『言葉はひろがる』の12ページには、こう書かれている。
地球上に今、何種類の言葉、いくつの言語があるかは、数えかたによってちがいますが、2500種とも、3500種ともいわれています。
人間の歴史の中で、これまでにあらわれ、消えていった言語は、どのくらいあるのか、わかりません。
かなり前になるが、この「はてな匿名ダイアリー」
が出た時、ずっと考え込んでしまった覚えがある。
自分は日本が太平洋戦争で敗戦したと同時に日本語を廃止にしてGHQにより英語を日本の公用語にしてほしかった。
中途半端に英語の授業を取り入れるくらいならいっそ英語を日常的に用いて、日本語はたまに授業で習う程度でよかった。(はてな匿名ダイアリー「日本の公用語が英語だったら良かったのに」より)
この匿名ダイアリー筆者(以下「筆者」)がいう、
「英語を日常的に用いて」
とは、
「公的な場での日本語を廃して、強制的に英語使用へ切り替える」
ということだ。それがどういう事態を引き起こすか。歴史には枚挙にいとまがないほど転がっている。いちばん影響を受けるのは学校教育だ。
たとえばウェールズ。イングランドへの事実上併合の後、英語が公用語になり、ウェールズ語は禁止された時代があった。学校のなかには、ウェールズ語使用に対して"Welsh Not"を使った罰則をもうけるところまで出てくるようになった。
日本でも同じことが起こっている。「方言札」だ。標準語強制のため、学校で方言を話した者に罰として使われた。特に沖縄ではきびしく、明治期から始まり第二次大戦後まで続いていたという話が残っている。
ウェールズでも沖縄でも、自分たちの言葉(ウェールズ語/沖縄方言)を使わないようにすべきだと、自ら考える人たちもいた。(英語/標準語)のほうが仕事につきやすいなど、経済的および社会的な理由からだ。
「標準語励行の実態と人々の意識 ―方言札に着目して―」
http://hougen.sakura.ne.jp/hidaka/okinawa/2006/3_18.pdf
においても、
沖縄の人々にとって標準語は生活するために不可欠なものである。「本土の大学に入ったときや就職で本土に出たとき、軍隊に入ったときなどに、本土の人々と話ができるようにするため」という理由で標準語励行を行なう学校もあった。このようなことから、国家や県の一方的な強制だけではなく、人々が標準語の必要性に気づいたことなどの要因も複合して生まれた教育だといえるのではないだろうか。(「標準語励行の実態と人々の意識 ―方言札に着目して―」より)
と書かれている。
それを考えると、言語統制ともいえる強制(矯正)教育のなかでは、筆者のいう「日本語はたまに授業で習う程度」みたいな緩い事態はありえないのだ。少なくとも英語教育開始当初は「日本語を学校授業で扱う必要はない」とされるはず。日本語を学ぶどころか、方言札のような罰則付きの教育になることは火を見るよりも明らかだ。
「日本語はたまに授業で習う程度」になるまでには、長い年月を要する。英語教育が進み、私的な場でも(英語/標準語)が浸透し「このままでは(言語/方言)が失われてしまう」という危機感をもってはじめて検討されることになるだろう。その頃には、ほとんどの子供たちが日本語を自然には使えなくなっているはずだ。
筆者が想定するのはおそらく、
「日本語が失われつつあり、すでに英語が日用言語として使われるようになった世代」
としての自分だろう。英語を強制され、苦難のなかで日本語を手放した世代ではない。そんな苦難など、後世が英語を使えるようになることと比べたら、大したことがないと思うだろうか。
前掲「標準語励行の実態と人々の意識」を読むと、方言札教育は必ずしも苦痛、重荷ばかりでもなかったようで、ゲームのようにとらえていた子供たちもいたようだ。同時に、沖縄の人びとの証言からは、悲しみとも諦念ともいえる複雑な思いが浮かび上がってくる。ためしに、人びとの証言のなかの「方言」を「日本語」に、「標準語」を「英語」に置き換えてみたらどうなるだろうか。
- 日本語で話すことは恥ずかしい、英語を話す家庭はステータスが高いと感じるようになった人々もいた。
- 日本語を禁止され、劣等感を抱くようになった人もいた。
- 日本語や文化など日本独特のものをすべて否定されたため、つらい思いをした人もいた。
- 日本語大会などの公式な場で日本語を話すことは現在でも抵抗があると述べる人もいた。
- 英語がわかれば「世界」の人と話したり「世界」の新聞を読んだりできるので、英語教育は生活する上で必要だったと述べる人もいた*1。
変換した発言を読むと筆者の、
なにが悲しくて日本語なんて欠陥言語を使わないといけないのだろうか。
という発言が真に迫ってくる。
はじめこの匿名ダイアリーを読んだ時、
自分の住む国で母語を当たり前に使えて、
不自由なく勉強できて、
母語に翻訳された数多くの外国語の本も読めて、
母語を禁止され否定されて劣等感を抱かされたりすることもなく、
……そんなめぐまれた環境に生まれ育ってきたのに、なんてバカなことを言うんだろうと怒りさえ覚えていた。
日本人の英語力の低さを嘆いて『学校の授業を英語でしろ』っていう人がいるが、母国語で教育を受けられなかった国は悲惨な事になってるぞ - Togetter
世の中には、匿名ダイアリーの元になった記事、
言語が減ることって問題ですか?への私の答え|下地理則(九州大学人文科学研究院准教授)|note
にあるように、話者がつぎつぎといなくなって母語を失うひとたちもいるのだ。
そればかりでない。
失われるのはことばだけではない。ことばというのは、その人のアイデンティティと深く関わっているものだ。ことばを失うというのは、ルーツを失う、アイデンティティの一部を失うことなのだ。
さて,こうして言語は上の世代とともに消えていくが,その土地と,その土地に暮らす若い世代は,「この土地に暮らす我々」という自我意識(アイデンティティ)を言語以外の何かに求めながら,生きていくことになる。それまで当たり前に存在していた,言語という,アイデンティティの重要な一部が消えてしまうのである。(言語が減ることって問題ですか?への私の答え|下地理則(九州大学人文科学研究院准教授)|note より)
だからこそ、この記事で紹介されるハワイでは、ハワイ語や先住民文化を復活させ守っていこうという取り組みが活発化しているし、沖縄でも言語保護活動がおこなわれていたりする。アイヌだって、アイヌ語の保存活動が長年続けられてきている。ことばというのは単なるコミュニケーションのツールではなく、ひとの心を支える支柱でもあるのだ。筆者がいう「日本語はたまに授業で習う程度」で、果たしてアイデンティティを取り戻す役割を担えるだろうか。
筆者にとって母語でありおそらく母国語でもある*2日本語を「欠陥言語」と卑下するのは、それなりに理由があるはずだ。
長年言われ続けてきた「6年間学んでも英語を話せない日本人」という呪詛のせいだろうか?呪いを打破するために、大学入試改革をぶち上げ、英語民間試験導入を目論む一方、生じる格差は自助努力で乗り越えろと言い放つ“身の丈発言”のせいだろうか?はたまた過熱する学校外での英語教育を享受する、恵まれた者たちへの恨み節だろうか?
筆者の本当の願いは、ブックマークコメントにもあるように
「自分の母語が英語だったら良かったのに」
もしくは、
「世界で通じる言葉が日本語だったらよかったのに」
ということだろう。
自分の母語が多くの地域で通用する言葉だったらよかったのに。その気持ちはわからなくもない。
本号9ページで、鶴見俊輔はこんなことを言っている。
人間は、べつべつの言葉、べつべつの宗教、べつべつの国にわかれてそれぞれかたまっていて、べつの言葉、宗教、国の人間と殺しあいをします。その殺しあいをとめる力を、言葉はこれまでもっていませんでした。むしろ、人間どうしの殺しあいを、言葉が、火に油をそそぐようにしてはげしくしてきました。
そればかりではない。戦争は言葉そのものも攻撃のターゲットにしてきたし、言葉そのものも憎しみの対象に変えてしまうのだ。
今苦境に立たされているウクライナ、そしてその苦境の原因であるロシア。
「べつの言葉、宗教、国の人間と殺しあい」というほど距離感がある国同士ではない。ルーツも共通するところがある。ウクライナ人であっても、ロシア語を使う人たちがいる。たとえ「ウクライナ語を使うことが禁止され、ロシア語使用が強制された時代」の産物だったとしても、ロシア語を母語とする人たちもいるのだ。
しかし、この度の戦争で、そのロシア語は「自分たちに害をなす国の言葉」に様変わりしてしまった。
「ウクライナ語で叫びたい」 - ドキュメント20min. - NHK
ロシア語の使用制限を支持 「共存は無理」 著名ウクライナ人作家 | 時事通信ニュース
「言葉に罪はない」ウクライナでロシア語を話す人たちの思い | NHK国際ニュースナビ
「同じ言葉を使う国」が始めた軍事侵攻によって、罪のない人たちが苦しみ、互いを分かり合うためにこそ使われるべき言葉が、憎しみの対象になってしまっている。(「言葉に罪はない」ウクライナでロシア語を話す人たちの思い | NHK国際ニュースナビより)
言葉に罪はないのは確かだが、“敵国”の言葉を使うことに対する複雑な思いが浮かび上がってくる。
先に紹介した「方言札」の話は、つい最近、はてなブックマークでも話題になっていた。
比嘉光龍(ふぃじゃ ばいろん) on Twitter: "琉球人は学校教育で母語である琉球諸語を言語ではなく「方言」だと定義され、もし学校で使おうものなら写真のような屈辱的な札を首からかけられました。
琉球諸語は「方言」か「言語」かという話はさておき、「日本語標準語の公用語化」はかつて沖縄だけでなく、朝鮮・台湾などの占領地においても行われていた。皇民化教育だ。
日本語標準語の公用語化……もちろん政策統治的な目的で行われたものとはいえ、ある種「日本語が多くの地域で通用する言葉だったらよかったのに」を体現するものといえよう。言葉に罪はないけれども、日本による植民地支配、同化政策を体験した世代のなかには、日本語を「自分たちに害をなした国の言葉」としてとらえている人もいるはずだ。
かつての日本が、日本語の公用語化を強制し、現地の人の言葉を奪っていたことも知らず「日本の公用語が英語だったら良かったのに」と言ってるのだとしたら、その無邪気さにゾッとする思いだ。
母語はアイデンティティと深く結びついていること、その大切さ、なんの支障もなく使えることのありがたみ……ついついそんなことを語ってしまった。
しかし実は、本号で鶴見俊輔が言いたいのはそこではないのだ。
タイトルは「言葉を守る」ではなく「言葉はひろがる」なのだから。
言葉がどのように「ひろがっている」のか、その最初の例として挙げられるのがラナルド・マクドナルド。1848年、鎖国下の日本に密入国した男だ。マクドナルドの母はネイティブ・アメリカン、彼は母方の親戚から、自分たちのルーツは日本人と同じだと教えられて育ってきた。そこで彼は捕鯨船プリマス号に乗り込み、日本行きを企てる。北海道の日本海側に来たところで、単身ボートに乗り込み上陸を試みるのだ。
何日かぶんの食糧とともにボートにのりこんだ彼は、陸にむかってこいで行きました。たったひとりで。そこでどういう人に会うか、どういう言葉を使っているかも知らずに。
着いたところは焼尻島だった。そこで3〜4日滞在した後、ふたたびボートを漕ぎ出し到着したのが利尻島。初めて“日本人”に会う。アイヌの人たちだ。その後マクドナルドの“来日”は役人に知らされ、取調べの後、長崎に送られることになる。
長崎でマクドナルドは、日本語を覚えようと“単語帳”を書き留めていた。本書18ページにその一部が載っているが、例えば「Baka(ばか)」だったら"fool"とか、独自の辞書を作り上げていたのだ。周囲から日本語を学ぶかわり、オランダ通詞(『ガリヴァーがやってきた小さな小さな島(第223号)』)たちに教えたのが英語。なかでも森山栄之助の上達は目覚ましく、1854年のペリー来航の際には通訳代表を務め上げるほどになった。
ペリー来航より5年前、漂流者を装って日本に密入国した北米人ラナルド・マクドナルドの奇妙な情熱と冒険 | サライ.jp|小学館の雑誌『サライ』公式サイト
マクドナルドとは逆に、日本から外国にたどり着いた人々もいる。漂流しロシアまで行った大黒屋光太夫、アメリカ本土までたどり着いた中浜万次郎などだ。
この人たちは、前もって、ロシア語、英語をまなんでいたわけではありませんが、外国の島にたどりついたり、外国船にすくいあげられてから、相手を人間としてよく見て、その身ぶりと声の調子で、まちがいなく意味をとらえ、毎日の用をたすことができるようになりました。
光太夫も万次郎もマクドナルドと同じく、独自の辞書を作り上げ自分のものとしていた。
今の英語辞書は、万次郎のおぼえがきにくらべると、だんちがいに進歩しています。今の日本人は、その辞書を万次郎ほど熱心に使いこなしているでしょうか。
マクドナルド、吉田寅次郎、光太夫、万次郎の意気ごみには、今日の日本人がわすれてしまったものがありそうです。
相手の言葉を知らなくても、相手が人間ならばじぶんの言いたいことが通じるはずだ、という意気ごみです。知らない言葉でも、それをききとる力をもつことができる。そのことを、この人たちは、わたしたちにおしえます。
これは「日本の公用語が英語だったら良かったのに」と、結局はつながる話なのだ。
中途半端に英語の授業を取り入れるくらいならいっそ英語を日常的に用いて
中途半端な英語の授業などなくても、英語が日常的じゃなかろうと、何も知らなくたってやり取りしているうちに通じることができるはずなのだ。英語だろうがロシア語だろうが。言葉というものを話す同じ人間なら、言いたいことを聞きとることができるし、こちらも相手に通じさせることができるはずだ、と。先人たちはそれを教えてくれているではないかと。
『鶴見俊輔集 3 記号論集』の「日本語と国際語」には、これと同様のことが書かれている。
その鎖国時代に漂流者と密航者が日本の外に出ていって、日本の外の人たちと話をまじえ、話をすることに成功しているわけです。こういう人たちはどういうふうにして違う国民との話合いに成功したかという、その実例の検討は、われわれがそれから百数十年あるいは二百年くらいたったあとで、今国際的表現の道を探すやり方に大して参考になるんじゃないかと思うんです。(『鶴見俊輔集 3 記号論集』66ページより)
そして、アメリカへの密航中、船の雑役をしながら英語を習得した新島襄を引き合いに出し、そういった共同の目的のなかで意思疎通(言葉)を学ぶやり方も考えられるのではないかというのだ。
これはある種の国際基礎語の考えに似てくると思います。それは着せかえ人形みたいに、違うものを、違うことばのセット、これがロシア語ならいくつ、英語ならいくつ、基礎英語だと八百五十ですけれども、八百五十でなくても、五百でもいいんですけれども、そういうものをつくりまして、そしてある共同行動の中でそれを学習するような、いろいろな学習計画の編成もできるのではないか。(同69ページより)
一方で、鶴見俊輔はこんなことも言っている。
今までお話しした国際語への提案は、非常に楽天的な一種のマス・コミュニケーション万能主義みたいなものとして受け取られるかもしれませんけれど、やはりここには抑制が必要なんですね。それは、国際語というものにはもう一つ別の次元があるということの自覚です。それは国際語と権力との相関関係という問題なんです。支配、非支配、支配する、支配されるというふうな関係があるときに国際語の中に組み込まれてしまうということは、非常にある人にとってはまずいことになる。精神の自主性を失うように感じられるという場合があるんです。それは主観的な問題だけかもしれませんが、その主観を一つの事実としてとらえる眼が必要です。
たとえば明治以後ですと、朝鮮語の問題を考えるとはっきりする。日韓併合というやりかたで日本が朝鮮の国を取ってしまって、併合と称して朝鮮人はみんな日本人だといったわけです。朝鮮語の教科書をつぶしてしまうし、しまいには苗字も日本名前にしろというふうなことを言って、朝鮮語を奪ってしまったわけです。この状態で朝鮮人は非常に苦しい状態に追い込まれたわけです。日本の政府の意思ではなく、自分なりに考えていきたいと思う人たちは、両親が日本に流れてきてしまってから生まれた人でも、いくらかの自分の知っている朝鮮語を自分の心の底に蓄えておいて、これによって考えようという努力をしていったわけです。こういうふうに各言語の独自の値打ちがあるわけで、それぞれの言語というのは、各個人の自主性への意欲のにない手になるという場合があるわけです。(同70ページより)
一つの単一の世界語がやがて世界に生まれるであろう。それは、これを学びなさいというしかたで世界の人間がみんな学ぶ、そして世界が一つに結ばれるであろうというふうな、直線的なユートピア像をわれわれはもつことはできないのです。その場合にも、支配、非支配の関係が残る以上、その世界の中での少数者である各民族の言語が、自主的でありたいと思う人たちにとってもつ意味は残る、値打ちは残る、そういう言語の次元を考えてほしいと思うんです。(同71ページより)
そして「自由な相互性に立った国際語」が意味をもつためには、そのための言語哲学に裏付けられていなければならないと言うのだ。
全体として国際語へとわれわれを導くのに二種類の対立する言語哲学があるように思うんです。一つは官僚語としての国際語の使い方ですね。これは世界語でもそういうふうになりうると思うんですけれども……。それはすでに完全につくられたものとして言語を使うという言語哲学なんです。その反対は、つくられつつあるものとして、いやつくるものとしてその言語を使うというやり方なんです。つくられたものとつくるものというのはスピノザの『エチカ』の中にある区分ですけれども、私的な人間としての国際語の使い方というのは、つくるものとして、またつくられつつあるものとして言語を使う言語哲学によって裏づけられていかなきゃだめだと思うんです。(同74ページより)
「日本の公用語を英語にする」というのは、まさに「官僚語として使う」という言語哲学に基づくものでしかあり得ない。そうではなく、現に生活する一人の人間として、英語(言葉)を話そうではないか、そういう言葉の使い方もあるはずだというのだ。
『言葉はひろがる』の最後、鶴見俊輔は次のように語りかけている。
言葉は、じぶんにとっては、じぶんが使いはじめた言語がもとになります。わたしたちにとっては、それは日本語です。この日本語を、人間が使う言葉として使うようにしたい。この言語にうまれついたものでない外国人も、気もちよく使える、ふところの深い言語にしてゆきたいものです。
地球上の人間は、食べる、眠る、はたらく、休む、つきあう、愛する、遊ぶという、よく似た問題をかかえて生きています。そのために使っている言語がこの日本語であり、ほかのさまざまな外国語だということを、感じとる力をもつようになりたい。
「国際母語の日 2020」日本語版ポスター | 一般財団法人日本エスペラント協会
- 作者:鶴見 俊輔
- メディア: 大型本
ラナルド・マクドナルドが上陸した焼尻島。以前も書いたが(『旅をするチョウ(第211号)』)、渡り鳥の中継地であり、野鳥の楽園でもある。時季には鳥類標識調査が実施されている。
宿泊した「磯乃屋」さんには、焼尻鳥類研究所が設けられ、バンダー(渡り鳥の標識調査員)さんたちのサポートもしているようだった。その時会ったバンダーさんの一人が、偶然にもうちの子と同じ名前だったのには驚いたものだ(珍しくはないが、よくある名前でもない)。
マクドナルド上陸記念碑のところも見た(通った)はずだが、例によってまったく覚えていない。野鳥観察という目的を達している子供はともかく、私はいつも肝心なものを見逃している感じがする。