こどもと読むたくさんのふしぎ

福音館書店の月刊誌「たくさんのふしぎ」を読んだ記録です。

ジプシーの少女と友だちになった(第119号)

著者はひょんなことから、ジプシー家族のもとで居候生活することになる。フランスはニームという街で、迷子の少女ロメディオと知り合いになったからだ。ロメディオを、彼女が暮らすキャンプまで送り届けたあと、そのまま居ついてしまう?のだ。

ニームに来たのはサント=マリー=ド=ラ=メールで開かれるお祭りを見るため。これはロマ(ジプシー)の守護聖人であるサラをお祭りしたものだ。ひょんなことからとはいえ、著者はもともとジプシーの文化に関心があったのかもしれない。

陽光あふれる南フランスの景色そのままに(といっても見たことはないが)、明度の高いパステルカラーで彩られたイラストは、目にもまぶしくエネルギッシュだ。「たくさんのふしぎ」では、なかなかお目にかかることがないテイストだ。独特の躍動感にあふれていて、ジプシーの人たちのにぎやかな生活ぶりをよく表している。著者は、ジプシーの気質と親和性が高いのかもしれない。

ともに生活していた気やすさからか、語り口も率直そのものだ。

 ジプシーたちは、ことばづかいが乱暴で大声をはりあげますが、外で生活するから自然にこうなってしまったんです。うるさいけど、がまんしてください。 

なんて書かれていたかと思えば、

ジプシーの子どもたちときたら、動きははやい、力は強いで、こちらは本当につかれます。まとわりつかれてうんざりしていたら「ノン!」と父さんのかみなりが、トレーラーをつきやぶって落ちてきました。

とかいう描写もある。

ちなみに、この「ノン!」は、ロメディオ(12歳)に、縁談をもちかけられた場面での一コマだ。息子(15歳)との結婚をすすめようとする親戚が「おまえだって14で子どもをつくったじゃないか!」と、ロメディオの父オルテガに詰め寄る場面はなかなかに刺激的。

12歳で結婚!? 14歳でパパ!?

当時読んだ子供たちには、かなりの驚きだったのではないだろうか。縁談を断った本当のとこは「結納金がみみっちかった」から、というオチが明かされるのもなかなか。

ロメディオ自身はといえば「14歳になったら、大お姉ちゃんのようにお嫁に行くんだ」と無邪気なもの。一方で「学校にきちんと行け」とうるさい父さんの目当てが、政府から支給される「子ども手当」であることも承知している。ロメディオが学校に行き始めたのは10歳。10歳で1年生で今は3年生だ。ジプシーにとっては結婚も視野に入るような年なのに、幼いクラスメイトたちと机を並べるなんて、うんざりすることだろう。学校が楽しくないのも無理はない。

結婚が早いジプシーたちは、自然大家族になる。ロメディオの父さん母さんの間には、子供が12人、孫が11人もいるのだ。一族の総勢は31人!キャンプには19人がいっしょに暮らし、キャンピング・トレーラー7台に分かれて生活している。

そもそもジプシーとはどんな人たちなのだろう?

「ジプシーの故郷はインドなんですって?」ぶどう酒とたき火で赤鬼のようになった父さんに、話しかけてみました。

「とんでもない。ジプシーはジプシー。インド人でもフランス人でもスペイン人でもない」

「ジプシーは、マヌーシュ(北ヨーロッパ系ジプシー)、ロム(東ヨーロッパ系)、ジターン(スペイン系)などに分かれているの?」としつこいわたし。

「そんな分け方はジプシー学者とやらがかってにきめてることだ。ジプシーにつけられたあだ名なら、くさるほどあるさ」

本文ではこんな場面も描かれているものの、「作者のことば」では、

「ジプシーって、いったいどんな人たち?」

 私は、そのジプシーの一家にいそうろうしていたというのに、はっきりは答えられないのです。 

と、ひとくくりには語れない難しさを吐露している。だから語れるのは「自分がジプシーをどんな人たちだと思ったか」ということで、あくまで自分が会ったジプシーに関することだけと言う。英題は"I Met a Romany Girl"なので、オルテガ一家は「ロマ」ということになるのだろうが、それこそ「ジプシー学者とやらがかってにきめてる」ことで、意味のないことなのかもしれない。

本号最後にも書かれているが、かつては移動生活を送っていたジプシーたちも、サマの人たち(『舟がぼくの家(第167号)』)のように、定住生活をする人たちが増えてきている。そこで浮かび上がってくるのが、やはり差別問題だ。現在、世界中で感染症が流行するなかで、マジョリティたちすら不安定な状況にある。まして、弱い立場におかれているコミュニティは、もっと過酷な状況に直面していることだろう。

ロメディオは今、40くらいにはなっているはずだ。母マルテが56歳にして孫11人だから、孫の一人でも生まれているかもしれない。家族や親戚のつながりのなかで生きてきたジプシーたちにとって、子供たちは一族の未来をになう大事な宝ものなのだ。

ジプシーの少女と友だちになった たくさんのふしぎ 1995年2月号

f:id:Buchicat:20211227121519j:plain

この号を読んで不意に思い出したのが、『本を読むひと』だ。

パリ郊外の荒れ地で生活するジプシーの大家族。そこへ一人の図書館員が訪れるようになる。家に本がない子供たちにお話を読んであげるためだ。最初は「外人*1」である、図書館員エステールを信頼していなかった一家も、毎週のように通ってくるうち、彼女の来訪を待ちわびるようになる……というもの。

原著は1997年刊行、ちょうどこの号と同じような時期に出された小説だ。フィクションとノンフィクション、パリ郊外と南フランスと場所こそ違え、書かれているジプシーたちの暮らしは驚くほど似通っている。

本号のオルテガ一家が19人で暮らせば、『本を読むひと』のアンジェリーヌばあさん一家も、息子5人、嫁4人、孫8人の18人家族。物語中も、嫁たちがつぎつぎと妊娠している。ロメディオの母マルテが56歳なら、アンジェリーヌばあさんも57歳。ロメディオは12歳にして結婚話が出たが、アンジェリーヌの5人の息子のうち4人は成人前に結婚し、嫁の一人は15歳で嫁いできている。

『ジプシーの少女と友だちになった』の、オルテガ父さんの一族は、スペインからアルジェリアに追放されたジプシー。オルテガは当時フランス領だったアルジェリアで生まれたため、「フランス人のジプシー」となった。アルジェリア独立戦争のなかで「フランス人のジプシー」は虐殺の憂き目に遭ったためスペインに逃げ帰り、この20年は南フランスを旅するという、追放と移動の歴史を積み重ねてきた。

アンジェリーヌ一家の一族は、ここ400年フランスの地を離れたことのない「フランス人のジプシー」。しかし、一家の生活も追放と移動の繰り返しだ。もともといたパリの空き地を追い出され、いまは空いている私有地に潜り込んで生活を続けている。ジプシーたちは自ら移動することもあるけれど、追放という形で望まぬ移動を強いられることも多いのだ(不法占拠であるということはおいても)。

フランス人のジプシー」。どちらの本にも出てくる言葉だが、ジプシーの人たちはフランス人でありながら、社会的インフラにアクセスすることもままならない存在だ。とくに大きいのが水。『ジプシーの少女』、ロメディオの朝一番の大仕事は水汲みで、家事には水をやりくりしながら使う様子が描かれている。『本を読むひと』にも「女たちにとって一番大切なのは水を手に入れることだった」という言葉があり、井戸から汲んだ水を順に使いまわしながらやりくりする様子が書かれている。

今回『本を読むひと』を再読してみたが、正直、エステールの信念「本というのは、寝るところやナイフやフォークと同じくらい生活に必要不可欠なもの」は、果たしてジプシーの人びとが求めているものなのだろうかという疑問がわいてきたことも確かだ。なんでこんなことをやってるのか?というアンジェリーヌの疑問への「人生には本が必要だし、生きているだけでは十分じゃないと思うから」という言葉。

エステールは本を読むばかりではない。学校に通わないアンジェリーヌの孫たちを、学校へとつなげる役割も果たす。しかし、学校生活のルールも知らず、水に不自由しているため身なりを整えることもできない状況は、教師やクラスメイトとの軋轢を生むことになった。クラスメイトにうんこちゃんと呼ばれ、蹴飛ばされて足が痣だらけになる描写は、フィクションとはいえ胸が痛むシーンだ。

これは“恩寵*2”と呼べるものなのだろうか?もちろん、この本で表されている“恩寵”は、エステールからアンジェリーヌ一家への一方的なものではないにせよ。

それでも、子供が学校で過酷な状況に置かれていても、学校に通い続けるべきだと説き伏せるのは、エステールだけではない。ジプシーである子供の父親自身も「いまによくなるさ、いつか本が読めるようになったら喜ぶよ」と妻をなぐさめるのだ。「いまの時代、字が読めなかったら、話にならないんだよ」ということを知っているのだ。 

『ジプシーの少女と友だちになった』でも、著者とロメディオのやりとりに、こんな会話がある。 

 「わたし、学校の先生をやるかもしれない。わたしの担任のマドモワゼル・アンって、すごくすてきなんだ」

「え、それなら、あなた大学にいくの?」

「だいがく?なあに、それ?」

 

「ふん、ちょっとばかり字が読めるからって調子にのるんじゃない!」

自分は字の読めない父さんは、あいかわらず口がわるいけど、おこった顔で目がわらっていました。(『ジプシーの少女と友だちになった』本文より)

オルテガ父さんも、必ずしも「子ども手当」だけが目的でなく、ロメディオに教育が必要なことをわかっているのだ。

学校に行ったロメディオの子供たち、孫たちも、同じく学校に通っていることだろう。大家族というかたちは変わることはないかもしれないが、学校に通って字を読めるようになった世代の生活は、よい方向にせよ、そうでない方向にせよ、少しずつ変わっていくのかもしれない。エステールがアンジェリーヌ一家の生活に、変化をもたらしたように。

*1:Gadjo (non-Romani)  ジプシーでない人、よそ者

*2:原題は「恩寵と貧困(Grâce et Dénuement)」