太平洋横断ぼうけん飛行?
実はこの「太平洋横断ぼうけん飛行」、日本と深いかかわりがあるのだ。
まず朝日新聞社が懸賞金を出していたこと。
同社では、1931年4月20日、太平洋無着陸横断飛行(本州とカナダのバンクーバーより南の間を飛行)の最初の成功者に、日本人であれば10万円、外国人であれば5万円を出すと発表していた(太平洋無着陸横断 : 懸賞飛行審査会 本社内に設置)。
そして出発地に青森の淋代海岸が選ばれ、そこから5つのチームが太平洋横断飛行に挑んだこと。
ミス・ビードル号 公式ウェブサイト|太平洋無着陸横断飛行の挑戦物語
本書はなかでも、ミス・ビードルで飛んだ「クライド・パングボーン&ヒュー・ハーンドン」チームを中心に描いたものだ。
ストーリー自体は、本書の内容を紹介せずとも「ミス・ビードル」で検索をかけるといくらでも見つかる。ここでかいつまんでご紹介するより、そちらを参照いただいた方が早いし面白く読めるだろう。
印象に残ったのは、初めてのことを成功させるには、大胆な発想と行動力が必要なんだなということ。
パングボーンは、1931年9月にチャレンジした「ドン・モイル&セシル・アレン」チームの失敗を見てある方策を思いつく。北太平洋では暴風や霧が発生するため、影響を避けるには高度を上げて飛行する必要がある。彼らは燃料を多く積んだため高く飛ぶことができず、暴風に巻き込まれてしまった。そこで考えたのが、飛行後に車輪を支柱ごと捨て去ってしまうこと。
しかし車輪を捨てれば胴体着陸を余儀なくされる。こんな計画がバレたら飛行許可が出なくなってしまう。彼らは格納庫のなかでひそかに作業を決行した。胴体着陸に備えて機体を補強し、機内から操作して車輪と支柱を落とせる仕掛けを施したのだ。
果たしてこの仕掛けは成功したのか?
成功とも失敗ともいえる。一つの車輪を支える支柱3本のうち、1本が残ってしまったのだ。両車輪とも。これでは着陸のときに大事故になりかねない。ではどうする?
本文30〜31ページの文をご覧いただこう。
離陸から21時間が過ぎた。東の空にひろがる雲の海から朝日がのぼってきた。ミス・ビードルはアラスカ湾の上を、クイーン・シャーロット諸島にむけて飛んでいた。行く手には大きな積雲がつらなっていて、危険をおかして雲の中を飛ぶこともあった。
雲の上に出たとき、パングは操縦桿をハーンドンにわたし、自分の体をロープにつないで、主翼の支柱に立った。4300mの空の上から雲間をとおして、はるかにアラスカ湾の荒海が見える。パングは吹きつける風に体をさらしながら、車輪を落としたときのこってしまった2本の支柱をはずし、それが落ちてゆくのを見とどけた。雲と風の観客しか見ていない空での素晴らしい曲芸だった。
パングボーンがこんな曲芸をやってのけたのには布石がある。
少年の頃から空にあこがれていたパング。彼が飛行を身につけたのは第一次大戦時、航空兵のときだった。戦後バーンストーミングの道に入り、ゲイツ飛行サーカス団(Gates Flying Circus)*1で曲芸飛行や空中サーカスに明け暮れる。十八番は超低空での背面飛行で「さかさまのパング(Upside-Down Pang)」と呼ばれていた。ある時にはパラシュートの紐が絡まってしまったスタントパフォーマーの女性を空中で救助するという離れ技を披露し、一躍有名になったこともあった。百戦錬磨、曲芸飛行をものする彼には、空の上で残った支柱を叩き落とすなど造作もないことだったに違いない。
リスクはむしろ「操縦桿をハーンドンにわたし」た方だったかもしれない。
ハーンドンのポンコツぶりときたら、なかなかのものなのだ。
パングボーンとハーンドンは、もともと太平洋無着陸横断飛行に挑む予定ではなかった。最初は世界一周記録を打ち立てるために、ミス・ビードルに乗りニューヨークを出発したのだ。ポスト&ゲッティによる「8日と15時間51分」の記録を破るべく。
それがハーンドンのせいで思わぬ展開になっていく。
(略)パングにかわって操縦したハーンドンがコースをまちがえたりしたが、それでも新記録をつくってイギリスにつき、ロンドンからベルリンをとおってモスクワへむかった。だが、ロンドンでハーンドンが親戚の人に会うために時間をむだづかいしたので、モスクワについたときには、ポストたちの記録に10時間ちかくもおくれてしまっていた。
ウラル山脈をこえてシベリアに入ったあとも、パングが仮眠している間にハーンドンがまたコースをまちがえて、貴重な時間をうしなった。
這う這うの体で到着したハバロフスクでは、水浸しの滑走路でブレーキが効かず飛び出してぬかるみに突っ込む始末。現地で今後の方針を思案中に知ったのが、朝日新聞の懸賞金のことだった。こう考えると、ハーンドンのポンコツがなければ、ミス・ビードルの太平洋横断飛行もなかったといえる。
ちなみに、二人は日本に向け入国許可の申請をしたものの、許可が下りていない段階でハバロフスクを出立している。突然立川飛行場に現れた、ミス・ビードルと二人に驚いたのが日本の警察だ。
結果的に、この見切り発車は高くついた。
『ミス・ビードル、高くゆっくりとまっすぐに翔べ』によると、飛行許可書を持たない二人は、スパイの疑いをかけられて拘束され、すぐさま長時間の取調べを受けた。期せずして要塞地帯上空を飛行し写真を撮影してしまっていたからだ。結果「不法入国」「航空法違反」「要塞地帯法違反」の三つの罪に問われることになった。
ハーンドンの母、アリス・ボードマンを通じて本国上院議員に働きかけたりもしたが、結果二人は罰金刑に処せられる。直ちにハーンドンは、母に二人分の罰金4,100円の支払いと、ミス・ビードルの改造代2,000ドルの送金を依頼する。ハーンドンの最大にして最強の利点は「金持ちの息子」であるということなのだ!
しかし、この男は太平洋横断飛行中にも盛大にやらかしている。増設した予備タンクから主翼のメインタンクにポンプで燃料を送らねばならないところ、残量のチェックを怠ったのだ。しかも二度も。その結果メインタンクの燃料が空になり、エンジンが突如停止するという危機を招くことになった。それを救ったのはパングの卓越した操縦技術だった。
ハーンドンの(母から引っ張る)金なくして成功はなかったとはいえ、パングの心のうちは蟠りでいっぱいだったようだ。1931年12月22日付タイムズユニオン紙には「ハーンドンは無能力とパングボーン語る」という記事が掲載されている。
そのなかでパングボーンは、ハーンドンが結婚に熱中して操縦技術の習得努力を怠りナビゲーターとしての技術をほとんど身につけていなかったということ、そしてハーンドンは操縦士と呼ぶよりは、乗客と呼んだ方が適切だったことなどを語っていた。
パングボーンは性格的に、他人の批判をすることはほとんどない人間だった。その彼が前述のようにハーンドンを批判したことを考えると、この度の冒険飛行の結果、パングボーンが受けた不快な出来事の数々が、腹に据えかねたからに違いなかった。
以後、ふたりはまったく疎遠となり、共に行動することはなかったのである。
(『ミス・ビードル、高くゆっくりとまっすぐに翔べ』191ページより)
操縦士と呼ぶよりは、乗客と呼んだ方が適切だった
実際のところ、全航程200時間以上のうち、ハーンドンが担当したのは10時間程度だったという。ほぼ大部分をパングが操縦していたわけだ。にもかかわらず、パングは懸賞金の大部分をハーンドンに持っていかれてしまった。ハーンドンが担当した諸手続きや契約書にろくに目を通すことなくサインしてしまったからだ。おかげで彼が手にしたのは賞金25,000ドルのうち2,500ドル程度に過ぎなかったという。
この絵本の「絵」の主役は、なんといってもミス・ビードル。そして「赤」だ。
見開き画面中心に構成されているが、どのページにも彼女がいる。出てこないのはほんの数ページだけ。真っ赤な機体が本当に愛らしい。青い空によく映えている。絵だけ順々に眺めていくと、彼女を主人公にしたちょっとした映画を見ているかのようだ。本文16ページにはこんな文がある。
パングたちは、格納庫のなかでひそかにすすめてきたミス・ビードルの準備をおえると、9月29日の朝、見送りの人たちの激励をうけて出発地の淋代海岸へ飛び立っていった。東北地方はもうすっかり秋の気配で、淋代海岸には赤トンボがたくさん飛んでいた。
淋代に降り立ったミス・ビードルの周りには赤トンボが舞っている。彼女を歓迎するかのように。
もう一つ大事な「赤」が登場する。
リンゴだ。
淋代海岸のある三沢村の人たちは、村長はじめ村民総力を上げて二人を歓迎していた*2。まったくのボランティアで、滑走路の整地や飛行機の整備にも協力したのだ。村長の長男の妻であるチヨは滞在中二人の世話をしただけでなく、心づくしのお弁当を持たせている。サンドウィッチ、唐揚げ、果物や魔法瓶に詰めた熱いお茶など。
その果物の一つがリンゴ、紅玉だ。
パングたちが太平洋を横断した後アメリカで着陸したのはウェナッチという町。ここにはパングの母と兄が住んでいるのだ。
パングは到着後、母に「日本のおみやげはこれだけ」とリンゴを差し出したという。
ウェナッチも、青森と同じくリンゴの名産地。
当地の人々は感謝の意を表し、朝日新聞社宛にリチャーレッドデリシャスという新品種のリンゴを贈る。防疫の関係で差し押さえられていたところ、研究用に提供してくれと懇願したのが青森県苹果試験場(現青森県りんご研究所)。しかし願いはむなしく送り返されてしまう。そこであきらめなかったのが試験場。果実がダメなら穂木ではどうか?ウェナッチ商業会議所会頭に手紙をしたため、穂木を送ってもらうよう依頼する。果たして若枝5本が届けられた。
やがて若枝はそだって、たくさんの苗木がつくられ、リンゴ農家にわけられて日本でも広まっていった。いま、くだもの屋さんの店先にならんでいるリンゴのなかには、太平洋横断飛行がもたらしたリチャーレッドデリシャスの子孫もまじっている。
ミスビードル号 | 地方独立行政法人 青森県産業技術センター
ミス・ビードル本機は、持ち主が変わった後、大西洋飛行中に行方不明になってしまった。出資者であるハーンドン家の意向で売っぱらわれてしまったのだ。スピリット・オブ・セントルイス号は今なお国立航空宇宙博物館に展示されているというのに。ハーンドン家の功罪はどこまでも大きい。
しかしまったく残っていないわけではない!ウェナッチバレー博物館には、ミス・ビードルの一部が残されているのだ。先に触れたとおり、ウェナッチ到着では胴体着陸を余儀なくされた。その際プロペラが地面に突き刺さり、ねじ曲がってしまったのだ。パングは着陸時、なんとか態勢を立て直そうとしていたが前のめりで突っ込むことになってしまった。博物館にはこのねじ曲がったプロペラが常設展示されている。これもパングの“失敗”のおかげといえるかもしれない。
Home Address: Anywhere in the Air | Wenatchee Valley Museum & Cultural Center
一方、青森県立三沢航空科学館には復元機が展示されている。
A-01 ミス・ビードル号 Miss Veedol | 青森県立三沢航空科学館
淋代ではその後、国際的飛行場整備の構想もあったようだが、日の目を見ることはなかった。しかしほど近い場所に三沢基地として実現することになった。
実は私たちも三沢航空科学館に立ち寄ったことがあるのだが、ミス・ビードルを見た記憶はまったくない。昔の写真を漁ってみたけど、彼女がチラとでも写ってるのは一つもない。やっぱり肝心なものを見逃している(『言葉はひろがる (たくさんのふしぎ傑作集) (第36号)』)。
本文には、
日本から飛び立って初の太平洋横断に成功したパングボーンの名前は、日本ではあまり知られていない。だが、かれらのぼうけん飛行は、リンドバーグの偉業に匹敵するものだった。
と書かれているが、どうしてどうして、少なくとも三沢では、今やリンドバーグより知られた名前ではないだろうか。パングボーンはともかく「ミス・ビードル」は。調べるといくつもの関連ページが見つかるのだ。そのどれもが熱心に情報を発信している。今でも三沢の人たちに愛されてるんだなあとわかる。
『太平洋横断ぼうけん飛行』の最後40ページに描かれるは青い空、そして美しい虹。真っ赤なリンゴ5つと赤い飛行機がそっと置かれている。「太平洋横断ぼうけん飛行」の“果実”を表しているかのようだ。
“果実”は飛行の成功だけではなかった。ミス・ビードルは三沢とウェナッチの間を飛んだだけでなく、二つの町を結び、町の人々をつなぐ役割を果たしたのだ。
*1:28ページには「ゲイツ飛行サーカス団」のビラのイラストが描かれているが、ビラの文字は大川おさむ氏が作成している(『字はうつくしい わたしの好きな手書き文字(第455号)』参照)。
*2:三沢村の尽力は二人に対してだけではない。1930年から1932年までの三年間、太平洋横断飛行に挑んだ5つのチームすべてを支え続けてきた。『ミス・ビードル、高くゆっくりとまっすぐに翔べ』では「突然、まったく思いがけず、太平洋無着陸横断飛行の出発地となった三沢村は、自分たちの郷土が一躍世界的な壮挙の地に選ばれたことを素朴に喜び、その成功のために献身的な協力を惜しまなかったのであった」と書かれている。天候待ちなどでの出発延期で協力作業の期間が長引くこともあり、農作業の中断を余儀なくされると、たまりかねて不平を漏らす者も出たという。