こどもと読むたくさんのふしぎ

福音館書店の月刊誌「たくさんのふしぎ」を読んだ記録です。

あっ、流れ星!(第53号)

流れ星といえば、いつだったかの冬、夫がふたご座流星群を見に行こうとか言い出して、大きな公園に繰り出したことがあった。市街地から離れたところなら、きれいに見られるだろうという目論みだったのだが、思いのほか街灯が明るくて、じゃあ帰ろうかと引っ返してきた家の周りの方が、よっぽど暗くて観察に適していたというオチ。子供まで起こして寒い中出かけたのはなんだったのかという出来事だった。

その後しばらく、夫は観察すると言って外に残ったが、しんしんと冷える中、じっと見上げて星を待つような気力も根性もない私は、子供と共にあたたかい布団にもぐりこんで寝てしまった。

ときどき、市内の博物館で面白そうな観望会をやっているのだが、なかなか足を運ぶ機会がない。夏休みのイベントで子供と望遠鏡を作ったり、スーパームーンと言われれば外へ見に出たりと、天体について関心がないわけではないのだが、結局のところ、夜出歩くのが面倒という気持ちの方が勝ってしまっている。

私は星座とそれにまつわる神話が大好きで、ろくろく観察もしないくせにわりと知識だけはある方で、昼間に快適な空間でのんびり見られるプラネタリウムなら子供とよく観に行ったりもしているのだが、子供の方もそういうわけで、現実の空はそれほど熱心に見やしないのに、知識だけは一人前にある、みたいになってしまった。

 

本物の夜空で、子供に解説ができたら素敵だろうなーと思うのだが、たまたま夜見上げた空でオリオン座をほらと指差しても、私にわかるんだから子供にだってわかるわけで、そこが限界というのは何とも情けないことだ。郊外とはいえ肉眼で見える星は限られており、しかもメガネ越しと来れば、ただ見るだけならよっぽど子供の方が「見えて」いるわけだし……とか、詰まらない言い訳をえんえん垂れ流すのは、とどのつまり熱意に欠けているということなのだろう。

それでも重い腰を上げて出かけた先の立派な天体望遠鏡で、土星の輪が見られるんですよーとか、これがベテルギウスですとか“実物”を見せてもらうと、やっぱり本物は違うなーって、本当かよ!って突っ込まれそうなセリフが頭に浮かんで、でも本当にプラネタリウムとは違うし、リアルな星の光が届いているんだなと実感できるのだが、じゃあ自分一人でも星の観察をするかといえばなかなかそうはならない。

 

しかし今や、星座表とにらめっこしていた時代とは違う。家族で山に行った時、テント場で星を見ていたのだが、そばにいた他の登山者が何やらスマホを空に向けている。なんとかざすだけで、見ている空の星座表が現れるアプリだというのだ!あの星は何?えーと……みたいな会話を繰り返す親子にあきれたのだろう、その方はいろいろと解説をして下さった。本当にありがたいことだ。別の観察会では強力なレーザーポインターを使って解説してくれていたが、ピンポイントで指し示す先には目的の星がちゃんと見え、指を向けて教えてもらっていた時とは格段に違うわかりやすさだった。

このように、道具の進歩があるのだから、観察のハードルも低いはずだが……これからも、その時そこにいる「星の先生」に教えてもらうということから脱しきれないような気がする。この本の作者のように「小6の時、ジャコビニ流星雨を見たいがために、仕事から帰ってきた父にせがんで、家から車で1時間ほどの川原に連れていってもらう」ような人がきっと各地にいて、親切に星を教えてくれるはずだから。