『宇宙とわたしたち(第385号)』のきょうだい本といえるものかもしれない。
私たちの体を作る物質は、100億年間も宇宙をめぐってきたものです。宇宙の中で、星や星間ガスと形を変えながら、100億年以上の時間をかけて、めぐりめぐって、いま、私たちの体の一部になっているのです。(『宇宙とわたしたち』ふしぎ新聞「作者のことば」より)
まさにこれを描いたもの。私たちは「星の子ども」であるばかりでなく、ひょっとしたら「星の親」になるかもしれないという話だ。私たちは死してなお、宇宙に「生きた証」を残していくんだよと。
一読して気づいたのは、絵が目に入ってなかったなということ。
文を読みながら、私は頭のなかで「自分の絵」を描いていたわけだ。
これは私が大人だからだろうか?ある程度知識を持ってる大人だからだろうか?
思ったのは「時間」という抽象的なものを取り扱ってるのに、佐々木マキは抽象的すぎやしないかということ。佐々木マキの絵が悪いのではない。文章からすると、もう少し具体的な「絵」が必要だったのでは?ということだ。
具体的とはどういうことか。クレオパトラや家康はともかく原子だの何億年前の話だの星間ガスだのどうやって具現化するというのか。
付録の一枚絵、高砂淳二の写真を見て、あ。こういう感じかと思ったのだ。
理性ではなく感覚に訴えかけるというのは賛否分かれるところだと思うが、絵よりもむしろ写真で「見せた」方が良かったのではと思ったのだ。
もちろん力のある写真を持ってきてしまうと、今度は文が入ってこない。写真はどうしても視覚に訴えがちなので、バランスが難しいところだとは思う。
そういう意味で、佐々木マキの絵は「個々の想像力」の邪魔をしないともいえるが。
ならば、絵本の「絵」の意味があるのか?これは佐々木マキの「絵」だけ楽しめるという本にはなっていない。絵だけ見て楽しいという本ではないからだ。
私は子供の本のプロではないので、小学生向けとしてどうなのかはわからない。子供たちはこの絵本をどう読むのだろうか?