こどもと読むたくさんのふしぎ

福音館書店の月刊誌「たくさんのふしぎ」を読んだ記録です。

空をとぶ(第19号)

シンプルなタイトルが、作者の矜持を感じさせる……と思ったが、どちらかというと「空をとぶ」喜びを素直に表現しただけなのかもしれない。

作者は鐘尾みや子氏。

お嬢さん、空を飛ぶ-草創期の飛行機を巡る物語』によると、

空を飛びたいという思いは12歳のころから抱き、職業パイロットを夢見たが、当時は女性がエアラインの機長や自衛隊パイロットになる道は開かれていなかった。東京農工大で繊維高分子工学を学び、国家公務員の上級試験を受けて特許庁へ入庁した。当時、1時間あたりの飛行訓練料金は、入庁したての鐘尾さんの月給の4分の1ほどだった。何より、社会人になってみると仕事を覚えるのが第一で、夢を実現しようとする余裕はなかった。けれども、結婚して子どもが生まれ、ふと気づくと30歳が目前に迫っていた。「体力的にも今始めなければ間に合わない」と思い立ち、飛行機操縦を習い始めた。(『お嬢さん、空を飛ぶ-草創期の飛行機を巡る物語』280ページより)

そして彼女は、あるとき思い立って東京郊外の飛行場に出かけることになる。

 おとなになってからも、「空をとんでみたい」という思いは、いつもわたしの頭の中のどこかにあった。そしてある日、わたしはとつぜん思いたって、飛行機を見に行くことにした。とくべつの理由はなかったのだけれど、なんとなくもういっぺん飛行機をそばで見たくなったからだ。

そこで「飛行クラブ」という看板を見た彼女は、飛行機の操縦を習うべく門を叩くことになるのだ。

本号を読むと、彼女が飛ぶときの喜びがひしひしと伝わってくる。飛行機を操縦するって、自分で飛ぶってこんなに楽しいことなんだと。

そればかりではない。「飛行機のおもな部分の名前」「飛行機のしせいをかえるには」に始まり、飛行技術や航法に必要な道具まで説明されており、紙上で訓練の様子が詳しくわかるようになっているのだ。その熱意は、子供たちを空の世界に誘っているかのようだ。

だが、飛行に対する思いは、

ずっと抱き続けてきた空への憧れは、18年間けっして誰にも話さなかったという。「自分にとって、とても大事な夢だったから、ずっと誰にも話したくなかったんです」 (『お嬢さん、空を飛ぶ』280ページより)

と秘めた望みであったようだ。1949年生まれの女性にとって、空を飛びたいという願いは口にすることすら難しい時代だっただろう。フルタイムで仕事をし、家庭を持ち、子育て真っ最中の時に、夢を追う決心をする彼女の精神力は私の想像の埒外にある。事故の可能性も考えないことはなかっただろうが、長年の夢への思いの方がはるかに強かったのだろう。30手前という脂が乗り切るか乗り切らないかという時期だからこそできたことだろうか?

練習は毎週土曜日の午後だけだった。朝、子どもを保育所へ預け、半日仕事をした後、飛行場へ行って訓練を受け、保育時間の終わる午後7時までに子どもを迎えに行くという厳しいスケジュールである。長年の夢をかなえようと頑張る姿を見て、夫も協力してくれた。(同280ページより)

その後、彼女は飛行機の自家用操縦士に加え、事業用操縦士の免許、グライダーの自家用、事業用免許教育証明などを次々に取り、曲技飛行まで楽しんでいる。

職業として飛べなかったのは、もしかしたらかえって良かったことなのかもしれない。ご本人の気持ちはどうあれ、飛行を仕事としていたら、ここまで自由に飛ぶことを楽しみ、空で遊ぶことができていたかなと思うのだ。 

<2023年4月1日追記> 

翼の上でテニスまで! 命懸けで大空への道を切り開いた女性たち | ナショナル ジオグラフィック日本版サイト

こちらの記事を読んで鐘尾みや子さんを思い出した。

航空黎明期の飛行は『飛びたかった人たち (たくさんのふしぎ傑作集) (第66号)』が示すように、死と隣り合わせだった。女性だろうが男性だろうが忖度などない。空をとぶことにかけて皆平等なのだ。そういう意味で「彼女たちは、女性というよりも人間として評価されたかった」というのはよくわかる。

驚くべきは『太平洋横断ぼうけん飛行(第112号)』で紹介したような、バーンストーミングにも携わっていたこと。バングのように曲芸飛行や空中サーカスもこなしていたとは!

そんな「飛びたかった女たち」の意欲を挫いたのは戦争だった。戦争の主役は男たちだからだ。戦後の民間航空でも女性の進出を阻んだのは男性たち。飛行の自由を女なんぞに渡してなるものかという執念すら感じる。それほどに「空をとぶ」のは魅力的だということなのだろう。