こどもと読むたくさんのふしぎ

福音館書店の月刊誌「たくさんのふしぎ」を読んだ記録です。

雪がとけたら 山のめぐみは冬のごちそう(第243号)

先日近隣の山に登っていたら、上空をヘリが飛んでいた。ふもとの駐車場に警察が来ていたので、捜索救難だと思われる。下りてからニュースを見てみると、山菜採りに出かけたまま行方が分からない70代の男性が見つかったということで、遺体の回収が行われていたようだった。

今年は県内の山岳遭難が多いらしく、確かにしょっちゅうニュースになっていた。5月だけでも13件あり、うち9件が山菜採りの途中で道に迷ったり、疲労や病気で自力で下山できなくなったりしたもの。県警によると、昨年1年間でも山菜採り遭難は7件ということで、過去5年のデータを見ても今年の多さは突出しているという。遭難したのはいずれも高齢者で、70歳以上が8割だ。隣接する県でも山菜採り遭難は発生しているものの、昨年と比べて逆にかなり減っている状況だ。

報道によると、立ち入り禁止や通行不可の看板を無視し、帰る方向が分からなくなるケースが多いらしい。山菜採りの場合、入山者は家族らに採取場所を伝えないことが多く、捜索は困難を極めるという。

山菜採り遭難のニュースがこれだけ多いということは、山に入る人の数もそれだけ多いということ。山登りや渓流釣りに出かける夫も、山菜採りの人をたくさん見かけたと話していた。それだけ「山のごちそう」に恵まれているということなのだ。

家でも、道の駅で買ったコゴミを天ぷらにして食べてみたが、まさに春のエネルギーをいただいているようで、とても美味しかった。山盛りいっぱいがあっという間になくなってしまった。

本号でもさまざまな「山のめぐみ」が登場している。春には山菜、コゴミはもちろんのこと、カタクリニリンソウネマガリタケ、ヤマウド、ゼンマイ、ワラビにフキ。秋には秋のめぐみがある。サクラシメジ、オニグルミ、ヤマブドウアケビマタタビにナラタケ。マタタビなんてどうやって食べるんだろうと思ったが、調べてみると、果実は味噌漬けや塩漬けあるいはまたたび酒に仕立てたり、芽を炒めものにしたりと案外幅広く利用されていた。

採ったばかりの「山のめぐみ」も、確かにおいしいけれど、その真骨頂は採れたてではない。タイトルに「冬のごちそう」と書かれるとおり、冬季の保存食としての役割を担っているのだ。山菜やキノコ類だけでなく、畑でとれたカブやダイコンなどの野菜も干したり漬けたりして準備する。手間ひまかけて仕込んだ「めぐみ」で作った、大晦日のごちそうは圧巻だ。

手間とひま。必要なのは時間なのだ。

干しゼンマイはストーブにかけた鍋で、ゆっくりもどしています。干しゼンマイは作るときにも手数がかかりますが、もどすときも時間をかけてもどさないと、やわらかくふっくらとはなりません。

切り干し大根すらろくにもどさず炊いてしまう私の時間感覚では、決してできない料理なのだ。冬至の日だけにしか作らないカボチャ粥の、なんと美味しそうなこと。こちらもストーブの上の大きな土鍋でコトコトゆっくり炊かれている。

最後のページには、大晦日、伝統コケシの職人であるおじいさんが、轆轤の神様にこの一年の感謝と来年への祈りをささげる様子が描かれている。「作者のことば」でも触れられているが、戦時中の食糧難を乗り越え、交通の不便な雪国で食べるものを確保するには「山のめぐみ」を余すところなく利用する必要があった。流通が発達した今でこそ、食べる物がいつでも簡単に手に入るようになっているが、かつては当たり前のことではなかった。山のめぐみも、農作物である畑のめぐみも、自然のなかの営みだから、思うようにとれなかったり、逆に多く恵まれたりすることもあっただろう。食べるものにめぐまれる、無事に過ごせるというのは、本当にありがたいことで、大晦日に感謝と祈りをささげるというのは、今以上の重みがあったに違いない。

 

高齢者が山菜遭難するのは「昔取ったきねづかで、山奥に進んでしまうのではないか」と分析する向きもあるが、山のめぐみのありがたさが、身に染み付いている経験があるからなのかもしれない。本書では、勝手知ったる山で、どこにどんな「山のめぐみ」があり、どの部分を採取し、来年のためにはどういう採り方をしなければいけないのか、熟知した中で採りに行く様子が描かれている。

しかし、

ありふれたごちそう〜山菜の魅力

に出ている「写真−1」をみると「堆積した雪がずれ落ちる斜面は、山菜の宝庫であると同時に、採取の危険も伴う」ということで、やはり遭難の危険と隣り合わせであることが一目でわかる。ちなみに本書の舞台もこの写真と同じく、岩手県西和賀地方だ。

夫の話によると、山菜採りに出ている人は、下ばかり見ながら熱心に歩き回っているということで、山菜採りには何かこう人を夢中にさせる、魔力みたいなものもあるのかもしれない。「ありふれたごちそう〜山菜の魅力」を読むと、山菜採りの何が人を夢中にさせるのか、その一端を理解することができる。食べるためという楽しみだけでなく、採る楽しみ、人にあげる楽しみ、採り手や作り手としての誇りなど、地域で暮らす中での喜びの源泉にもなっているのだ。

 この町の人たちはだれもが、春の雪どけを心まちにしています。でも、いちばんまちどおしく思っているのは、かえでのおじいさんとおばあさんかもしれません。それは、雪がきえるとふたりの大すきな山菜とりができるからです。(本文より)

山菜を採らなくても生活できるようになった今、危険を冒して山に入る必要もないのではないかと思っていたが、『雪がとけたら 山のめぐみは冬のごちそう』、そして「ありふれたごちそう〜山菜の魅力」を読むと、山菜採りには奥深い魅力があることがよくわかった。かつては文字どおりの「生きる糧」だった山のめぐみは、生活する上での楽しみやコミュニケーションの「生きる糧」として、今でも地域に息づくものなのだ。