こどもと読むたくさんのふしぎ

福音館書店の月刊誌「たくさんのふしぎ」を読んだ記録です。

クモと糸(第360号)

このエントリーで書いた自然観察イベントの2日目の朝、雨はかろうじて上がったものの、森は濃い霧につつまれ、野外観察には向かない天気だなーとちょっと憂鬱に思いつつ、森の道を歩き始めた。ところがベテランレンジャーの方は、ほらほらと道の脇の茂みを指差し「きょうはあいにくの天気ですが、こういうものは、逆にこんな天気でないと見られないものなんですよ」とおっしゃるのだ。指差す先にあったのはクモの巣。テント状に形作られた巣は、朝露に濡れて、繊細なレースのように美しかった。

今号の『クモと糸』でも、表紙絵(写真ではない)に、露に濡れそぼったクモの巣が使われているが、クモは嫌いな私でも、彼らがつくりあげる造形物には、いつも感心させられる。機織り上手の化身であるというのも宜なるかなという感じである。

 むかしむかし、クモは地面の下にすんでいました。地面にほった穴にかくれ、ちかくにやってきた虫をつかまえ生きていました。クモは糸をつかっていましたが、クモの糸は、卵をまもるためと巣の入口をつよくするためにありました。虫をつかまえるために糸がつかわれることはありませんでした。

ということで、そこから長い時間をかけた進化の過程で、地中から這い出て、糸は狩りの道具として使われるようになってゆき、棲息場所もさまざまなところまで広がっていったらしい。本書で紹介されているものだけでも18種、そして「作者のことば」によれば、日本にわかっているだけでも1600種以上のクモがいるということだ。

アマゾンのレビューのひとつは「なんで モノクロ?」と疑問が呈され、「クモは嫌う人が多いので、それをやわらげるため?なんか腰が引けてると感じた。」と書かれているが、そのとおり!クモ嫌いな私でも、幸いにして受け入れやすい絵で描かれている。しかし、そのレビュワーさんも言われているとおり、本来のところは「クモの糸の美しさとふしぎさを強調する意図」であることは確かだ。

本書は基本的に、見開き左ページにおもな棲息場所の絵、右ページには解説と共にクモの成体と巣の絵を配置して構成されているが、棲息場所の絵がラフなタッチであるのとは対照的に、クモとその巣の絵は繊細かつ美しい線でていねいに描かれている。解説も絵も構成も、図鑑とはひと味違うセンスで、子供向けの写真科学絵本ともまた違った、少し大人っぽさを感じさせる洗練された絵本に仕上がっている。前述のレビュワーさんに「なんか腰が引けてる」と言わしめたのは、こういう部分なのかもしれないが、実物の写真を前面に出さないことで、かえってもっと知りたいという気持ちがわき上がってくるのが不思議なところである。何せモノクロで、ともすると実物がイメージしにくい絵で描かれているので、本物はどんななんだろうと調べてみたい気持ちが出てくるのだ(調べてみないけど)。まさかそれを狙って作っているとは思えないが、「作者のことば」にはこんなことが書かれている。

 クモはナチュラリストのよきみちびき手です。まず、クモは、まちぶせをする性質がありますのであまり動きません。とくに、網をはるクモは網のうえでじっとしていますから、観察するにはうってつけの生きものです。そして、その複雑な狩りのしくみの数々は観察者をあきさせることがありません。

しかしながら私は、とても観察する勇気を出せそうにはない。

 

付録の「ふしぎ新聞」では、「ふしぎはくぶつかん」のコーナーで"30年前の暮らし"と題し、1985年当時にあったものを特集していた。たとえばダイヤル式電話、たとえばファミリーコンピューター、たとえばレコードプレーヤー。40代の私にとって、ああ子供のころあったなー懐かしいなーと思わせる機器の数々だ。たった30年でダイヤル式電話はスマートフォンに、ファミコンソーシャルゲームに、レコードプレーヤーはダウンロード配信にと、こう見るとすごい進化を遂げたものである。そして忘れてはならないのが「土曜授業」。小学校は大嫌いだった私でも、"半ドン"の土曜日の何ともいえない開放感、ワクワク感はなつかしく思い出される。その「土曜授業」の進化の果ては、土曜授業復活の兆し(すでに実施している自治体もある)という曰く言いがたい事態に、「子供の時間」というものは大人の事情に翻弄されるものなのだなあと、翻弄されていることにも気づかず、1985年当時からはちょっぴり短くなった夏休みを、全力で楽しもうと外へ飛び出していった子供の姿を見ながら、ふと思った。

クモと糸 (月刊たくさんのふしぎ2015年3月号)

クモと糸 (月刊たくさんのふしぎ2015年3月号)