こどもと読むたくさんのふしぎ

福音館書店の月刊誌「たくさんのふしぎ」を読んだ記録です。

ぼくの影をさがして(第216号)

子供のころほどではないが、影というものの不思議さに、時々とらわれることがある。

影を使った美術作品を見ることがあるが、いつまで見ていても飽きない。子供も楽しんでいた動きのカガク展では、 クワクボリョウタ《ロスト #13》という作品に魅入られてしまったし、「鉄道美術館」展では、市川平《ジェネリックアートライン》が作る影絵をずーっと追っていた。

しかし、今号の著者が「作者のことば」で述べているように、私も、”この本に登場する「ぼく」のように、自分の影の存在をすっかり忘れてしまっている”。もっとも、自分の影というものにとらわれてしまうのは、なかなか厄介なことかもしれない。

「ぼくの影」といって思い出すのが、この本だ。別の世界に連れていってくれるような雰囲気の物語が好きで、何度か読み返しているが、結末はあれで良かったのだろうか?と今でも思わせる不思議な本だ。

しかし、ドッペルゲンガーとしての「影」の物語で、いちばん印象に残っているのは、ポーの『ウィリアム・ウィルソン』だ。分量としてはこんなに短い話なのに、夜の底深くに導かれる恐ろしい物語である。とくに、

私が入ってゆくと、その男は急いで私の方へずかずかと歩みよって、怒りっぽいじれったそうな身ぶりで私の腕をつかみながら、私の耳もとで「ウィリアム・ウィルスン!」とささやいた。

は、いつ読んでもゾッとする箇所だ。酔いがさめるどころの話ではなく、自分なら腰を抜かして失禁あるいは失神しているだろう。

 

『ぼくの影をさがして』の方は、ある意味健全な結末をむかえているが、これは、子供と影の関係がまだまだ親密だからかもしれない。陽光輝く中くっきり浮かび上がる自分の影と向き合い、夕暮れの街で長くのびた自分の影を追う、ゆったりと流れる子供の時間の中にしかない風景だ。子供は影をわすれてしまったりはしない。影をわすれるのはいつでも大人の方なのだ。