こどもと読むたくさんのふしぎ

福音館書店の月刊誌「たくさんのふしぎ」を読んだ記録です。

ぼくの島(第138号)

家の子供は地図が大好きだ。
地理院地図などネット上の地図で遊んだりするし、夫のもってる「山と高原地図」を引っ張り出してはながめている。最近では『登山案内 一等三角点全国ガイド』に触発されて、近所の三等三角点を探しにいったりもしている。

我が家の車には長らくカーナビ含めモニターもカーテレビも付いていなかったので、車でお出かけするときはずっと車内で道路地図をながめていた。バードウォッチングが趣味になってから、あちこちの探鳥地に出かけるようになったが、道案内は子供自身に任せている。ここへ行きたいと子供がいうたび、経路を下調べするのがほとほと面倒になったのだ。行きたいとこがあるなら自分で調べて案内するべきだ。ときどき間違えたりするものの、地図読めない & 方向音痴の私よりはるかにマシだ。知らない街もひとりで迷わず歩き回ることができる。

夫も受験の時は地理選択だったし地理は好きで詳しい。私が運転中、地図を見て最短経路を考えながらナビしてくれるが、細い道を案内するのでかえって遅く着くこともある。夫の父も、ナビのない時代から地図を見ながらあちこち運転して出かけるのが好きだったようだ。今でも運転を含む仕事をしているし、感染症流行の真っ最中も遊びに出かけようとして義母をキレさせていた。夫も子供も暇さえあれば外に出たがる人たちなので、これはもう血は争われない遺伝なのだろう。

『ぼくの島』は、5月のある日、岸辺を散歩していたところ、川の中にふしぎな島を見つけたところから始まる。川のなかということから、小さな中州のようなところなのだろう。 

 だれもこの島のことを知らないし、島の地図もない。川の流れや風や鳥が種をはこび、その種からめばえた草木だけがしげる島だ。

 ぼくはこの島の地図をつくってみたくなった。 

どちら側の岸からも、その島には歩いて渡れそうになかった。いかだ、ボート、カヌー、胴付長靴……島に渡る方法を考えた「ぼく」は、その中からカヌーを選んで乗り入れることにする。

無事、上陸を果たした後は、島の探検だ。島を歩き回りつつ、ノートを取っていく。見つけた湿地や沼を記録し、岸のようすや島にいる動植物のことも書き込んでゆく。東の岬の端っこには「イーストポール」と名付けたり、西の果ては「ウエストポイント」と呼んだり。未知なる土地を探検する醍醐味が存分に描かれている。

9月に再訪したときは、川の水がすくなくなっていたので、今度は歩いて渡っている。テントやストーブ、釣竿なども持ち込んで、まさに“ソロキャンプ”だ。川で水浴びまでしている。ウグイが5匹ほど釣れたが、おいしくないからとリリースしている。そういえば以前参加した「水辺の楽校」で、近くの川からウグイを取って観察した後、今度は予め準備された養殖のウグイを掴み取りするというイベントがあったが、持ちかえったそのウグイもそれほど美味というわけではなかった。

日が沈みあたりが暗くなると、ゴイサギが「ぼく」の魚釣ポイントに、エサをねらいにやってきた。「ぼく」の方は、川原に寝転んで星空観察。新幹線の高架がすぐそばにあって、光の帯が駆け抜けていく様子がとてもきれいだ。イラストはやわらかなタッチで描かれているが、このページは出色で、文に書かれた様子を見事に表現している。 

 朝ごはんに、お茶をわかして、つんできたグミの実を食べた。

 ぼくはこの島のおおよそのことを知った。やぶの中を歩いていても自分が島のどこにいるかわかる。

 ここはぼくの島だ。

家の子供は地図を見る楽しみは知っていても、こんな風に地図を作る楽しみは知らないかもしれない。ただ、地図がある土地であっても、今春引越しで見知らぬ土地にやってきた子供は、歩いてやら自転車やら親の車やらで土地の様子をインプットし、自分だけの地図を頭のなかに作り出していることだろう。それは私の頭のなかにある地図ーどこのスーパーで何が安いかとか、とは違うし、夫のとも違うはずだ。

「作者のことば」によると、この島は実際にある場所をモデルにしているという。絵の情景は本物の場所に似せて描かれているので、文や絵から推測できる人もいるだろうと書かれている。子供は、作者の塩野さんは角館生まれと書いてあるし、新幹線の高架が見えるから、きっと秋田のこの辺じゃないかとGoogleマップで示していたが、果たしてどうだろうか。島にはオナガがいるので、東日本であることは間違いないだろうが。

作者の塩野米松氏は、松岡達英氏と組んで『おじいちゃんの小さかったとき』という本を書いている。ベースとなっているのはおそらく松岡氏の話だと思われる。イラストのなかには松岡氏の出身地である長岡市の文字があるし、夏休みの宿題にもっていった昆虫標本の箱、のイラストには「4ー3 松岡 たつひで」の記名があるからだ。イラストは繊細で緻密なタッチで描かれているものの、チョウを始め昆虫の絵だけ急に解像度が上がっているところが松岡氏らしくて面白い。

通知表の絵もあって、なんと成績もすべてまる見えになっている。評価は5段階、劣っている、やや劣っている、普通、やや優れている、優れている。「学習の記録」では理科と図工の成績がよく、「行動の記録」では「探究心がある」の項目に「優れている」の評価がある。松岡氏のその後の進路と仕事ぶりをあらわしているようで興味深い。

むかしを振り返るというと、古き良きみたいな懐古主義的なものもあるが、この本はそういうムードとは一線を画している。もちろんうれしかった楽しかったことが多くを占めているものの、学校で理不尽な仕打ちを受けたり、ケンカで負けたり、きょうだいげんかがあったりと楽しくない思い出もそのまま描かれている。2匹のトンボの尻尾に麦わらをさしてヘリコプターのように飛ばして遊んだり、スズメバチの巣をかっこいいからといって取りにいったり。今では残酷に思われたり危険だったりする遊びも語られている(注意を与える言葉も書かれている)。

おそらく、もともとが『父さんの小さかったとき (福音館の科学シリーズ)』として、父が子供に語るていで作られた本だからではないだろうか。祖父母の年で振り返ると思い出補正がかかりがちなところもあるが、親くらいの年だとまだまだ思い出の素材は新鮮だ。

『おじいちゃんの小さかったとき』に付けられている塩野氏のあとがきでは、孫の一人が学校の図書館で『父さんの小さかったとき』を見つけ借りてきたエピソードが書かれている。おじいちゃん(塩野氏)の本だと気がついたらしい。学校の図書室におじいちゃんの本、それもこんな素敵な本があるっていいなあ。孫のパパ(塩野氏の息子)の方も「今、じいちゃんの小さかったときのことを、本を見ながら話しているよ」と電話してきたのだそうだ。それを聞いて塩野氏は、あの本はもう「じいちゃんの」本になったんだと、それなら新しく「じいちゃんが孫に話して聞かせられる本」を作ろうと思ったのだという。

ちなみにもちろん、『おばあちゃんの小さかったとき (福音館の科学シリーズ)』もある。こちらも『母さんの小さかったとき (福音館の科学シリーズ)』の改定版だ。『おじいちゃん』『おばあちゃん』どちらの本も初版年月日は2019年09月15日。「老人の日*1」に合わせて出版されている。

 新しく文章を考えながら感じたことは、時代は私たちからパパやママ、そして孫たちへとつながっているんだということでした。『父さんの小さかったとき』は父親と子どものお話でしたが、孫を加えたことで、時代はおじいさんたち、パパたち、そして君たちとずっと1本のひものようにつながっていることがわかります。この本からまた30年もたつと、孫である君たちはパパやママになっているでしょう。そしてその30年後には君たちはおじいさん、おばあさんです。またその次もずっとずっと続いていくでしょう。(『おじいちゃんの小さかったとき』あとがきより)

今週のお題「おじいちゃん・おばあちゃん」

<2020年9月25日追記>
『父さんの小さかったとき』を見つけたので、『おじいちゃんの小さかったとき』と読み比べてみた。イラストこそ大きく変わっていないものの、文章にはかなり加筆修正がほどこされていることがわかって、興味深かった。

『父さん』でその辺の畑から野菜を失敬するところは、『おじいちゃん』では自分ちの庭に変えられていたり。『父さん』が語っていた「車をもっているのはお金持ちだけだった」という言葉が削られていたり。時代が出ているのはテレビの話のところ。『父さん』では力道山が出てきたが、『おじいちゃん』は力道山を語らない。そのかわり「テレビのチャンネルは手でまわしたんだよ」という文言が付け加えられている。たしかに家の子供もリモコンテレビしか知らない世代だ。

正直『おじいちゃん』は、時期は違えど同じく昭和時代を過ごしてきた私には、ところどころ細かな違和感を覚える箇所があった。学校の先生、ここで謝ったりするもんかなあとか。友だちの名前を君・さん付けで語るかなあとか。歯切れが悪いというか真綿に包んでるというか、この時代の、今は問題となりそうな部分をうまく処理しているなあという印象を受けたのだ。昭和を通過してきたおじいちゃんにしては、やけに語り口が慎重で優しいなあと(偏見です)。『父さん』はその違和感がすべて払拭されて、あーこういう感じ、そうそうと納得できるものがあった。父と子の会話の気安さも『おじいちゃん』で語られる口調と比べて自然だ。

もちろん『おじいちゃんの小さかったとき』は、むかしはこんな感じだったよと紹介する本だから、生々しいリアリティが必要というわけではない。誤解を恐れずに言えば、この本はきっかけとなるものに過ぎないのだ。作者の願いとしては、家族で本をいっしょに見ながら、おじいちゃんおばあちゃんの話を聞いたり、おじいちゃんおばあちゃんには思い出を話したりしてほしいということがあるからだ。

とはいえ『おじいちゃん』は『父さん』で描かれていた時代のことをできるだけ生かそうと腐心していることがよくわかる。『おじいちゃん』から削られた遊びは「けり馬」と「落としあな」くらいだろうか。記事本文にも書いたが、今ではちょっとすすめられない遊びや行動も、注意書きを加えることでそのまま紹介している。

父さんとおじいちゃんの立場の違いかなあと思ったのが、
『父さん』が「いろんなしごとがあるから、おとなになるまでに、ゆっくりかんがえるといいよ」と言っているのに対し、『おじいちゃん』は「君はなにになりたいんだい?」とたずねているところ。「ゆっくりかんがえるといい」の方が好ましく思ってしまったのは、私が『父さん』とおなじく親の立場だからかもしれない。