こどもと読むたくさんのふしぎ

福音館書店の月刊誌「たくさんのふしぎ」を読んだ記録です。

本のれきし5000年 (たくさんのふしぎ傑作集)(第56号)

読書離れを子供の問題にしてはいけないと思う - スズコ、考える。

この記事の元になった新聞の読者投稿は、私もリアルタイムで読んでいる。

“読書をしなければいけない確固たる理由があるならば教えて頂きたい”

と問う彼に、答える言葉を持ち得ているだろうかと考え込んでしまった覚えがある。自分も長いことずーっとそう思ってきたからだ。本なんて趣味の一つに過ぎないじゃないか、と。

ところが子育てするようになって「子供と読書」についての物言いがずいぶんと存在することに気がついた。子供は本を読むべきとか、べきまでいかなくても、読書を好きになった方がいい、好きになってほしいとかいう。

ちょっと検索してみても、

脳科学でも証明されている!ゲーム好きな子が経験している5つの効果”だの、

“子どもを「テレビ好き」に変える、ただ1つの方法”だの、

いう言葉が並ぶことは決してない。赤字の部分には必ずといっていいほど「読書」または「」という言葉が入る。

大人(親や教師)にとって「読書」とはなにか?趣味の一つを醸成するためではない。教育の一環なのだ。

読書は本当に教育の一つなのか?本を読むだけが勉強ではないという言葉がある。逆にいえば、勉強には読書が欠かせないということなのだ*1。算数だって理科の教科書だって、みんな文字で書かれている。ノートを取るのも文字。1年生で最初に勉強するのも文字。読むことができなければ勉強は始まらないのだ。

教育というのは時に強制をともなう。強制をされれば楽しくない(=やりたくない)のは、当たり前だ。強制されていると感じる子供たちは、何のために勉強するの?(=勉強なんかやりたくないぜ!)という問いを発する。何のために算数勉強するの?何のために毎日毎日音読の宿題をしなくちゃいけないの?

つまり、大学生であるところの彼が発する、“読書をしなければならない確固たる理由があるなら教えて欲しい”という問いは、何のために勉強するの?という問いかけとほぼ等しい。大学生であるならば、“何のために勉強するの?”という問いかけをするはずがないのだ。

 

「読書」とは勉強だけのものだろうか?本は、勉強するためだけのものだろうか?

『本のれきし5000年』をひもとけば、勉強のことを考える以前に、本というものが一朝一夕に出来上がったものではないことがよくわかる。

5000年のスパンで考えると「本」というのは、ごく最近まで文字どおり「有り難い」ものだった。メソポタミアにおいて、楔形文字を粘土板に刻むのは修業した専門家の仕事だった。パピルス、羊皮紙、木簡や紙といった記録媒体も、各地域・各時代さまざまあれど、生産できる数は限られていたのだ。「本」は貴重で高価なものだった。限られた人しか手に取れず、したがって読み書きできる人も限られていたということだ。

「限られた人」でない中には、読みたいと願っても叶わなかった人々もいただろう。

 

“読書をしなければいけない確固たる理由があるならば教えて頂きたい”

と言い放てるのはなんと幸せなことだろうか。自分の好きな本を、好きな時に、好きなように読める自由、そして何も読まない自由さえある。なんと幸せなことだろう。読書をするのに理由なんかない。ただ読みたいから読むだけだ。

自分の幸せ、読むことができる幸せに気づかせてくれたという点で、彼の投稿には(皮肉ではなく)感謝の気持ちしかない。

冒頭、本についてこういう記述がある。

本とは、「ものごとや、自分の考え方、気持ちなどを文章や絵であらわし、書き写したり印刷して、ひとまとまりにしたもの」といえばいいでしょうか。 

私たちは、気軽に本を読むことができ、そして手軽に本を書くことができる時代と場所に生まれてきた。

本のれきし5000年 (たくさんのふしぎ傑作集)

本のれきし5000年 (たくさんのふしぎ傑作集)

※ 記事には続きがあります。

*1:ディスレクシアなど支援が必要な子供たちには、適切なサポートをするべきである。