こどもと読むたくさんのふしぎ

福音館書店の月刊誌「たくさんのふしぎ」を読んだ記録です。

劇団ふしぎ座 まもなく開幕!!(第71号)

子供の学校ではもうすぐ学芸会が開かれる。

オーディションでうまくいかなかったと言っていた息子は、希望の役にありつけなかったようだ。仕方がない。

私は衣装作り(といっても裁縫系ではなく工作に近いもの)のボランティアに行ったり、指定されるものを激安衣料品店に買いに走ったり。親も重要な「裏方」なのだ。

 

『劇団ふしぎ座 まもなく開幕!!』は「劇団ふしぎ座」が、“ふしぎ劇場”でお芝居を上演するまでのお話だ。演目は「森は生きている」。

「森は生きている」といえば思い出すのが、小学生の時に持っていた国語の参考書。設問はそっちのけで、マルシャークの描く物語に、それも一部分だけなのだが、没頭した。マツユキソウってどんな花なんだろう、十二の月の精はどんな姿だろう。今ならネットでさくっと検索して、あ、こんな可憐な花なんだ、とすぐに知ることができるけれど、乏しい知識や経験を総動員して想像をふくらませる楽しみも捨てがたいものだ。

まったくの余談だが、「知らない花を想像する」といって思い出すのが、BLANKEY JET CITYの「ライラック」。

でも ライラックってどんな花だろう
たぶん赤くて 5cmくらいの冬に咲く花
そんなに人気はない花だと思うけど

初めて聴いたときは、えっそりゃないぜ(本当のライラックこんな花)と思ったけれど、想像一つでこの歌詞世界を作り上げてしまう浅井健一もすごい。すごいけれども…北海道ではおなじみの花なので、ブランキーファンの道民は苦笑するほかなかっただろう。

 

この号を初めて読んだとき、最初に思ったのは、ちょっとわかりにくいなということ。観劇は何度かしたこともあるし、ゲネプロなどの用語も説明とともに書かれているので理解できないわけではないのだが…。何回か読んでもなかなかイメージが頭に入ってこなかった。お芝居も、そしてこの号で描かれる「お芝居が創られるまでの裏側」というものも、「見る」もので「読む」ものではないからかもしれない。

しかし「作者のことば」のなかの、演出家の原田一樹氏のインタビューを見て、ハッとした。「もし芝居の見方があるとするなら、どんな見方がありますか」という質問に、原田氏はこう答えている。

芝居とは何か、ということから話さなければなりませんが、まず、つくり手のテーマを考えてみてください。そのテーマがどのような形で舞台の中で表現されているかをさぐり、さぐりながら、共感あるいは反発していくことだと思います。それは本を読んでいるときと同じことなんです。最初は苦痛だけど、たくさん見ることかな。

一回読んで分からなければ、何回もわかるまで読めばいいのだ。お芝居は巻き戻すことはできないけれど、本ならいつでも好きなときに好きなところを読み返すことができる。それが本の良いところではないか。

そして「最後に役者は長いせりふをどのようにおぼえてるのですか」という質問に、

おぼえるんじゃないんです。こういうと、じゃあ、どうするのということになるけど、役者はせりふをおぼえるのではなくそのときの気持ちをつくっていき、つくっていく中で、身体にことばを肉づけしていってるのです。だから何回も立ちげいこをくりかえすのです。すると、その場にふさわしいことば、、、として、役者の口からでてくるというわけなんです。

と答えている。

言葉は「字面を目で読んで頭で覚える」ものではなく、繰り返し口に出して声に出して、自分の身体に染み込ませることで、血となり肉となるのだということがよくわかる。

一学年100人強、意欲も個性も違う子供たちが、演劇のプロではない先生(学芸会のプロではあると思うが)の指導のもと、1か月強の練習で作り上げる舞台。それぞれ少しずつの出番しかなく、しかし、それぞれの子が見せ場を作れるように、場面場面のメリハリを付けづらい演劇。小学校の学芸会の意義って何なんだろうなあ、と思っていたところだが、学芸会自体にはそれほどの意義はないのかもしれない。むしろ、この号で見せてくれるような「幕が上がるまでのお話」、つまり芝居の稽古であり、小道具や衣装の作製であり、リハーサルであり、そういうことこそが学芸会の本質なのだろう。一つのホンを読み込み、少ないセリフを繰り返し練習し、皆と息を合わせ、舞台を作り上げる。その道に進むのでなければ、学校というところでしか経験することはないだろう。実は意外とぜいたくな体験なのかもしれない。もっとも私は、自分が学芸会を演ったのかどうかすら覚えていないのだが…。

学芸会当日は、子供がセリフをセリフではなく、自分のものとして口から出すことができるのかどうか、興味深く見てきたいと思う。