こどもと読むたくさんのふしぎ

福音館書店の月刊誌「たくさんのふしぎ」を読んだ記録です。

クマよ (たくさんのふしぎ傑作集)(第156号)

『クマよ』は『森へ』と比べると、ちょっと落ちるかなあと思うのだ。

こう感じるのは私だけかもしれない。夫に聞いても『クマよ』の方がずっといいと言うし、どうも感覚がズレているように思う。

2冊を見比べて『クマよ』に覚える違和感を考えてみた。気づいたのが『クマよ』は、写真の上に文字が書かれているページが多いということ。

『森へ』は、写真に字が重ねられているのは冒頭ほんの数ページ。

やがてクジラは尾ビレを高く上げ、

ゆっくりと霧の中に消えてゆきました。

という言葉が5ページ目に書かれているが、肝心の写真は、その後6〜7ページの見開きいっぱいを使って載せられている。一見、6〜7ページに字を重ねても問題ない感じがするけれど、これは絶対写真だけの方がいい。冒頭2〜5ページでナレーション(説明文)とともにゆっくり原生林に入ってゆき、次のページはパッと映像だけが写される。霧につつまれた幻想的な海に、クジラの尾びれが消えゆく様は映画を見ているかのよう。余韻を感じさせとても良い。

対して『クマよ』は、写真の上に白抜き文字で文章が付けられている。たしかに、写真と詩的な文とが合わさって素晴らしいと思う。しかしどうも私は、写真は写真だけで味わいたいと感じるたちのようだ。

『森へ』は写真だけで十分見応えがあり、それだけでダイレクトに伝わってくるものがある。写真は写真だけ、文章は文章だけきちっと見せる形でレイアウトされているからと思う。文を読んでから、写真を見る。あるいは写真を見てから、文章を確認する。そういう読み方ができる。写真だけを見ることで、文章からも生き生きと伝わってくるものがある。

星野道夫の写真は、写真そのものが雄弁に語っており、あえて文章を付ける必要がないとも思うのだ。だからといってこの『クマよ』を、写真だけで構成しても良かったかというと、それもまた違うような気がするが……。

このひっかかる感じ、実は『森のおく 湖のほとり ノースウッズを旅して(第330号)』でも覚えたことだ。こちらも、見開きいっぱい、美しい風景を見せる形で作られているが、やはりその上に韻文的な文章がつけられている。他のノーズウッズシリーズ3冊も、写真の上に字が置かれているページがあるが、あまり違和感はなかった。もしかしたら文章が詩的な調子である、というところが一因かもしれない。

彼らの撮る自然はそれだけで詩的なのだ。詩のような文を付けると、ともすればしつこささえ感じてしまう。美しく雄大な風景を見せてくれているのだから、せっかくならそのままを味わいたい。もちろん解説的なものはほしいが、あくまで添え物でいいと思うのだ。

写真とのバランスを取るためかもしれないが、フォントが少し大きめなのも、ノイズとして感じてしまう。

見わたすかぎりの原野に

ぼつんと おまえがいるだけで

風景は

なんだか もう いっぱいだ

星野道夫が撮る風景だけで、もういっぱいなのだ。

どちらの本も、当の写真に著者みずから付けた文だというのに、こう感じてしまうのだから、私は良い読み手ではないようだ。時間が経てば、感想も変わってくるだろうか?

クマよ (たくさんのふしぎ傑作集)

クマよ (たくさんのふしぎ傑作集)