風が描く絵 鳥取砂丘(第472号)
「たくさんのふしぎ」の魅力の一つは“未完成”というところだ。
この絵本、実は何度となく読み返している。でもまるでつかめないのだ。鳥取砂丘の絵が。実際行ったことさえあるというのに。
絵は地味そのもの。だって砂と空しかない。
パッと華やぐのは32〜33ページだけ。砂丘にくらす生きものたちの姿だ。
主役は鳥取砂丘じゃないのか。こんな目立たなくていいのか。
絵を見て、文章を読んで、一生懸命想像する。でも想像しきれない。自然の作り出す絵は、自然に依存するからだ。晴れ、雨、強風、雪……天気によっても違えば、季節によっても違う。一日のなかですら異なる様相を見せてくる。日のあたる向きによって絵も変化するのだ。そこを想像するのは難しい。まして経験と想像力が不足する小学生はなおさらだろう。
ふと気がついた。視覚に頼りすぎている。
写真はどうしたって視覚中心のメディアだ。でも実際の風景は違う。音がある、または音がない。匂いがあり、風の吹き付ける感触がある。砂を踏みしめる感覚も。作者はできる限り表現してくれているが、限界がある。
鳥取砂丘は体感する絵なのだ。現場にいかないとわからない絵なのだ。
そこが未完成ということ。つまり鳥取砂丘に行ってこそ完成する絵本なのだ。鳥取砂丘に惹かれ通い続けてるのだから、なかには映える写真もあるだろうし、それを使ってもっとドラマチックに仕立てることもできただろう。でもそれじゃダメだ。鳥取砂丘をわかった気になってはダメなのだ、わかった気にさせてはダメなのだ。あなたも鳥取砂丘にきて、自分だけの絵を見つけてくださいということだから。
付録の一枚絵がまた、本当に地味。なんせこの7月号に「冬の鳥取砂丘」だ。しかも夜。肝心の砂丘ときたら画面の4分の1足らずだ。雪に覆われ、砂など見えない。画面いっぱいに広がるのは満点の星空だ。しかしこれを家の壁に貼ってみると、不思議な存在感が出てくる。そこだけポカっと鳥取砂丘があらわれるのだ。手を伸ばしたらワープできるかのように。
