こどもと読むたくさんのふしぎ

福音館書店の月刊誌「たくさんのふしぎ」を読んだ記録です。

いろ いろ いろ いろ(第203号)

今回のクリスマスプレゼントは、160色の色鉛筆だった。子供のリクエストだ。箱の中からつぎつぎセットが出てくるのに、えーまだ下にあるよ!と驚く様子が面白かった。

わたしも子供のころ、多色セット欲しかった。ずらっと並んだ色鉛筆。色を見るだけでも楽しい。祖父母にお礼の電話をしたとき、子供は「もったいなくて使ってない」なんて言ってたが、その気持ちよくわかる。

本書はこんな一節から始まる。

宇宙のはるかかなたから、黒、青、赤、黄、4艘の宇宙船がやってきて、新しい宇宙ステーションにつながった。それがすべてのはじまりだった。

そして、

宇宙ステーションのなかで、それぞれの色がまじりあい、新しい色が生まれはじめた。

という展開につながってゆく。

見開きをいっぱいのカラフルなイラスト。にじみ具合をほどよく利用した、水彩調で描かれている。各ページには、短い一文が。全編で一つのお話として読むこともできるし、絵と合わせれば1ページだけ取り出して読むこともできる。

色の名前はカタカナ表記。知らない子は、チャコール色とか、ベンガラ色とかどんなのだろうとふしぎに思ったに違いない。そのページにはある色だろうが、どこの部分かは判別できないだろう。私だって、赤系統というくらいはわかるけど、じゃあどれがベンガラ色ですか?と聞かれたらあやしいものだ。今はウェブで検索して一発だけど、当時の子供たちは色々想像をはたらかせたのではないだろうか。

作者の新谷雅弘氏はグラフィックデザイナー。「たくさんのふしぎ」のデザインも多く手がけている。

「作者のことば」では、「色の与える印象」についての話が。

本のなかの色は、もちろん本号も含め、たったの四色で作られているという。黄、赤、青、黒(CMYK)だ。印刷の色は、この四つの色の、小さな点の混ぜ合わせでできているのだ。

 デザインの仕事ではこの四色の混ぜあわせ方を指示するのが大切な作業になっていますが、指示するときに読者がある色を見てどう感じるかの予測をしなければならないからです。

 たとえば同じ青でも空に見える青と海に見える青があります。青が濃くなるにしたがって海に見えてきます。また幸せな気分をあらわすときは赤い色がむいています。でも色を見たときどんな印象をうけるかは個人差や民族差があって世界中でちがっています。色によってはわたしたちとは逆の印象をうける人だっているのです。気候風土によって生まれてくる色がちがいますからとうぜんうける印象もちがってくるのだろうと思います。(本号「作者のことば」より)

先日はこんな話も見て、朱色じゃなくてもいいんだ!と驚いたものだが、

ギャルの出してきた重要書類にレインボーの朱肉で実印が押されていてマジでギャルだった - Togetter

そもそもなぜ朱色とされてきたのか?これも色のもつイメージが関連している。「朱」は縁起が良い色や魔除けの色とされてきたからだ。印章制度・文化が真の意味で実用だった時代、朱色以外で押すなんて考えもしなかったに違いない。

指定じゃないなら朱色じゃなくていいじゃん?という発想が出てきたのは、印章の重要性が薄れてきたからか。はたまた、重要な書類にこそ自分らしい色を使いたい、という個性の時代になったからなのか。綺麗でいいなあと思いつつ、スタンプみたいで軽いなあと感じてしまうのは、古い人間だからだろうか。若いうちなら積極的に使っていたかもしれない。社内の認印にムラサキ使って上司に怒られたりとかね。

「作者のことば」では、

色を見たときどんな印象をうけるかは個人差や民族差があって世界中でちがっています。

と述べられていたが、この場合、みな「見えている色」は同じという前提での話だ。

しかし、人によって「色自体の見え方」も違うとなればどうだろう。

「色のふしぎ」と不思議な社会 ――2020年代の「色覚」原論』は、その見え方の話、色覚をテーマに書かれた本だ。

色盲色弱という言葉をご存知の方も多いだろう。かつてはこの「色覚異常」を発見するため、「色覚検査」を必須としていた時代があった。2004年まではあったので、石原式色覚異常検査表に見覚えある人もいると思う。現在は必須ではないものの、日本眼科医会を中心にふたたび「色覚検査の復活」が提起されているという。著者はそれに疑問を持ち、「色覚」とはなにか、「色覚異常」とは何なのかという、最新の科学的知見に踏み込んでいく。

 

そもそも、なぜ、学校健診で色覚検査を「廃止」することになったのか?

・ 色覚検査で「異常」と判定されても、大半は支障なく学校生活を過ごせていること。

・ 「色覚異常のある」児童生徒への配慮を指導してきていること。

などの理由からだ。 

「廃止」を求める提言のなかで、

・一斉検査という方法が、プライバシーへの配慮に欠けている。

色覚異常を指摘されたところで、有効な指導や配慮は実施されていない。

という問題が上がっていたことも、理由の一つだろう。

 

では、なぜ「色覚検査の復活」を求める声が出てきたのか?

・学校健診が「廃止」されたことで、色覚問題に対する意識が下がり、不適切な指導が行われるケースがあること(無理解な教師に傷つけられるなど)。

・就職試験等ではじめて「色覚異常」を指摘される例が相次いでおり、進路を決める上であらかじめ自分の色覚の特性を知っておいた方が望ましいこと。

 

教育現場の問題意識……確かに、授業参観で板書を見ていたところ、重要箇所にふつうの赤いチョークが使われていたりで、これは大丈夫なのかと思った覚えがある。黒板に赤いチョークは「色覚異常」の子には、見えづらいことが多いからだ(該当する子がいなければ差し支えないのでは?とする考えもあろうが、そういう問題でないことは後述したい)。

就職試験等というのは、ごくごく一部の、採用試験、国家試験、資格試験などで制限があること。そこを目指して頑張っていたのに、突然「色覚」という、努力ではどうしようもないことでシャットアウトされるショックは、はかりしれないことだろう。

 

これまでも必須でなかっただけで、希望者が検査受けることは可能だったようだ。しかし、これらの声を受け、より積極的に保護者などへ周知をはかり、色覚検査をすすめることになった。うちも学校から「色覚検査希望調査票」を配布されたことがある。

学校保健安全法施行規則の一部改正等について(通知)

 

自分の色覚の特性を知る……確かに、進路を決める段になって知らされるより、始めから分かっとく方がいいんじゃないか。学校でも配慮してもらえるし。タヌキを緑で描いたりして、親とか周りから変な子って「誤解」されるより、こういう特性があるって知ってもらえた方が楽じゃないのか。希望者のみだと「自覚」しない子も出るんじゃないか。だから、学校健診で全検査してもいいんじゃないか。

当事者の立場になりえない私は、安易にこう思ってしまう。

 

だが、当事者のひとりでもある著者の意見は、かつてのような、安易な「色覚検査」の復活には反対、というものだ。

著者が考えるのは、「色覚異常」で困ってる人、困りうるだろう人をピンポイントで探し、適切な形での助言や検査を行うというもの。進路指導上問題になりうるときも、希望者だけ、進路を考える年齢になってからと限定した方が望ましいのではないかということだ。 そして科学的知見から、色覚の「多様性と連続性」を鑑みると、「色覚異常」という言葉を見直すことも考えらえれるという。

 

著者が懸念しているのは、「色覚異常」をめぐる“負の問題”の大きさだ。 

 かつて、こんな社会があった。

「先天色覚異常は危険であり、見逃すことなく、すべて検出して、進学や就労を制限しなければならない」と眼科医が言い、

「それならば、うちの会社では制限を設けます」「うちの大学でも門前払いします」と企業や教育機関が追従する。

「日本人がよりよくなっていくためには、劣った遺伝を排除していくことも必要だろう」と遺伝学に詳しい科学者が言い、

「ならば、中学、高校の教科書でも、注意喚起しましょう。学校健診では色覚検査を必須項目にして、すべての色覚異常者を見つけましょう」と教育行政がお墨付きを与える。

「医者も、企業も、大学も、科学者も、行政も、いろいろ言ってるみたいだから、やっぱり色覚異常はこわいんだね」と多数派の「正常色覚」の人たちは思い、娘が先天色覚異常の男と結婚しようとするなら、一族をあげて大反対する。あるいは結婚相手の身辺調査をして先天色覚異常の親類はいないか確認する。

 先天色覚異常の当事者たちは、ひたすら黙り込み、自制を強いられる。生まれつき劣等に生まれた者として、自らの出自を呪い、その呪いの遺伝子が娘や孫に伝わることを恐れる。あるいは遺伝子を伝えた母や祖父を恨む。

 色覚異常をめぐって語られる様々な言説が互いに補強しあい、今からみると滑稽ですらあるほどの過剰反応が蔓延した。20世紀の「実話」である。

 時々、良識派の眼科医が「さすがにここまでの制限はひどすぎる」と問題にしたり、「優生学的な発想は間違っていた」と科学者が反省したり、「色覚異常でももっとたくさんのことができるはず」「そもそも、検査以外では自覚できないんですが」と当事者が勇気を持って発言しても、それらは不協和音としてかき消された。(『「色のふしぎ」と不思議な社会 ――2020年代の「色覚」原論』291〜292ページより)

んな大げさな、信じられない、と思われるだろうか?本書の「第2章 20世紀の当事者と社会のリアリティ」を読んでみてほしい。当事者たる著者が「悪夢」「恐怖」と表現するのも宜なるかなという感じである。

 

それでも今は事情が違うでしょ?色覚検査を「復活」したところで、かつてのような問題は起きないのでは?

問題は「復活」そのものではなく、色覚検査の目的として、職業上の問題に焦点があてられていることだ。著者の疑念は、日本眼科医会が2015年作成したポスター「色覚検査のすすめ」に向けられる。

ここで挙げられる職業のほとんどは、現在、色覚について特段の制限を設けられていないものだ。それを「支障をきたすことがある」と、制限を匂わせるようなものにして良いのかということだ。もちろん、日本眼科医会側にそういう意図はない。臨床で見聞きした当事者たちの困りごとなどをもとに、「転ばぬ先の杖」として、あくまで目安を示したものだ。

しかし、日本眼科医会という「権威」が作ったリストは、時にひとり歩きする危険もある。このポスターを「参考」に、機械的に進路指導がおこなわれることもありうる。実際には支障がなかったりする場合もあるのに、「目安」だけで、いたずらに進路を閉ざしてしまってよいのかということだ。たとえば著者は、【2色覚には難しいと思われる業務】の一つであるカメラマン、テレビの仕事をしていたが、特に差し障りはなかったという。

一方で、リストにない職業でも、さまざまな困りごとに直面するケースがあることも確かだ。かたやリスト上の職業でも困難を感じず、かたやリスト外の職業で困りごとに当たる。当事者によって「色覚異常」の様態もそれぞれなら、困りごと(困ってないということも含め)もそれぞれなのだ。だからこそ、一律に見える線引きは意味をなさない。

色覚異常」の様態もそれぞれ、と書いたが、「石原式色覚異常検査表」の結果だけで「色覚異常」としていいものかという問題もある。「石原表」の優秀さは論を待たないが、その結果だけで「異常」とするのはデメリットが大きいのだ。たとえば著者は「石原表」を元に「色覚異常」とされてきたが、今回の取材で受けた「パネルD-15テスト」「アノマロスコープ」では「正常」と診断されたという。現在はもちろん「石原表」だけで「確定診断」することはないものの、運用によっては「異常」という負のラベリングだけを与えてしまうことになりかねない。

著者はこうも書いている。

自分は先天色覚障害であるということを知らないまま一生を送る当事者がいてもよいのだから。(同299〜300ページより)

 

他方で、日本眼科医会のなかには、就業上の問題点として、

「様々な職業に門戸を開くので、自己責任でなんとかしなさい」というのが現況だ(同69ページより)

と現実を語る先生もいる。

さらには、この資料(http://www.kyoto-be.ne.jp/hotai/cms/?action=common_download_main&upload_id=1481)では、

先天色覚異常者の色識別能力は個人差が大きい

本人の希望を尊重する

としつつも、

色覚異常を無視せず、条件のひとつとして考慮する。失敗回避策は必要(色以外の情報活用、周囲に助言求める)

と釘をさす向きもある。加えて、

制限の緩和がなされてきたが、異常者本人が自己責任において、自らの色の識別能力を把握し、業務上の失敗回避の対策を講じる必要があるということでもある。(万一の事故の場合、本人の不手際とされる可能性もある)

と「アドバイス」がなされ、

色以外の情報による確認などの対策をしていても、常に緊張の連続と不断の努力が強いられる場合に、仕事を継続するかあきらめて転職するかの判断は、本人の自己責任だが、継続する熱意があれば、 大抵の業務は遂行可能。

学力・体力・協調性・粘り強さ・責任感などを養うことの方がより一層重要

とまで書かれている。 

 

自己責任……。

 

「普通」の子の進路指導で、ここまで「自己責任」を強調されることがあるだろうか?「普通」の子だって、特性を考えずに進路選びしてしくじるとかあるし、「学力・体力・協調性・粘り強さ・責任感などを養うことの方がより一層重要」なんて、うちの子にだって誰にだって言えることではないのか。

 

当事者の方のブログ*1の、進路に関わる記事、

色覚異常(色弱)で理系の大学に進学した結果は? - 色覚異常(赤緑色弱)で生まれて50年

でも、

何故なら自分は周りから苦労するとかなど一応の障害などを自覚して入学したので心構えや自己責任を感じていますが、今のような検査もなく自覚症状もないままに入学した後の色々な問題が起きるとショックをうけると思うからです。

進学するにあったて、自分がどれくらいの程度の色覚異常なのかを見極めて、将来就きたい分野で自分が活躍できるかをちゃんと前例なども含めてリサーチした上で納得した上で進学してほしい。全ては自己責任の上で行動した結果は納得できますので。

やはり「自己責任」の言葉が見られる。

 

本書にある就職後のトラブル例で、切ないなあと思ったのが、建築の現場監督として働いていた人の話。現場に引かれた赤い線が見えないということで、上司も同席の上、医師に相談することになった。医師からは朱色に変えてはどうかと提案があったが、塗料を変えるのはコストがかさんでしまう。これがためになんと次年度から「色覚異常」に採用制限をかけるということになってしまったのだ。果たしてこれも「自己責任」なのだろうか?

「自己責任」は、就業に関わるさまさまな困難を見てきた医師たちや、当事者ご自身の言葉でもあるから、これが「現実」なのだとは思う。 それでも自己責任という言葉が強調される「現実」に、なんとも複雑な悲しい気持ちになってしまった(医師たちやブログ主さんに対してではない)。

 

もちろん、日本眼科医会の先生方も、自己責任論を説くばかりでなく、

色のバリアフリーを理解するためのQ&A|テーマ別関連ページ|学校保健ポータルサイト

色覚啓発教材「学校における色のバリアフリー」 | 色覚関連情報 | 公益社団法人 日本眼科医会

の作成などを通して、「色のバリアフリー」について啓発活動や知識の普及に努めたりもしている。社会の環境を少しでも変えることで、より過ごしやすく、より働きやすくなるからだ。

カラーユニバーサルデザインを意識した環境も、徐々に整えられつつある。前に「該当する子がいなければ赤チョークを使っていいという問題ではない」と書いたが、学校だって教室だって「社会」の一部なのだ。「色に配慮を必要とする人」は、社会のどこにでもいる。それを前提に「色のバリアフリー」を進めるなら、学校や教室だって同じことではないか。

 

色覚「異常」の話ばかり取り上げてしまったが、本書の肝は「第2部 21世紀の色覚のサイエンス」にある。科学者たちを相手に、さまざまな分野を取材し、本を手がけてきた著者ならではのものだ。

取材した先生の言葉のなかで、印象に残ったものがある。

たしかに、医学の人たちは「見えない」方を強調するかもしれません。でも、我々、生物学の立場は多様性をリスペクトします。ある基準で見れば、良いこともあれば、悪いこともある。それも含めての多様性は重要という立場です。錐体の種類が減って2色型になったからといって、それも多様性の一部なんです。(『「色のふしぎ」と不思議な社会 ――2020年代の「色覚」原論』144ページより)

「ある尺度で見れば、よいものが出ることもあれば、悪いのも当然出る。それも、あくまでその尺度で見た時の良い悪いなんだ」と私たちは言います。「正常あるいは多数派と違うのだから異常だ」と語っていたら、到底もたないんです。(同144〜145ページより)

生物学/遺伝学の視点で「色覚異常」を見ると、異常という言葉が吹っ飛ぶくらいのカラフルな世界が見えてくる。この世界観は、生物学/遺伝学にとどまらず、広く社会でも共有できる、共有したいことではないだろうか。「自己責任」を説かれる世界より、多様性を認める社会の方が、誰もが生きやすいはずなのだから。

*1:色覚異常が治るという治療を目白でした過去と真実 - 色覚異常(赤緑色弱)で生まれて50年

とおそらく同じクリニックで、川端氏も“治療”を受けていたエピソードがある。本当に、親の心配と負い目につけ込んだ酷い商売だ。結局時間とお金の無駄遣いだったとしつつも、川端氏は「母の、なにかできることをしたい、という思いの受け皿にはなったのでは」と振り返っている。