こどもと読むたくさんのふしぎ

福音館書店の月刊誌「たくさんのふしぎ」を読んだ記録です。

顔の美術館 (たくさんのふしぎ傑作集)(第106号)

東京に住んでいた時、見たいと思った展覧会には、できるかぎり行くようにしていた。いつまた転勤になって、美術展に飢える日が来るとは限らないからだ。

大都市圏以外の地方都市は、美術館へのアクセスがいいとは言えない。たとえ都道府県内に良い美術館や美術展があっても、ふらっと行ける位置にないことも多いのだ。こと美術館(美術展)に関していえば、圧倒的に東京が優位。優位というのは、美術館(美術展)が充実しているだけではない。周辺の美術館に行くにしても、容易にアクセスできるという利点がある。山口晃の展覧会を見に館林美術館水戸芸術館に行ったことがあるが、少し遠いけれど東京からなら楽に日帰りで行って帰ってこられる距離だ。

美術観賞のとっかかりくらいは与えられた息子は、夏休みや今春の休校中*1、一人で市内の美術館に出かけていくまでに成長した。

コートールド美術館展 魅惑の印象派」に行きたいと言い出したこともある。すでに観覧済みだった私も、もう1回足を運ぶことになった。今展覧会の目玉はもちろん「フォリー・ベルジェールのバー」。子供と行った2回目も飽かず眺めたものだ。この絵は小学校の図工か中学校の美術だかの教科書に載っていた絵。不自然な構図と気怠い様子のバーメイド、カウンターに置かれたきらめく酒瓶が何とも魅力的で、すごく印象に残っていた。海外に出かけた時、いずれ会えるかもと思っていたが、まさか自分の子と上野で見ることになろうとは思いもしなかった。

『顔の美術館』は、美術作品に描かれる「顔」に焦点をあてた本だ。

実を言うと私は、顔に注目して絵を見てこなかったように思う。コートールド美術館展では、いくつかの「顔」を熱心に鑑賞した。

フォリー・ベルジェールのバー」のバーメイド。

桟敷席」(ルノワール)の女性。

「個室にて(ラ・モールにて)」(ロートレック)の高級娼婦。

女性たちは三者三様だが、「夜の街」の人*2であることは共通している。

マネ描くバーメイドは、心ここにあらずといった風情だが、「桟敷席」の女性は、画面の向こうにいる者たちに華やかな自分を意識して見せている。それでも表情はどこか不安げで、ラ・モールで余裕たっぷり妖しげに微笑む娼婦とは対照的だ。女性たちには、それぞれ寄り添う男性が描かれているが、どの男もどんな顔かはっきりせず、表情を窺い知ることはできない。男など、ただの添えものにしか過ぎないのだろうか。

コートールド美術館は、ある実業家のコレクションから始まった美術館だ。その男、サミュエル・コートールドは、コレクションの大部分をわずか10年足らずの間に買い揃えたという。個人のコレクションなので、自分好みの作品を集めているはずだが、その質の高さには驚くばかりだ。彼は「コレクションを形成するにあたって、明確に公共性を意識していた」*3という。

今でこそ大人気の印象派も、当時のイギリスではまだまだ評価の定まらない作品だった。そんな時代にコートールドは、みずからのコレクションの大半をコートールド美術研究所に寄贈し、イギリスの美術教育の発展と、大学レベルでの美術史教育に大きく寄与することになる。個人で買い集めるだけでなく、テート・ギャラリーに高額の助成金を申し出たり、印象派に対し消極的な立場だったイギリスの美術館に働きかけ、基金を通じて22点もの印象派・ポスト印象派作品を購入したりもしている。ナショナル・ギャラリーにあるゴッホの「ひまわり」*4もその一つだ。

コートールドは公共性を意識していたが、作品購入にあたっては、最終的には自らの判断と作品に対する感動をよりどころにしていたという。彼は芸術の持つ力を信じていた。芸術の持つ力が、個人的な充足感を満たすばかりでなく、結果的に社会全体の安寧に貢献するはずだと信じていたのだ。親友のチャールズ・モーガンは次のように語っているという。

(略)それは、「国家」のためにではない。絵画作品のうちの1点にたまたま出くわして、それを観察するままに感嘆したり称賛したり楽しんだりする刺激に誘われるばかりでなく、まるで矢に射抜かれるようにして心の奥深くで受けとめて、その人生の中にほとばしるような想像力が再び息づいたり、凍てついた想像力が融けていくのを発見できるような男性や女性、子供のひとりひとりのために贈ったとむしろ言いたいのだ。コートールドの願いは、一般の人々を目利きにすることではなくて、セザンヌやマネやルノワールの作品をとおして、私たちひとりひとりの個人の生活を詩情溢れるものにしてほしいということだった。(「コートールド美術館展 魅惑の印象派」公式図録 P19より)

会場自体、コートールド邸を意識した作りになっていて素晴らしい展覧会だった。現地に行って、彼が愛した作品を、そして後世の人たちが彼の精神を継いで育ててきたコレクションを、じっくり鑑賞したいものだ。にしても……この展覧会が神戸に来るのを心待ちにしていた人は、さぞかし悔しい思いをしていることだろう。

 

『顔の美術館』 の話がそっちのけになってしまったが、私はこの本を読んでもどかしい思いを禁じ得なかった。数々の「名画」がタイガー立石流に紹介されていて、それはそれで素敵な絵本だが、この中で気に入ったものがあったら、画集でもいいから本物を見てほしい、画集で見てすごいと思ったら実物を見てほしい(海外のはなかなか難しいけれど)と強く願ってしまう。もちろんこの絵本、名画の模写を散りばめた絵本自体、タイガー立石の作品であって、これも確かに良いものだけれど、オリジナルもすごいよ、アルチンボルトすごいよ、ゴッホも、ピカソも、ルドンも、ムンクも、歌川国芳もすごいから。とにかくすごいから本物も見て、という気持ちが湧き上がってくるのだ。

印刷技術の発達でカタログや画集の質は格段に上がり、ネットを通じたオンライン鑑賞もリアルを補って余りある時代に来ている。NHKで中継していた「おうちでミュージアム」など、リアル鑑賞では近づけないところまでクローズアップして、これはこれで面白い見方だなと思ったところだ。

それでもなお、オリジナルをその目で見たい、大きさを体感したい、雰囲気を感じたいという思いが消えることはない。どちらがというものではなく、ヴァーチャルとリアルどちらも必要なものなのだ。これから「新しい生活様式」が定着していくと、リアル鑑賞の機会が減ってしまうことも考えられる。これからの子供たちにこそ、本物に触れて本物の素晴らしさを体感してほしい。本物を見たいと思う子供たち、本物を作りたいと思う子供たちは、未来のピカソ、未来のコートールドになるはずだからだ。私もいつか、“立石大河亞”作品のすごい現物を見てみたい。

顔の美術館 (たくさんのふしぎ傑作集)

顔の美術館 (たくさんのふしぎ傑作集)

*1:3月の連休直前の緊張が緩んだ時期。休館中だった美術館も再開していた。

*2:諸説あるが私はそう解釈している。

*3:「コートールド美術館展 魅惑の印象派」公式図録 P16より

*4:子供は『ゴッホ展』にも行きたいと言い出して、私の方が子供に付き合って出かけたこともある。SOMPO美術館(「安田火災東郷青児」時代の私にとって、いまだに慣れない名称だ)の「ひまわり」も見たいと言っていたけれど、実現しないまま東京を離れることになってしまった。ちなみにコートールドもゴッホも情報源は小学校に掲示された展覧会のポスターだった。あんなん見て行く小学生とかいるんだろうかと思ってたけど、ここにいた。