you are seeing no way out, get down on your knees and pray for Shackleton”

*3:プリーストリーは「ニムロド遠征」で、エレバス山登攀にあたって超人的なエピソードを残している。出発時、天候が良かったため、プリーストリーらは軽装備で出かけることになった。すなわち5人パーティのところ3人用テントしか持っていかなかったのだ。案に相違して途中ブリザードに襲われる。3人用テントは4人までは入れてもさすがに5人は入れない。自ら外に出ると申し出たのがプリーストリーだった。彼は猛烈なブリザードの中、寝袋に入って3日間耐え抜いた。しかし吹き付ける風に押されて氷河を滑り、崖から落ちかけて危うく死にそうな目にあっている。

*4:現在手に入る「河出版の再刊」は、本作の全訳ではない。訳者の加納氏によると、原著は19章からなるが、そのうち第2章「東への航海」、第3章「南へ」、第4章「陸地」、第5章「食糧配置旅行」、第6章「第一の冬」のそれぞれ一部、第7章「冬の旅行」の全部、第8章「春」、第12章「極地行進」、第15章「第二の春」の一部、第16章「捜索行」、第17章「極地行進つづき」、第19章「ふたたび帰らず」のほとんど全部が訳出されている。

*5:極夜の探検(第419号)』の角幡唯介もその一人だ。『極夜行』120ページから語られることによると、彼が『世界最悪の旅』を読んだのは、探検部の遠征のさなか列車での移動中のこと。本書で描かれるスコット隊の惨状を読み、極地とは人間に死というものを強制的に受容させる恐るべき場所だという<極地観>を植え付けられたと書いている。そして同著で書かれるチェリー=ガラードらの極夜旅行に強烈な印象を受け、探検の経験を積み重ねたのちには極夜世界に未知の魅力と憧憬をもつようになっていたと吐露している。舞台こそ北極だが、チェリー=ガラードと同じく極夜探検を敢行することになったのは『極夜行』のとおりだ。

*6:ボワーズの愛称。バーディーことボワーズの頑強さには驚かされる。ほうほうの体でこの最悪の状況から抜け出したにもかかわらず、次に何をなすべきかという話し合いの上で、なんともう一度コウテイペンギンの元へ向かおうと提案しているのだ!狂ってんのか?さすがにウイルソンが承知せず、帰路に着くことになったが。チェリー=ガラードは「敬愛すべきバーディー、彼は断じて打ちひしがれることを承服できなかったのである。わたしは彼が一度でも打ちまかされるのを見たことはない(136ページ)」と書いている。
 また、ほかの者がいつも凍傷に悩まされているにもかかわらず、彼は一度も足に故障を起こしたことはなかったという。さらに「彼はよくねた。あんなに事情のさしせまった日でも、どんなに彼がよく眠ったかはわたしはむしろいいかねるのである。実に夜どおし眼をさましながら、彼のいびきをきいているのは、かえって心地のよいものである(139ページ)」。実にすごい男だ。
 逆にその強さがスコットとの極点旅行では命を奪うことになったのかもしれない。ボワーズは当初、南極点到達隊に加わる予定ではなかった。しかし経緯儀を正しく扱える者が彼のほかいないという理由で急遽参加することになった。問題は予定から一人増えたため物資の不足が想定されたこと。何よりまず、ボワーズはスキーを持っていなかった。彼は165cmという小柄な体型だったにもかかわらず、ひとり徒歩でついていくことを強いられた。『南極の スコット大佐とシャクルトン』13ページには、スキーで行進するスコット隊4人の姿が写されているが、ボワーズは撮影にまわっていたためその姿はない。

*7:もっとも、角幡唯介は『極夜行』で「コウテイペンギンの卵を手に入れることが科学の大いなる前進につながるという崇高な大義名分があったにせよーーこの死の世界に進んで飛び込む奇特な人間がいることにも理解のしがたさと、薄気味の悪い畏怖のようなものをおぼえた(123ページ)」と書いている。
 また『南極探検とペンギン』のデイヴィスも、ウォルター・ロスチャイルド動物学博物館で現物を目の前にしたとき「それだけを見ていたら、男たちが死にかけるほどの困難を乗り越えてまで手に入れたいほどの魅力があるとは思えない(210ページ)」と振り返っている。
 探検家にしてもペンギン学者にしても「たかがこのペンギンの卵のために!?あんな辛い冒険を!?」という思いに駆られるくらいイカれた旅だったわけだ。

*8:この日、スコットは最期の日記をつけている。

*9:『南極の スコット大佐とシャクルトン』15ページには「テントの中にはスコット、ウィルスン、バワーズの遺体があった。そして日記、記録、フィルム数巻、14kg以上の地質標本、何通かの手紙が見つかった」とある。驚くべきことに彼らは、死の差し迫った行軍の中でも最後まで重たい標本を運び続けていたのだ!
 『南極探検とペンギン』によると、オーツとエヴァンズの体調が悪化する中でもウィルスンは、岩石標本の採取を試みソリに積み込もうとしていた。オーツが去った(亡くなった)後もなお、オーツの荷物は捨てても標本だけは捨てなかったという。

*10:「ニムロド遠征」ではエレバス山で死にかけ、「テラノバ遠征」での上陸作業中には海氷に陥って危険な目に遭い、のちには「キャンベル隊」でイネクスプレシブルな越冬を強いられたこの男は、第一次大戦をも無事に過ごし87歳まで生きた。「キャンベル隊」の生還後には、かつて死にかけたエレバス山への登頂も果たしている。戦後は研究者として順調に歩み、フランク・デベナム(同じく地質学者で「テラノバ遠征」に参加し、エレバス山登頂に同行している)とともに「スコット極地研究所」を設立した。ここには極地探検家たちが残した日記など遺品が数多く収蔵されている。

*11:https://www.researchgate.net/publication/259425517_Dr_George_Murray_Levick_1876-1956_Unpublished_notes_on_the_sexual_habits_of_the_Adelie_penguin

*12:今まさにサッカーW杯の真っ最中だが、レビックは「繁殖にあぶれ一度コロニーを離れてまた出戻ってきた成鳥たち」を「フーリガン」と呼んでいた。親から離れたヒナを強姦したり時には殺しさえする“ならず者”だからだ。フーリガンの役割とは?なんでこんな酷いことする?という疑問については『南極探検とペンギン』の「第一六章 フーリガン」をお読みいただきたい。