こどもと読むたくさんのふしぎ

福音館書店の月刊誌「たくさんのふしぎ」を読んだ記録です。

ガリヴァーがやってきた小さな小さな島(第223号)

小さな卵の大きな宇宙(第166号)』もそうだったが、『ガリヴァーがやってきた小さな小さな島』もなかなかに不思議な本だ。なんせ語り手は、あのガリヴァー旅行記の主人公、レミュエル・ガリヴァーなのだから。

ガリヴァーが何を語るというのか?

小さな小さな島とは?

ガリヴァーは、1709年5月、日本の港ザモスキ(観音崎という説がある)に着いた。

では小さな島とは日本のことか?

いや、もっともっと小さな島の話なのだ。

 ——そうなのだ、1709年6月9日、私がはじめてこの小さな小さな島にやってきた日も、たしか、こんな日だった。

1709年6月9日、ガリヴァーがやってきたのはナンガサク。ナンガサクとは長崎だ。小さな小さな島とは出島(デシマ)のことなのだ。 

 出島——こんなふしぎな島は、世界じゅう探してもあるまい。

 私はガリヴァーだ。馬が主人公になったり国へも行った。不死の人間がいる国もたずねた。けれど、出島のふしぎさは、そういうことではない。

 出島のふしぎさは、大航海の時代、発見の時代、科学の時代、そういった新しい時代のヨーロッパが生み出した大きな大きなエネルギーが、東洋のはしのこの小さな小さな島に、どっと運ばれてきたことだった。

 『ガリヴァー旅行記』という空想の舞台に、さらにフィクションを実装した物語は、何が本当でどこが“偽物”なのか、何が何やら判別しがたくなってゆく。『ガリヴァー旅行記』自体も、

作者のジョナサン・スウィフトは 『ガリヴァー旅行記』を出版するとき、自分の名をかくして、出版業者のリチャード・シンプソンという人が、いとこのレミュエル・ガリヴァー氏が書いた珍しい旅行記を世に出した、ということにしました。(「作者のことば」より)

という態で書かれたものなのだ。『ガリヴァー旅行記』には数々の架空の国が出てくるが、「日本」だけが実在する国なのもややこしさに拍車をかけている。

ガリヴァーがやってきた小さな小さな島』は、『旅行記』の時代と合わない部分がある(お話の中でも言及されている)一方、出島とそこにまつわる話は、実在の人物や実話が盛り込まれている。しかしながら、そこには作者の空想も入り混っている。

どこが本当で、何が作りものなのか。

そんなことはどうでもいいことかもしれない。

ホントもウソもひとまず置いて、ただの物語として読めばいいのだから。

作者が伝えたいのは、出島に運ばれてきた、「新しい時代のヨーロッパが生み出した大きな大きなエネルギー」が、島に止まりきらず日本じゅうに広まっていく様、“たくさんのふしぎ”を知りたい学びたいと思う人びとの、好奇心そのものだからだ。

 世界の東の日本語、西のオランダ語。その両方のあいだに立って、ことばのなかだちをする通訳のしごとはどんなにたいへんだったろう。この人たちは出島では「阿蘭陀通詞オランダつうじ」と呼ばれていた。通詞がいなければ、出島ではなにも進まなかった。

「新しい時代のヨーロッパが生み出した大きな大きなエネルギー」を広げる役割を果たしたのは、何はさておき、こうした通詞たちだった。言葉がわからなければ、何事もわからないからだ。

 そして、通詞とは、通訳をするだけではなかった。出島にいて、ヨーロッパの科学をだれよりも先に知ることができたこの人たちのなかから、医学や天文学や化学や生物学の専門家が生まれていった。

 通詞。それは新しい世界をその目で確かめた人たちだった。

通詞という仕事は世襲だった。先人の少ないフロンティアを、限られた人たちだけで切り開くのは容易ではなかったことだろう。世界をその目で確かめる……新しい世界を知るには苦労も多かっただろうが、楽しいことでもあったに違いない。だからこそ、医学や天文学や化学や生物学といった専門家たちが生まれていったのだ。

出島のオランダ商館責任者である商館長(カピタン)には「江戸参府」という仕事があったが、江戸への贈り物のなかには、天体望遠鏡、顕微鏡、地球儀、天球儀、貴重な医学書なども含まれていたという。しかし、

出島にはどのような暮らしがあったの? |出島|出島|長崎市公式観光サイト「 あっ!とながさき」

にある「商館長の贈り物」のコラムを読むと、当時の幕府高官の中にはその意義を解さない人もいたと書かれている。すなわち、1659年に江戸に到着したワーヘナール商館長は、幕府高官の老中稲葉美濃守いなばみののかみに天球儀・地球儀、望遠鏡、草木誌などを贈ったが、期待したほどの感銘を与えなかったらしい。望遠鏡と草木誌にいたっては突っ返す始末。もっとも1659年は、吉宗が生まれてもいないころだ。蘭学が本格的な学問として発展していくには、彼が第八代将軍に就任し、享保の改革——洋書の輸入制限を一部緩和し、実学を奨励する、を進めるのを待たなければならなかった。本号本文で曰く「ヨーロッパの科学のいちばん新しい成果が、そのまま出島から江戸へと、届けられた」けれども、その価値を理解するには、吉宗の政策とオランダ通詞たちの活躍が必要だったのだ。

1659年、老中稲葉美濃守が望遠鏡を返品した時代からおよそ170年後、同じく老中の地位を経た土井利位は、顕微鏡を使って雪の結晶の観察書を著すまでになった。『雪華図説』と『続雪華図説』だ。寡聞にして知らなかったが、ベントレー(『ゆきがうまれる(第383号)』)のはるか以前に、我が国にも“雪の結晶観察沼”にハマっていた男がいたのだ。

 出島から顕微鏡を手に入れたのは、家老の鷹見泉石だったろう。お殿様の研究のよきアシスタントだったこの家老は、出島のカピタンともしたしく、ヤン・ヘンドリック・ダップルというオランダ名前までもらった仲だった。

利位のおかげで、古河は降雪地帯でもないのに、雪華紋様をモチーフにしたデザインにあふれているということだ。市内小中(合併前旧古河市内)の校章には、軒並み雪華デザインが使われている。当時の古河は雪を十分に観察できるくらい寒かったということだが、同時に大飢饉の時代であったことを考えると、手放しで沼ハマ話に感嘆してる場合ではないかもしれない。

挿絵は長崎ゆかりの太田大八氏がつけている。6〜7ページの、海と太陽の絵が素晴らしい。

合わせて読んだのが『出島の科学―長崎を舞台とした近代科学の歴史ドラマ』。これは2000年に長崎市立博物館で開催された展覧会、「出島の科学―日本の近代科学に果たしたオランダの貢献」の図録を改訂して再版したものだ。展覧会は日蘭交流400周年記念事業の一環として、長崎大学を始め県内博物館、図書館、美術館など総出の協力で開かれている。

本書を読むと、蘭学の発展はオランダ通詞ありきだったことがひしひしと実感できる。

 出島に流入したオランダの科学を理解するには、言葉の障壁があった。長崎のオランダ通詞は、この言葉の壁を取り除き、蘭学の発展に大きく貢献した。通詞には平戸系(名村、石橋、志筑、吉雄、西)と長崎系(楢林、加福、本木、今村、堀)の家で世襲された。オランダ通詞は、オランダ商館員と日本人役人の会話を通訳し、オランダ文書を日本語に、日本文書をオランダ語に翻訳し、蘭書の翻訳にも取り組んだ。(『出島の科学―長崎を舞台とした近代科学の歴史ドラマ』4ページより)

門前の小僧さえ習わぬ経を読むわけだから、通詞の家に生まれれば自然倣いおぼえたことも多かったに違いない。飯の種と目されれば、親の指導にも熱が入る。そうはいっても、知られた通詞の中には「養子」もちらほら見られるので、子に恵まれなかったばかりでなく、子の“能力”に恵まれなかった例もあるのかなあと勘繰ってしまった。『ガリヴァーがやってきた小さな小さな島』で“天文学者”として紹介される本木良永も養子だし、『出島の科学』に出てくる、志筑忠雄馬場貞由なども養子。そもそもが無事育つとは限らなかった時代のこと、血の繋がりにこだわっている場合ではなかったのかもしれない。

 蘭学は、このようにまず医学の分野で発達したが、学問の内容からみれば、すべての基礎としてオランダ語の学習研究があり、医学に関連する分野として、薬学・本草学、ついで化学などの分野があった。もう一つの流れは、天文・暦学を中心とする分野で、江戸では幕府の天文方において改暦事業の必要から、漢訳洋書の研究が行われるようになり、のちには蘭書の翻訳・研究も行われるようになった。(同6ページより) 

現在入試シーズン真っ盛り、外国語教科については「英語4技能評価の導入」みたいな話も取り沙汰されている。オランダ通詞たちは、4技能とやら読む聞く書く話すを駆使するばかりでなく、みずから学問を研究しその発展にも大きく寄与している。通詞としてオランダ語を学習できたのは、ほんの一握りの人間だけだったとはいえ、学問に通ずるまでの語学力というのは、いかなる形で習得することになったのだろうか?

と興味を覚えて、さらに読んだのが『江戸時代の通訳官: 阿蘭陀通詞の語学と実務』。

本文はこんな一説から始まる。

 紺碧の空の青と海の青が溶け合う真夏の水平線。その彼方から姿を見せた外国船。帆影を認めたあちこちの岬の遠見番から街の長崎奉行所へ急報される。

港入口、高鉾島付近に留め置かれた外国船は、奉行所から派遣された検視船団により、臨検が行われるのだ。禁教・鎖国下で入港を許されるのは、唐船かオランダ船。それ以外の異国船は招かれざる客だ。

臨検の手順はこうだ。検使、オランダ人、通詞が乗る検視船が、来航船に接近。オランダ人を使い、来航船に呼びかけさせる。そして阿蘭陀通詞は、その応答がオランダ語であるかどうかを聞き分けるのだ。その後は書類のやり取りなどの手続きになる。

だからまず通詞には、オランダ語かどうかを「聞き分ける力」が必要だった。言葉というのは、相手が何者かを知る手段でもあるわけだ。

その後やり取りする書類の中で重要なのが風説書鎖国下の日本で、定期的に入手できる最新世界情報だったからだ。幕府が外交方針を決める上での判断資料ともなる。これを読み理解し訳出することも、通詞の役割だった。オランダ語を「読んで訳す力」も、なくてはならないものだった。

貿易をする上で、オランダ側に注文したいものがある。そんな時必要なのが「蘭訳する力」だ。「将軍も、老中も、長崎奉行も、長崎町年寄も、通詞たちも、次々と欲しい物が沢山あった」。オランダ語での注文書作成*1を命じられたのも阿蘭陀通詞だった。

 

かつての南蛮貿易では、南蛮人の二大活動すなわち布教と貿易のために、日本人がポルトガル語を学んで使用するより、南蛮人の方が日本語の習得に努めた例が目立つという。ジョアン・ロドリゲスルイス・フロイスなどが好例だ。

ところが、禁教・鎖国体制が構築され、オランダ商館が出島に移転させられた以後、事情はガラリと変わる。オランダ商館長カピタンの一年交替を厳命、他の商館員の滞在も短期間に抑えるように定められたのだ。布教と密貿易を防ぐためだ。こうして、実質、オランダ人に日本語を習得させない、という方策が取られることになった。

オランダ人が日本語を学べないなら、日本人がオランダ語を習得するほかはない。ここにおいて、阿蘭陀通詞の養成が急務となったのだ。 鎖国という体制があったからこそ、通詞たちの語学力が上がることになったのは、なんとも皮肉なことである。

 奨励策を声高に謳いあげたからといって、ただちに語学力の向上が見られるというものではない。通詞の語学力のレベルを保ち、さらに向上を図るためには、結局、試験を課す必要があった。 (『江戸時代の通訳官: 阿蘭陀通詞の語学と実務』25ページより)

今般の大学入試改革では「入試を変えれば教育が変わる」という発想の問題点が取り沙汰されているが、功罪あれどやはり、テストというのが学習に対する強い動機づけになるのは間違いない。試験がプレッシャーになるのも同じなら、勉強法がまるで変わらないのも面白い。「過去問」と「模範解答」だ。先ごろ長崎の旧家から、通詞の家である本木氏の文書群が見つかっているが、その中の『蘭文和解』と仮題が付けられた文書が、「家業直試」の試験問題と答案のコピー(写し)であることが判明したそうだ。問題にはカピタンその他から長崎奉行や町年寄にあて実際に提出された文書が使われており、きわめて実践的な試験だったこともわかっている。

では「オランダ語を聞いて話し、オランダ文を読んで書くことを職業とした阿蘭陀通詞は、いかにしてオランダ語を学習した」のだろうか?

残念なことに、学習をどう進めたのか、通詞たち自身はほとんど書き留めていないのだという。学習は、通詞一人一人がいちばん苦心し努力を重ねてきたことであろうはずだが、多忙を極める業務のなかでは、精進を重ねるだけで精一杯だったのかもしれない。今どきは“わたしの英語学習法”など、書籍やウェブ上含め腐るほどあるのとは対照的である。

通詞たちの学習法を記録に残したのは、長崎に遊学した江戸の蘭学者たちだった。本木家に寄宿していた大槻玄沢の『蘭学階梯』や、森島中良の『類聚紅毛語訳』、前野良沢が書き残したものなどを総合すると、

  1. 「ア・ベ・ブック(ABC の本)」「レッテルコンスト(綴り方の本)」などの書で、オランダ文字の読法、書法と、文字を続けての綴りよう・読みようを学ぶ。
  2. 同じ書物で、単語数百語を覚える。
  3. そのうえで「サーメンスプラーク」で日常会話例を学習する。
  4. 「ヲップステルレン」、文章の作文を習う。

という手順で習い覚えていたようだ。さらに「セイヘッリンゲ」によって、算術も学んでいた。会話よりまず入門書で読み書きを習うというのは、ちょっと前の英語教育に似たところがある。

実際のオランダ商館員とのやり取りは、どんな感じだったのか?ハーグの国立文書館にある、ヤン・コック・ブロムホフに関わる史料(Stukken afkomstig van Jan Cock Blomhoff)には、阿蘭陀通詞からブロムホフに宛てられたオランダ語の書翰群が残されている。

まあ今でいう業務メールが満載、訪問してもいいかというアポメールから、今日は頭痛で行けないという断りの連絡、お年賀ギフトはじめさまざまな贈り物の挨拶状まで。贈るばかりでなく、カピタンに対する“おねだりメール”も残っている。喘息だから薬くれ、というのはわかるが、パン一切れくれ、インクとペン貸してくれ、ミルクを少しくれ、って……。コーヒーに砂糖入れてくれ、に至っては意味がわからない。こんな微笑ましい?やり取りもあれば、遊女代の請求書、みたいな現実的な文書もある。ブロムホフの1ヶ月の揚代を見ると、糸萩ちゃん11日、キンちゃん9日、左門太ちゃん7日と、なかなかお盛んなことである。妻子帯同が許されなかった出島の生活には、遊女の存在が欠かせなかった。糸萩との間には娘までもうけている。

興味深かったのは、吉雄忠次郎(通詞)がブロムホフに宛てた手紙、

私はチューリンゲン氏の世話によって殆ど元気になりました。私は、私が貴下に約束したことをしていて、とても忙しいです。そして私は蝦夷の物について私の友人からまだ何も回答を得ていませんが、私がそれを受け取ればKへ送ります。 

のなかの「友人」とは、もしかしたら鷹見泉石であったかもしれない、と述べられていること。ちなみに、上記「出島のカピタンともしたしく、ヤン・ヘンドリック・ダップルというオランダ名前までもらった仲だった」と書かれるカピタンこそ、ブロムホフなのだ。

 

最終章では「多才で多彩な阿蘭陀通詞たち」と題し、23名の通詞たちが紹介されている。特筆すべきは「通詞としての任免・昇級を詳しく」書かれていること。

先に紹介した本木良永、志筑忠雄、馬場貞由も、もちろん挙げられている。

本木良永など、地動説紹介の嚆矢として名高い人物だが、養父を早くに亡くし後ろ盾を失ったせいか、通詞としての昇進はかなり遅かったらしい。誤訳事件に連座して押込という懲戒処分を食らったりもしている。

志筑忠雄は、長崎の資産家中野家に生まれたが、志筑家の養子となり稽古通詞を務めていた。病弱だったため早くに職を辞し、本姓の中野に戻ったらしい。志筑忠雄としては通詞、天文物理学関係の訳者として知られ、中野柳圃の名でオランダ語文法の研究者として知られている、まさに多才な人だ。

馬場貞由の偉業はなんといっても、牛痘種痘法の本を訳し『遁花秘訣』を著したこと。原書はなんとオランダ語ではなくロシア語なのだ。それもそのはず、志筑忠雄=中野柳圃にオランダ語を学ぶにとどまらず、カピタンのヘンドリック・ドゥーフからオランダ語とフランス語、ブロムホフからはオランダ語に加え英語を学んだ、いわば語学の天才なのだ。ロシア語に至っては、ゴローニン事件に際し松前出張中、ヴァシーリー・ゴロヴニーン本人から教えを受けている。そんな才能を幕府が放っておくはずがない。22歳の若さで江戸勤務を命じられたのち、長崎からの呼び戻し要請にも応じず引き留められ、さまざまな翻訳事業に駆り出されている。ゴローニン事件ばかりでなく、ブラザース号、サラセン号とつぎつぎ浦賀に来航するイギリス船の応接にも当たっている。業務の傍ら、官舎内で塾を開講しオランダ語の先生役までつとめているのだ。その授業は師である中野柳圃仕込みの、体系的オランダ語文法に立脚したもので、江戸の蘭学界を一変させたという。しかし、働かされすぎたせいか?36歳にして病没。わずか20年足らずの間、成し遂げたことはどれだけあるだろうか。驚くべき仕事ぶりだ。

 

歴史の教科書に乗る、もとい歴史の表舞台に立つのは、杉田玄白など知られた蘭学者になりがちだが、その活躍は「二百数十年にわたって活躍し続けた阿蘭陀通詞、その数、万を超すかもしれない」人たちの仕事によって支えられていたのだ。今日私たちが享受している、近代科学の成果、語学教育の基礎も、阿蘭陀通詞たちが切り開いてきた道があったからこそのものだ。

著者は、今の同時通訳の様子を見ると、そこに江戸時代の阿蘭陀通詞の懸命な姿を重ねてみてしまうという。通弁が滞れば通訳の存在が意識されるが、スムーズなら通訳の存在は消え去ってしまう。通訳が有能であればあるほど、通訳自身は見えなくなることの不思議を語っている。このとおり通訳、阿蘭陀通詞というのは黒子の仕事なのだ。歴史の表舞台には決して出てこない存在なのだ。

それにしても、著作を遺すことをしなかった阿蘭陀通詞の心を読み込むことは難しい。(『江戸時代の通訳官: 阿蘭陀通詞の語学と実務』350ページより)

しかし、本書は、裏方として欠くことのできない通詞たちの存在を、生き生きと浮かび上がらせている。縁の下のものになんとか光を当てたいという、著者の熱意が伝わってくるのだ。翻訳を物した人は別として、通詞たちが書き遺したのは、おびただしい業務資料の数々のみ。その業務資料こそが、阿蘭陀通詞たちの生きざまであり、著者のいう「近世史の真の理解に無限の力を与えてくれる」ものであるのかもしれない。

ガリヴァーがやってきた小さな小さな島』 で、ガリヴァーが語る「この小さな島のたくさんのふしぎ」。そのふしぎを支えていたのは、紛れもなく、多くの名もなき阿蘭陀通詞だったのだ。

江戸時代の通訳官: 阿蘭陀通詞の語学と実務

江戸時代の通訳官: 阿蘭陀通詞の語学と実務

  • 作者:片桐 一男
  • 発売日: 2016/02/26
  • メディア: 単行本

*1:本書で例示される注文のなかには、なんとダイケルスクロック(潜水器)の名も(『海はもうひとつの宇宙 (たくさんのふしぎ傑作集)(第125号)』)。この品は1793年、将軍家斉の命により出島オランダ商館に注文されたものの、なかなか輸入をみなかった。1814年、1819年など再三の発注を経て、ようやく1834年、ドルテナール号によってもたらされたことが史料に残されている。この潜水器具「泳気鐘」は三菱重工長崎造船所史料館で展示されているそうだ。三菱重工 | 長崎造船所 史料館