こどもと読むたくさんのふしぎ

福音館書店の月刊誌「たくさんのふしぎ」を読んだ記録です。

舟がぼくの家(第167号)

舟が家ってどんな生活なんだろう。

フィリピンは南のはずれ、マレーシアとの国境に近いスールー海で暮らすアルビリン一家の「家」は、舟そのものだ。「家舟えぶね」と呼ばれている。

船ではなく舟だ。舟だから大きくはない。この小さな「家」に一家6人で生活している。大切なものはシタンカイ島の親戚に預けてあるとはいえ、生活用品や家財道具は最小限のものしかない。漁具、かまど、食器、水タンク、衣類箱、まくら、小物入れ、以上だ。ミニマリストがバカバカしくなるくらいのシンプルライフである。

舟は家であり、仕事道具であり、移動手段でもある。もっともアルビリンさん家の仕事道具は別の小舟。以前は一家そろって家舟で漁にも出かけていたそうだが、ほかの部族による海賊行為に悩まされるようになり、父と長男だけが漁に出るようになった。

一家のメンバーは、父アルビリン、母カルメン、長男エルビン、長女ジョビリン、次男シェルビン、三男タルピン。エルビンは母親によると「8歳くらい」。学校には行かないので、年は意味のないものなのかもしれない。

エルビン始め子供たちは学校に行かないけれど、ただ遊んでいるわけではない。漁の手伝いをすれば、食事の支度もする。きょうだいの子守もする。生活のなかで、生活するすべを学んでゆく。

 子どもたちは小さいときから親といっしょに漁に行き、魚や貝のいる場所、漁のしかた、潮のながれ、波や天気のかわりかた、舟のあやつりかたなどを教わります。親は子どもたちの先生でもあるのです。

机で勉強はしないけれど、海は教室だ。「マダガスカルのヴェズのくらし」と通ずるものがある。

Vol.10 海に浮かぶ家(フィリピン・スールー諸島)|世界の環境共生住宅|CSRへの取り組み|大和ハウスグループ

アルビリン一家は「サマ(他の民族からは“バジャウ”と呼ばれる)」のひとびとだ。サマはいわば海の遊牧民。漂海民ともいわれてきた。一家のように舟で生活する者もあれば、さんご礁の海上に、高床式の杭上家屋を建てて暮らす人たちもいる。彼らが住むのは海そのもの。スールー海にはアルビリン一家が住むソンプクル村(Sowang Pukul)始め、たくさんの海上の村が作られている。

海は畑でもある。アルビリンさんは漁を営んでいるが、同じ村のなかにはアガルアガル(agar agar)という海藻を栽培する人たちもいる。カラギーナンの材料として使われ、世界各地に輸出されているそうだ。

海で生まれ、海で育ち、海ではたらき、海で死ぬ。

狭い舟はもちろん、広くはない杭上家屋のなかですら、プライベートはなきに等しいものだろう。子供たちは家族のおしっこもうんちも見れば、きょうだいの誕生も見る。身近な人の死を見ることもあるだろう。親のセックスも。この辺のところはもちろん、本号では触れられていないけれど、自然のなかで暮らしているからこそ生なましい部分もそのまま受け入れられるのかもしれない。排泄も死も性行為もプライベートな空間に閉じ込めてしまう私たちとは別の次元に生きている。

もう一組紹介されている、ホンドアンさんとアンマリー少年が暮らすのも舟の家。アルビリン一家が使うテンペル型とは異なるタイプの舟だ。レパと呼ばれるその舟は大木をくり抜いて作られた頑丈なもの。船首と船尾に見事な彫り物が施された美しい舟だ。船体が重く船足が遅いため、いまは使う人が少なくなってしまっている。しかし、アンマリーの大好きなおじいさん、ホンドアンさんが亡くなった後、舟は売られ、アンマリーはボルネオ島の親戚のもとで働くことになってしまった。海で自由気ままに過ごしているように見える彼らも、私たちの暮らしと同じく、家族の事情によって生活が一変することもある。

ボルネオ島はフィリピンではなく、別の国だ。アンマリーは海の国境を越え外国に行ったということになる。しかし、スールー海セレベス海の付近にある国々、フィリピン、インドネシア、マレーシアなど東南アジア諸国では、何百万もの人たちが同じように海の上で暮らしているという。彼らにとっては海が“陸地”で、陸は海をへだてるもの。もしかしたら国や国境という概念はないに等しいのかもしれない。

彼らはなぜ陸で生活しないのか?このあたりは、海上の方がずっと暮らしやすいからだ。島々は住める場所が少ない上、漁を営むなら海の近くで生活するに限る。海の上は陸地と比べて涼しく、蚊やハエも少ないのでマラリアなどにもかかりにくいのだ。

水上生活を送る人びとは世界各地にいる。以前ベトナムに行ったときも、ハロン湾で水上生活をしている人びとを見たことがある。

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ベトナムハロン湾での水上生活

海に囲まれた日本にも、もちろんいた。かつては「家船」が存在していたし、港湾労働者の中には艀の一角を住まいに船で生活する者もいた。現在国勢調査の真っ最中だが、定まった住所のない水上生活者も、水面調査区として調査の対象になっている。

かつて水上生活を営んでいた人たちの生活環境とは? - [はまれぽ.com] 横浜 川崎 湘南 神奈川県の地域情報サイト

本書の最後には、

 サマの人たちの中にも、子どもを学校に入れなければならないと考えている人もいます。学校で読み書きなどをおぼえることで、子どもたちに新しい世界がひらけるかもしれません。しかし、子どもが親もとをはなれて学校に通うようになれば、親から子へとつたえてきた海のくらしはなくなっていきます。

 風や波と一体になって魚を追うサマの人たちの自由な生きかたが、これからもつづいていくことを私はねがっています。

という作者の願いが書かれている。

しかしながら現在、残念なことにサマ(バジャウ)の人たちの伝統は失われつつあるようだ。

彼らは国境を越え漁に出るが、ときに国境線を管理する国との間で摩擦が起こることもある。「領海侵犯」「違法操業」として問題になることもあるのだ*1

活動領域が各国の国境地帯にあるために、紛争防止や海域資源の保護の名目で、周辺国のなかには定住化をすすめているところもある。

生業としてきた漁業の変化も大きな要因だ。大規模漁業の増加で自給自足のための漁が困難になったり、都市開発で近海が汚染され漁を離れざるを得ない人たちも出ている。

【驚愕】松田大夢がセブ島で一緒に生活してる『リアル半魚人バジャウ族』って何!? セブ島のバジャウ族のその実態とは - 🌍松田大夢のクソバカ地球滞在記🌍

ライフスタイルの変化は、「差別」という問題にも直面することになってしまった。

 「バジャウ!バジャウ!」、バカにされるフィリピンのバジャウ族は物ごいするしかないのか? - ganas 開発メディア

彼らは決して貧しい暮らしを送ってきたわけではない。見方によってはむしろ、豊かな生活をしてきたともいえる。しかし陸上生活者の価値観や視点のなかで生活せざるを得なくなってしまった今、サマとしての知恵も誇りも活かす場所を失ってしまった。海は彼らの生き方そのもの、海を失えば生き方も失われる他はないのだ。

この号の出版から20年あまり。アルビリン一家も家舟を下り、杭上家屋で暮らしているかもしれない。大人になったエルビンやきょうだいたちはどんな生活を送っているだろうか。

 「作者のことば」によると、作者がかつてマーシャルを訪れたとき、残念に思ったことがあるという。島の生活が近代化され、伝統的な生活習慣や技術がほとんど失われていたことだ。

島民の先祖は東南アジアから移住してきたといわれ、星や波を見て航海する航海術と冒険心をもっていました。しかし現在のマーシャルでは、そのすぐれた技術はすたれていました。数千年前には、カヌーに家族や家畜をのせて、広大な太平洋を自由に航海していたのは、まぎれもない事実なのです。(本号「作者のことば」より)

人類はいかにして島に渡ったか | 東京大学

帰国後、マーシャルの人々がうしなってしまった航海術のルーツをもとめ、東南アジアの海辺の村や島々を歩きまわったという。 初めて会ったフローレス島のバジャウの人たちには「オーストラリアでもパラオでも行きたきゃつれてくよ」なんてサクッと言われたものの、そこまでざっと2000キロ。作者をして「数人のりの小舟で遠くまで行く勇気と航海術。アジアには今も太平洋開拓の原点が生きていました」と言わしめるのだ。

アラスカで一番高い山 デナリに登る(第421号)』の石川直樹は、『CORONA』のなかで、マウ・ピアイルグというミクロネシアの航海者について語っている。『CORONA』の旅は彼との出会いから始まったという。

 マウは優れた航海者だった。ミクロネシアのサタワル島という小さな島で生まれた彼は、海図もコンパスも使わず、星を見ながら自分の行くべき方向と現在地を把握する伝統航海術の使い手だった。(『CORONA』より)

ヨーロッパの約3倍もの面積になるポリネシアン・トライアングルには、8000を超える大小の島々にさまざまな国や地域が点在しているが、言語や伝統文化に驚くほど共通点がある。ル・クレジオが「見えない大陸」と呼んだ、そのポリネシアン・トライアングルの文化圏は、フロンティア目指して旅立っていった冒険者たちの軌跡と奇跡が生み出したのではないかというのだ。その遠洋航海のなかで、マウのような伝統的航海術も身につけられ、受け継がれてきた。彼らにとって海は島々をへだてるものではなく、むしろつなぐものだった。石川直樹は「小さな島々が、強大な大陸に勝る有機的なネットワークをもちうることを、ポリネシア人たちは自ら証明していると言えるだろう」と書いている。『ポリネシア大陸(第422号)』ともつながる話だ。

極夜の探検(第419号)』で角幡唯介は、真っ暗な真冬の北極にGPSなしの探検に出かけているが、これも石川直樹のいう「多様な自然情報を生きた知恵に換えていく身体技法の一つであり、遠い宇宙を自らの身体に取り込む洗練された技」を体感する試みだったといえよう。地図とコンパスこそ使うけれども、天体の目測を中心としたナビゲーション*2は、伝統的航海術に通じるものがある。

その角幡唯介も『漂流』で、海に出ざるを得ない人びと、航海が身にしみついている人たちの話を書いている。一人のマグロ漁師の“漂流事件”をとおして、彼の出身地である伊良部島・佐良浜の「海洋民族」としてのルーツを探り出してゆくのだ。佐良浜の人びとは池間島とつながりがある人が多いが、その“池間民族*3”を海洋民としてそだてたのは周囲に広がるサンゴ礁環境だったという。サマが暮らす海と似たような環境だ。

海洋民を私なりの言葉で表現すると、海によって生活の糧を得る一方で、海により精神性や死生観、世界観が形成され、海という境界のない広大な領域を、壁を感じることなく自由に行き来できる人々、ということになろうか。(『漂流』より)

池間島、佐良浜の漁民は、素潜り網漁にも長けており、大正時代の記録では36メートルもの深さに潜ったと報告されている。戦前から始まる佐良浜の南方カツオ漁でも、素潜りの技が遺憾なく発揮され(素潜り網漁でカツオの餌を自給できるため)、20メートルも潜ってしまう男たちが少なくなかったという。サマの人びとも同じく驚異の潜水能力を誇っている。

漂海民バジャウ、驚異の潜水能力を「進化」で獲得 | ナショナルジオグラフィック日本版サイト

南方カツオ漁の漁場は、西はボルネオ島から東はミクロネシアポナペ島に至る広大なものだったようだ。佐良浜が南方漁にはじめて出港した時、船長である“上里シンドゥ”がいかに航海術に秀でていたかのエピソードが残っているという。すなわち島も岬もみえない完全な大海原のどまんなかで完璧に船の位置を特定できたというものだ。 

『舟がぼくの家』の作者は“風や波と一体になって魚を追うサマの人たちの自由な生きかた”と書いたが、角幡唯介は佐良浜の人びとを“不条理な海という自然にしばりつけられて生きてきた土地と人々の生き様”と表現している。

北海道出身の角幡唯介は、その土地柄か「自分の人生が土地に搦めとられているという感覚にとぼしかった」と書く。だからこそ探検や登山という外部世界に実存的な経験を求めるようになったのではないかと。

転勤族の私たちも「土地から遊離して生きざるをえない」生活を送っている。一見、海を自由に漂流しているようにみえるサマの人びと、佐良浜の人びとは、逆に海という“土地”にしっかり根付いて暮らしているといえるのかもしれない。陸地で生活しているけれど、各地を転々としその場限りで生きてきた私たちの方が、実は“漂流者”なのかもしれない。