こどもと読むたくさんのふしぎ

福音館書店の月刊誌「たくさんのふしぎ」を読んだ記録です。

10才のころ、ぼくは考えた。(第399号)

この本に「ぼく」という言葉が何回出てくるか数えてみた。

本文が始まる2ページ目から終わりの40ページまで数えると、

2ページ〜11ページ…8回

12ページ〜21ページ…2回

22ページ〜31ページ…28回

32ページ〜40ページ…35回

ということで、計73回。とくに後半の「ぼく」出現回数は、かなり多くなっている。

つまり、この本は「ぼく」について書かれた本なのだ。「ぼく」がたくさん出てくるからといって、こう結論づけるのはいささか乱暴に過ぎるかもしれないが、 同じ一人称である「私」「俺」の出現回数の合計も21回にのぼる。合わせると、本書において一人称は94回ほど出てくることになる。

そう思って、本書の英題を見てみると、やはり

A BOY THINKS WITH HIS STONES:The Story of "I".

となっている。「ぼく」というのは、主人公であり著者である下西氏が男性だから「ぼく」という表現になっているのであって、つまりは「わたし」の物語であるといっても良い。

だからといって本文の「ぼく」を「わたし」に差し替えても差し支えないのかと言えば、そうではない。10才のころの下西氏は、自分のことを「わたし」とは称さなかっただろうから。あくまで「ぼく」でなくてはならない。この「ぼく」は誰でもない、かつての10才ごろの少年としての“下西風澄”、そして今現在この本を書いた「ぼく」だ。誰とも交換できない存在としての「ぼく」。

10才のとき (たくさんのふしぎ傑作集) (第73号)』は、外から見えるその人の10才を書いたものだった。この本はある人が、10才のころ考えていた自分の心のうちを描いている。ぼくとは、わたしとは何か、アイデンティティという言葉でまとめてしまうのは何か違うような気もするのだが、自分とは誰かと取り替えることのできない存在であり、かけがえのない存在なのだ、自分は唯一無二の存在なのだ、それを証明しようと足掻いてもがいて、だからこそ10代というのは、みっともなくもあり美しくもあるのだろう。

いや、違うか。これは、10代のアイデンティティの模索とかいう陳腐なものではない。 もう少し考えてみる。

10才のころ、ぼくは考えた。 (月刊たくさんのふしぎ2018年6月号)

10才のころ、ぼくは考えた。 (月刊たくさんのふしぎ2018年6月号)

ちょっと前に、

独身男性の皆様、どうやって生きてるの?

を読んだが、同感するブックマークコメントを見て、あ、そういうもんか、自分だけじゃないんだなと今さらながら思ったことを覚えている。 消えてなくなりたいというのは、子供のころからたまにふっと思うことがあって、息子がいる今でさえ感じることがある。何か忙しくしているとき、何かに没頭しているとき、そういう時間の合間に、どうにもできない面倒ごとのさまざまが頭に浮かぶと、すとんと谷間に落ち込むことがある。

もっとも、子供ができてからは、そういう厭世的な気分は少なくなってきたように思う。妊娠して少し経った時、ハッと気づいたのは「私はもう勝手に死んだらいけないんだ」ということ。自分には「生きている義務」があると思ったのは初めてのことだった。

かけがえのない存在、という時、「誰かにとって」を付けると、着地点が見つかって安心できる。私に取って子供はかけがえのない存在だし、子供に取ってもそうであると思う(今のところは)。特定の誰かに必要とされている、誰かの生きる意味となっている、というのはそれだけで強いことだ。

でもそうではないのだ。10才のころ作者が考えたこと、そしてその延長線上にあるところの考えていることは、「ある特定の誰かに取って」大切な存在であるということではなく、自分は文字通りの意味でかけがえのないということ、つまり他に代わることのできない存在であるということの方だ。なんでもない当たり前のことのようにも思えるが、何にも寄らないというのは怖いことだ。深い淵を覗き込むような恐ろしさがある。美しい自然の写真に彩られ、平易な言葉で綴られているけれど、実は怖い本だと思う。

子供もすぐ10才。楽しそうに生きているように見えるけれど、その実「いろいろなこと」を考えているのかもしれない。これからの人生の中で、消えてなくなりたいとふと思ったりもするのだろうし、実は今思っているのかもしれない。それでも私は、子供のかわりに生きてやることはできないし、子供のかわりに苦しんでやることもできない。子供は、自分で自分を引き受けるしかないのだ。親にできることはただ祈ることだけだ。