こどもと読むたくさんのふしぎ

福音館書店の月刊誌「たくさんのふしぎ」を読んだ記録です。

りんごの礼拝堂(第273号)

りんごの礼拝堂はフランスにある。

サン=マルタン=ド=ミューという小さな村にある。

サン・ヴィゴール・ド・ミュー礼拝堂だ。「りんごの礼拝堂」になる前は、廃寺だった。

建てられたのは500年も前。そのため、長いあいだ風雨にさらされ、古ぼけてみすぼらしく見えますが、周りの風景にしっくりととけこんでいます。入り口の前には、樹齢600年といわれる大きなイチイの木が、小さな礼拝堂を見守るかのように、どっしりと立っていました。

それが、一人の日本人の手で蘇ることになったのだ。田窪恭治という美術家だ。

この企ては、最初から歓迎されていたわけではない。

いきなり現れた外国人しかも東洋人が、壊れかけた村の礼拝堂をどうにかするという。村人たちが疑念を抱くのも無理はない。説明会を開くなかでもなかなか合意に至らず、村長の鶴の一声でようやく結論が出ることになる。

「どうせ壊れる礼拝堂じゃないか。この人にまかせてみてはどうだろう。契約さえちゃんとすればいいんだから」

皆が賛同するなか、助役のピエールの妻、リリアンヌだけは不安を抱いていたという。礼拝堂のまわりには二軒の家があるが、そのうちの一軒で生まれ育ち、もう一軒の家ピエールの家に嫁いでいたからだ。礼拝堂は彼女にとって特別な場所だった。

村民たちも思い切った決断をしたが、田窪さんも“大きな”決断をした。プロジェクトの間、家族を帯同し、フランスに移り住むことにしたのだ。お子さんは息子三人、当時中1、小5、小4という多感な年頃。私たち家族も「夫/父親の仕事の都合」で転勤生活を送っているけれど、見も知らぬ土地に移動し、生活の基盤を作り上げる苦労といったら計り知れないものがある。まして言葉もろくにわからない外国。一家が暮らしたのは、村内ではなくファレーズ市という近郊の町だが、当時日本人は一人もいなかったという。 

 ある日、いちばん下の息子が学校から帰ってくるなり、しみじみといいました。

 「ぼく、外国人になっちゃったんだ」

 いつもたくさんのものめずらしそうな視線にさらされることになった彼は、きっと日本にいる外国人がどんな思いで暮らしているのか、身にしみて理解したのでしょう。

お子さんたちには3年で帰ると説明し、ファレーズに着いたのが1989年。その後建物の工事が完了したのが1996年のことだ。初めて村を案内されてから実に10年もの年月が経っている。

建物の工事で完成ではない。そこから田窪さんの本業としての仕事が始まるのだ。礼拝堂内部に壁画を描くという仕事だ。田窪さんはもともと現代美術の人、村のアトリエで試行錯誤しながら描きためていた絵はどれもが三角形や四角形を組み合わせたような抽象画だった。

しかし、田窪さんが最終的に描くことにしたのは、りんごだった。りんごの樹だ。

 なぜ、抽象的な絵をやめて、りんごの樹を描くことにしたのか、理由はタクボさんにもわかりません。

田窪さんがファレーズに来てから、毎年撮り続けていたのがりんごの樹。いつの間にか二万枚にも達していたという。ファレーズがあるのはカルヴァドス県。リンゴの生産で知られ、シードルやその名を冠した「カルヴァドス」の製造も盛んに行われている。ちなみに、田窪さんの作品のなかには「りんご爆弾」というりんごに導火線を通して火をつけたものがある。りんごを描くのは必然だったといえよう。

本号最後には、折込3ページを使い、りんごの壁画が展開されている。正面入口は開け放たれ、礼拝堂を見守るように立つイチイの太い幹と葉っぱが絵のように切り取られている。白壁にシンプルに描かれたりんごの絵とぴたりと調和する。それも含めての壁画なのだ。

『りんごの礼拝堂』の表紙を飾るのもイチイの木。主役であるはずの礼拝堂は、隠れるようにひっそりと後ろにある。礼拝堂の姿が現れるのは中表紙からだ。イチイの木は礼拝堂と切っても切り離せない大切な存在なのだ。田窪さん自身の著書『林檎の礼拝堂』によると、専門家に計算してもらったところ、1402年にこの土地に植えられた可能性があるという。礼拝堂建立の100年も前から生きている計算になる。なんと百年戦争の頃だ。 

樹の生きてきた時間を大切にする。それは礼拝堂の修復工事にも表れている。今使われている材料をそのまま利用するのは当然のこと、傷んだ部分を取り換えるときも古い材木を使っているのだ。工事に携わった大工の棟梁が大切に保管していたものだ。フランスには古い建物の修理を専門とする、優秀な棟梁や職人がいるのだという。

礼拝堂を支えるのが「時間」なら、礼拝堂を彩るのは「光」だ。田窪さんは、初めて礼拝堂に入ったときのことをこう書いている。

 薄暗い礼拝堂のなかには、壊れかけた屋根瓦の隙間から金色の冬の光が、壁の漆喰や祭壇の石に振りそそいでいます。その神々しい光は、命を終わらせようとしている例は移動の、最後の輝きのように見えました。

その印象を再現するため使われたのが、ガラス瓦。古い素焼き瓦の合間に、色とりどりのガラスが散りばめられてゆく。外から見ても、中にいても、えも言われぬ美しさを堪能することができる。見る角度によって、光の強さによって、さまざまな輝きを放つのだ。

魅力は昼の光だけではない。街灯もなく真の闇につつまれたなか、礼拝堂を浮かび上がらせるのが、人の手で作られた光。内部に設けられた照明は、今度は内側から光を放ち、色ガラスを煌めかせる。

 点灯したあと、大急ぎで左翼廊の北側にある扉から外に飛び出して礼拝堂を見ていた私は、そのとき、眼の前で聖母マリアが両手を広げ「月」に向かってゆっくりと立ち上がっていくような錯覚に陥りました。(『林檎の礼拝堂』73ページより)

 

本号で田窪さんは一貫して“タクボさん”と呼ばれている。著者たくぼひさこさんは、田窪さんの奥様なのだ。“田窪さん”では他人行儀だし、子供向けの「たくさんのふしぎ」では“夫”や“主人”と書くわけにはいかないからだろう。絵を担当したHAYATO氏は、おそらく田窪家のご子息(次男)ではないだろうか?本書では上記に引用した三男の話、そして長男の様子も少し触れられているが、次男は絵という形で本号を彩っている。「りんごの礼拝堂」プロジェクトを支えたのは、紛れもなく一家の皆さんだ。家族で作り上げたこの本もまた「りんごの礼拝堂」プロジェクトの一部なのだ。

『林檎の礼拝堂』には、当時資生堂の会長を務め、プロジェクトの資金調達にも協力した福原義春氏が序文を寄せている。

 すべてのことが整う前に、夫人と3人の子供を伴って何の地縁も人脈もないノルマンディーに移り住むという、その決断こそがこのプロジェクトのすべてである。(『林檎の礼拝堂』5ページより)

本号そして『林檎の礼拝堂』を読むと、家族を帯同しての移住含めすべてが、田窪さんの美術活動の一環であることがよくわかる。

 もともと田窪は美術館の壁画を埋めたり、商業取引のための芸術と呼ばれる作品に生命の火を使いきるつもりはなかった。(同5ページより)

同じことが本号『りんごの礼拝堂』にも書かれている。

タクボさんが造った作品は、美術館で展示され、観客が鑑賞し、そのあと、売られます。ところが、作品が売れれば売れるほど、タクボさんは、自分がほんとうに目ざしていたことから、どんどん遠ざかっていくような気持ちになってゆきました。

作品単体という枠組みから脱却し「観客といっしょに楽しむことができる心地よい場所をつくる」。試行錯誤しながら造り続け、1987年に発表したのが『絶対現場ー1987』という作品だった。

https://www.youtube.com/watch?v=G1CQirv-mbQ

https://www.mot-art-museum.jp/exhibitions/docs/takubo.pdf

『絶対現場ー1987』は、最後の取り壊し含めた表現活動だったが、田窪さんは一方で「観客といっしょに楽しむことができる心地よい場所をつくる」ための建物を探していた。その舞台となる場所こそ、サン・ヴィゴール・ド・ミュー礼拝堂だったのだ。

しかし、私自身の表現回路の解放を目指して、東京で実施していた『絶対現場ー1987』の最中に出会ったこの小さな礼拝堂が、地元の人々によって愛され、維持され続けている姿を見たとき、私は、表現方法に違いはあっても生き続ける作品とは、人々にとって必要なものであり、生まれた作品に対して愛情を感じる人々の手によってさらに命を吹き込まれていくものであるという、人と文化の基本的な関係をあらためて認識させられたのです。(『林檎の礼拝堂』19ページより)

この礼拝堂を紹介したのはパリ在住の美術評論家、前野寿邦氏。村人へのプロジェクト説明会にもモニク夫人と共に協力している。

プロジェクトが始まってからは、サン=マルタン=ド=ミューの村長が、プロジェクトへの協力を申し出た人たちと「タクボと礼拝堂の仲間たち」の会を結成。村の分校で、プロジェクトの説明を兼ねた展覧会を開いてくれる。

その展覧会を見にきたのが、田窪さんの長男が通う中学校の美術教師、ジャック・ピィ氏だ。現代美術や写真に明るく、展覧会の企画なども手がけるジャックは、のちに礼拝堂修復現場の事務局長を引き受けることになる。古い材木を提供してくれた大工の棟梁も、彼が探し出してきてくれた人だ。

美術活動含めプロジェクトに必要なのは、このような「人」のつながりだけではない。先立つものがなければ、取りかかることすらできないのだ。

 礼拝堂がノルマンディーの自然環境との厳密な関係性で成立しているように、このプロジェクトも社会的に多くの人々との共同作業によって進められています。

 その一方で資金をどのように集めるかということは大きな課題です。この礼拝堂は完成した後、絵画や彫刻のように売買できるものではありません。また新しく出来上がった礼拝堂を私たちが所有して、利益を得るためのものでもありません。(同52ページより)

かねてから田窪さんの才能を評価し支援してきた、フジテレビギャラリーの玉田俊雄氏の協力のもと「サン・ヴィゴール・ド・ミュー礼拝堂再生プロジェクト」の正式発足に至るまで、準備期間3年間を費やしている。何もかもこれからという時、家族を連れ村へ飛んできた田窪さんが、この準備期間中、礼拝堂には何ひとつ手をつけなかったという。ギャラリーとの個人的な関係だけをもって取りかかり、途中資金が尽きたとき、村人たちを失望させるのみならず、礼拝堂を中途半端に壊してしまうことになりかねないからだ。このような宙ぶらりんの状況で日々過ごすことは、筆舌に尽くしがたい苦しみだったと書かれている。

資金繰りの打開策となったのが、序文を寄せた福原義春氏による資金集めのアイディア。メセナ活動の一環として広く企業、個人などから資金を募ること。『林檎の礼拝堂』巻末には、プロジェクトに参加したさまざまな企業や個人の名が4ページにわたって紹介されている。

 

田窪さんが美術の道に入ったのは、こんぴらさんのおかげといえる。高校時代、宮司の息子、琴陵ことおか君と同級になったことが運命を変えた。彼に案内され金刀比羅宮の奥書院にたどりついた先にあったのは、若冲の「百花図」。

その小さな部屋は、襖という襖、壁という壁、すべてが花の絵で埋めつくされていたのです。暗い部屋のなかでたくさんの花の絵にかこまれているうちに、タクボさんはいつの間にか、座っていた畳の上から身も心もふわふわと浮きあがり、花とともに宙をさまよっていました。 

若冲が見せる絵の力に衝撃を受けた田窪さんは、自分もこんな作品を作りたいと、絵の道を志すことになるのだ。

花とともに宙をさまようイメージ……田窪さんはこのとき受けた印象を「りんごの礼拝堂」で再現しようと試みている。

  私の目的は壁(絵の具の支持体)を無くして、内と外の区別をつかなくし、絵の(現場の)イメージだけを空中に立ち上げたいということなのです。(『林檎の礼拝堂』133ページより)

「観客といっしょに楽しむことができる心地よい場所」、それは田窪さん自身が自分を楽しませる場所でもあったのだ。

 いわばこの礼拝堂は、神と交信するためのものではなく、われわれの目の前に広がる現在の風景と交信するための装置なのかもしれません。(同126ページより)

「りんごの礼拝堂」は、田窪さんの手を離れてからも生き続ける。むしろそこからが始まりともいえるのだ。風景の変貌や、過ぎゆく時間、人びとの思いなどが「りんごの礼拝堂」にどんな変化をもたらすのか、「未来」の礼拝堂の姿を見てみたいと思った。

「将来、この白い壁が汚れてしまったら、どうすればいい?白く塗るのかい」

「いや、塗るのではなく、はがした方がいい。白の色を丁寧にはがすと、下からちがう色がでてくる。そして、こんどその色が汚れたら、つぎはその色をはがす。壁が汚れるたびにそれをくりかえしていくと、最後にはいちばん下の鉛の壁がでてくるよ。たぶん、そのころには、七、八百年たっているだろうけどね」

 タクボさんはそう答えて、にっこり笑いました。 

「りんごの礼拝堂」プロジェクトを成功させた田窪さんは、1999年、こんぴらさんと、そして宮司となった「琴陵君」の元に帰ってくる。

琴陵宮司は、33年ぶりに巡ってくる「遷座祭(2004年)」に向け「ニューこんぴらさん構想」を練っている真っ最中だった。田窪さんの講演を聴きに上京した宮司は、いっしょに仕事をしたいと“プロポーズ”するのだ。礼拝堂から神社へ。どちらも同じく、神に祈りを捧げる場所であるところが興味深い。

そうと決まれば、田窪さんの行動は早い。その年の秋には滞仏生活を引き払い、翌年5月、家族とともに琴平へ移住する。こうして「琴平山再生計画」がキックオフ。「故郷に帰ってきたのではなくて、ノルマンディーの次の現場、新しい仕事場意識でやってきたわけです」と振りかえっているCulture Power - 田窪恭治

とはいえ、こんぴらさんへの「原点回帰」。こんなことも語っている。

まさか60過ぎて、15歳の原点、若冲の『花丸図』から数メートルの部屋で、絵を描くようになるとは思わなかった。新しい表現を生み出そうと、東京へ、フランスへ長い旅をした僕を、こんぴらさんは待っていてくれたのでしょうか。「風景芸術」で 「こんぴらさん」を未来へつなぐ|ビジネス香川

本号「作者のことば」でも、こんぴらさんでの仕事に触れられている。

 もちろん、本来のタクボさんの絵描きとしての仕事もあります。白書院という何十畳もある部屋の襖や壁いっぱいにパステルで椿の絵を描いたり、建物をデザインして、その中に今度は有田焼のタイルに椿を描いて、縦六メートル横二十五メートルもある大壁画をつくったり、相変わらず楽しそうに絵を描いています。

(中略)でも、きっとタクボさんは、こんぴらさんを訪れる大勢の人たちが、「心地よくかんじる場所」をつくり出すのに夢中なのでしょう。

実はこの、

「白書院という何十畳もある部屋の襖や壁いっぱいにパステルで椿の絵を描いたり」

を見たことがあるはずなのだ。

展覧会ピックアップ 07年11月|金比羅宮 書院の美

友人に誘われての四国旅行、こんぴらさんに参った時のこと。田窪さんは制作の真っ最中だったはずだ。しかし残念ながら、若冲にやられほとんど記憶にない。白書院(椿書院)も見たはずだが……。

「有田焼のタイルに椿を描いて」は、カフェ&レストランの「神椿」に展示されている。

田窪さんが白書院障壁画に椿を採用したのは、こんぴらさんの原生林で見つかったヤブツバキをモチーフにしているからだが、「神椿」の運営が資生堂パーラーであり、その資生堂のシンボルマークが「花椿」だというのは、並々ならぬ縁を感じさせる。

 

ちなみに……このときちょうど息子を妊娠中、友人にお守りを買ってもらったのもいい思い出だ。息子はその後「若冲が来てくれましたープライスコレクション江戸絵画の美と生命」はじめ、さまざまな若冲展を観覧している。先日など美術の課題で若冲の絵を選んで模写していたが、彼は生まれる前から若冲を「見て」いたんだなあと思うと、感慨深いものがある。