表紙の写真、なにが“うまれる”のかわかるだろうか?
トノサマバッタなのだ。
土のなかからこんなんして生まれるとは知らなかった。
本号のテーマは誕生。生きものの子どもたちがたくさん登場する。
いきものは、みんな、
いつかどこかで、うまれてきた。
あかんぼうをうんだばかりのおかあさんも、
むかし、やっぱりおかあさんからうまれてきた。
当たり前のことだけど、あらためて考えると本当に不思議なことだ。
子供は夫と私から生まれた。夫は夫の父母から、私は私の父母から生まれた。夫の父母はそのまた父母から、私の父母もそのまた父母から。ずっと命のリレーを続けてきた、その先頭のランナーが息子なのだ。
生きものたちも同じだ。連綿と続いてきた生命のリレー。なかには途切れてしまったものもあるだろう。今生きているというのはそれだけで奇跡なのだ。
この本を読んだ子供たちは気がついただろうか?
自分もまた『うまれる』のなかの一人であるということに。「いちにんまえのおとなをめざしていきていく」真っ最中であるということに。
「作者のことば」には、奥多摩で会ったキノコ採りのおばあさんとの、不思議な会話が記されている。
「雨はやむでしょうか?」と声をかけた越智さんに「やむでしょう。なんでも、はじまりがあれば、おわりがありますから」と応えるおばあさん。面白いことを言うもんだなと、確かに始まりがあれば終わりがある。一生の始まりが「うまれる」なら、終わりは「しぬ」だなあと思い至る。
雨は止んでもまたいつか振り始める。止みっぱなしということはない。じゃあ一生の終わりはどうだろうと考えてると、おばあさんが、キノコ採りしながらポックリいきたいもんだと口にする。(死は)怖くはないのかと尋ねる越智さんに、
「なんにも。しんだら、うまれる前にいたとこに行くだけだそうですから。なんでも、人も動物も、木や草だって、しんだらみんないっしょだそうですよ。そしたら、またなにかになって、うまれるんでしょうかねえ」
じゃあ一生の終わりも終わったっきりじゃないのかなと考えつつ「ほんとうですか?」と問うと、おばあさんは笑いながら、
「まだお若いから、おわかりにならないでしょ」
と言って去っていく。
みなさんは私よりももっと若いから、なおのこと、わからないかもしれません。私も、まだよくわかりません。
と結ばれているが、今の越智さんはもう当時のおばあさんの方に近い年になっていることだろう。果たして「おわかりになった」だろうか?
生きものの子どもたちがたくさん登場する、と書いたが、掲載写真の撮影者リストは錚々たる顔ぶれだ。年代が年代だけにクリアで美しいものとは言い難いが、当時の最新技術の粋を集めた写真であることは間違いない。
今森光彦、星野道夫、中川雄三、吉野雄輔など、のちの「ふしぎ」でもお馴染みの方々や、栗林慧、岩合光昭など福音館でも多くの絵本を出されているお名前も見られる。今から30年以上前だから、皆さん若くて脂が乗っている時期の仕事だ。
星野道夫は若くして急逝したが、ほかの方々はまだまだ現役……と思っていたら、なんと中川雄三氏が亡くなられていたことを知った。今も自然観察イベントで「先生」を続けていらしてるのだろうなあ(『水中さつえい大作戦 (たくさんのふしぎ傑作集) (第128号)』)と思っていたので、亡くなられていたとはショックだ。
11/5(金)〜11/7(日)に山梨県富士吉田市民会館にて開かれた虹彩会展と併設された父の遺作展の様子をお届けします。
— 中川 樹海(なかがわ きみ) (@wakimikimi) 2021年11月15日
写真のキャプション等、一時停止してご覧頂ければと思います。#中川雄三 pic.twitter.com/gj7Pf0cdMT
『水辺の番人 カワウ(第392号)』の表紙写真を絵に描き起こしたものかなあという作品もある。こうして遺されたものを見たり、先生から教わったことを思い出したりするのも「一生の終わりも終わったっきりじゃない」ということなのかもしれない。