こどもと読むたくさんのふしぎ

福音館書店の月刊誌「たくさんのふしぎ」を読んだ記録です。

ドイツの黒い森(第153号)

昨日のエントリーでいただいたコメントの、返信について補足。

「マイナスの面も含めた身近にある自然の姿」というのは、自然自体のマイナス面というより、人間活動の影響で生じたマイナス面、とするべきだったと思い直した。もっといえば、鮎が不味いというのも私の勝手な感想。鮎はただ、環境の中で自分の生を生きているだけだ。私だって「近くの川の鮎」を食べなくたって生きていける。私が食べる鮎はおいしい鮎。「遠く離れたところで、電気を消費しながら養殖され、排ガスを出すトラックで運ばれてきた」鮎だ。

かつて、自然のご機嫌をうかがいながら生活するしかなかった人間は、自然と密接に関わらざるを得なかった。川を汚せば、直ちに暮らしにはね返ってくる。夏の旅行では、郡上八幡にも訪れたが、「水舟」という利水方法が今でも利用されていた。上下水道がなかった時代、水舟の管理不行届は死活問題になったことだろう。

水舟 | 【TABITABI郡上】

近くの川は、高度経済成長期、生活排水などで著しく汚染が進み、一時は「死の川」とまで呼ばれていたことがあった。自然とのつながりが薄れた生活をしていると、自分の生活が環境に与える影響が見えにくくなってしまう。

「ドイツの黒い森」すなわちシュヴァルツヴァルトでも、“人間活動の影響で生じたマイナス面”が、大きな問題となったことがある。酸性雨によるモミの木の枯死だ。ちょっと調べてみると、シュヴァルツヴァルト自体、植林によってできた人工林。だからこそ、大気汚染や酸性雨の影響を受けやすい虚弱な森になってしまったのだという考えもある。今ではブナなどの広葉樹との混合林への転換もはかられているというが、この辺の事情はよく調べてみないとわからない。

森林管理ひとつ取っても、本書の中でさえ、

「この森は、日当りや土のぐあいが、モミが育つのにとても合っているんです。だから、人工的な植林はほとんどしないで、自然に生えてきた苗を大切に育てています」

という考えの森林管理官(コンラッド氏)もいれば、

コンラッドさんのところでは、自然のままに近いやり方で森を育てているけれど、ここは環境もちがうので、もっと積極的、計画的に植林をしています」

という考えの管理官もいて、森を育てる考え方は一つではないことがわかる。

このイベントでも、当然のことながら、活動するフィールドやボランティアさんによって、管理の仕方が異なっている。『ドイツの黒い森』にも、木の伐採の様子が載っているが、イベントで教えてもらったのとだいたい同じやり方だ。受け口と追い口を作って切り倒し、枝を払って並べていく。伐採の方法というのは、どの国でもそれほど変わらないものなのだろうか。

 

「黒森の昔の大農家」は、白川郷で見た家とそっくり。

建物は木造で、屋根はかやぶき。雪をおとしやすいようにきゅうな傾斜をつけた大きな屋根など、日本の合掌造りの家にちょっと似ています。

合掌造りと違うのは、最上階に、山から橋を架けてじかに出入りできるようになっているところ。粉挽きの臼や馬車をおいた作業場として使われている。1階の家畜小屋から最上階は吹き抜けとなっていて、最上階に干し草を運び込むと、2階の干し草置き場に下ろせるようになっている。さらには1階の家畜小屋まで下ろせるような仕組みになっているのだ。土地や気候に合った家を建て、合理的に使う仕組みを構築するというのは、どこの国も変わらない人間の営みだなあと感心させられた。グローバル化で、かつての「合理性」は「不便」に取ってかわってしまったけれど、環境に合わせ、工夫してより良い生活を送りたいという人間の性が変わることはない。