夕食は、ゆでたジャガイモ、ニンジンと白米。そしてスープは、きょう、おばあちゃんがさばいてくれた、牛肉のこま切れとパスタのはいった、自家製チーズをのせた野菜スープだった。なんだか肌寒いなと思って、柱の温度計を見ると、氷点下3度。
「ジャガイモはアンデスが原産だからおいしいだろ?」
アルビーノが、もっと食べろとすすめる。アンデス高地で作られるジャガイモは200種類もあり、それぞれに料理法があるのだと、アルビーノが教えてくれた。(『プーヤ・ライモンディ 100年にいちど咲く花(第245号)』より)
じゃがいもの原産地は南米アンデス。なかでもティティカカ湖周辺が「じゃがいものふるさと」だといわれている。ティティカカ湖畔は標高3000〜4000メートルの高地。富士山頂と同じくらいに高いところだ。気温が低く、木もほとんど生えないようなところ。そんなきびしい環境でじゃがいもは生まれ育ってきた。
だから産地のほとんどは、気温が低く涼しい場所にある。日本でいえば北海道。このところ高値が続いていたジャガイモも、北海道産が出回るようになって値段が落ち着いてきた。アジアではヒマラヤ地方。やはり標高4000メートルくらいのところで作られている。アフリカといえば暑いイメージだが、ここでもじゃがいもは栽培されている。エチオピア高原、標高2000メートル越え、やはり気温の低い場所だ。
じゃがいも料理といえばドイツが筆頭格だろう。かのエーベルバッハ少佐も“イモ・クラウス”とあだ名されるくらいイモ好きだった(フィクションを例に出すか?)。お隣のスイスも負けてない。 現地のチーズフォンデュときたら、チーズ!じゃがいも!パン!以上!だ。日本でイメージするオシャレ⭐︎フォンデュとはまるで違う料理だ。チーズにはたっぷりの白ワイン。酒に弱い夫を宿まで連れ帰るのが大変だったことを覚えている。ドイツ始めイギリス、アイルランド、オランダなどの産地も、北海道より北に位置し気温の低い国々だ。
厳しい環境で生まれ育ったじゃがいもは、同じような環境に住む人びとの、重要な食料として広まっていったのだ。
なぜ、アンデスが「じゃがいものふるさと」だといえるのか?野生のじゃがいもがあちこちに生えているからだ。野生のじゃがいもが見られるのはほとんどアンデスのみ。道ばたやお墓などに生えていて、雑草扱いの草だという。イモはちっちゃい上に毒があって苦く、そのままでは食べられないそうだ。
アンデスの人たちも、もともとはこの野生イモを食べていた。長い付き合いのなかで、食べやすいように改良しいろいろな品種を生み出してきたのだ。世界じゅうに伝わったじゃがいもは、試行錯誤の結晶だ。
現在でもアンデスでは数千種類のじゃがいもが栽培され、イモの色も大きさも、さまざまです。日本では見たこともない面白い形やおいしい味のするじゃがいもがあります。
16〜17ページの写真は、じゃがいもオールスターズといった様相。これでもほんの一部の種類にしか過ぎないのだろう。『プーヤ・ライモンディ 100年にいちど咲く花』でも、アンの家にあるじゃがいもはざっと10種類くらいはあるように見えた。
日本のスーパーでも、かつては男爵とメークインくらいしか見あたらなかったものだが、キタアカリやインカのめざめなど、さまざまな品種が並ぶようになってきた。直売所などで、レッドムーンなど変わった色合いの商品を見かけたこともある。『銀の匙 Silver Spoon』では「最強のジャーマンピザ」を作るべく、3種のじゃがいもで食べ比べを行っていたものだが、私は食べ比べどころか種類に適した料理法など考えたこともないのが悲しいところだ。その時手に入る最安のいもで、カレーだろうが肉じゃがだろうが作ってしまっている。
アンデスの人たちにとってじゃがいもは、ただの野菜ではない。主食そのものだ。おかずの材料にしかすぎない私たちとは違うのだ。「アンデスの人びとにとって、じゃがいもは日本人のごはんのようなもの」。お米にさまざまな品種があって好みがあるように、アンデスの人たちにも好みのイモがあるのかもしれない。
じゃがいもはお米と同じく穫れる時期が決まっている。しかし、お米と違ってそのまま保存できるわけではない。アンデスではチューニョという乾燥じゃがいもに加工して保存されている。“チューニョの入っていないスープは、愛のない人生のようなもの”という言葉があるくらい、愛されているものだ。日本でも同様のものを作っているところがあり、本号にも十和田市で「凍み芋」を仕込んでいる様子が紹介されている。
最後はインカ帝国についても触れられている。驚異的な高地での、都市の繁栄を支えていたのもじゃがいもという作物なのだ。インカ時代に作られた壺のなかには、じゃがいもを象ったものがたくさんあるのだ。これがじゃがいも……?とも思えるが、確かにゴツゴツした丸型で、イモの窪みのような模様が散りばめられている。
わたしの家の前には田んぼが広がっていて、秋、黄金色に染まりつつある。春は代掻きの焦げ茶、田植えの緑。収穫後しばらくすれば一面の雪景色に変わることだろう。同じようにじゃがいも畑も変化がある。ポツポツ穴が空いた植付け風景から、赤紫と緑に彩られたお花畑、収穫の茶色まで。折々の変化が美しい。隙間なくイモが並べられた、チューニョづくりの風景も圧巻だ。私が田んぼの色で四季の移り変わりを知るように、アンデスの人びともじゃがいも畑を見て時季を実感するのかもしれない。
じゃがいもの栽培はふつう種芋でおこなわれる。アンデスでも種芋を植え付けて作られている。種から育てるものではないのだ。花は咲けど実を見かけることはほとんどない。しかし、野生のものは、花のあとちゃんと果実が生り種もできる。もちろん、栽培種でも品種や条件によっては実が生るものがあるようだ。しかし、種を採るわけではないじゃがいもに、花や実は本来不要なもののはずだ。
板倉先生*1が書いた『ジャガイモの花と実』は、この「ジャガイモの花は何のために咲くのだろう?」という疑問を出発点とする本だ。じゃがいもの花が実を結ぶことはほとんどないのに、なぜ咲くのか。
あとがきで、
私は旧制高等学校の学生時代に、自然科学の啓蒙と教育の仕事を一生の仕事とすることを思い立って、自然科学の歴史の研究を始めた人間です。(『ジャガイモの花と実』仮説社版あとがきより)
と書かれるとおり、『ジャガイモの花と実』は子供たちに向けた板倉先生の“自由研究”といった態の本だ。
ご自身がジャガイモを育てていた時の「なんて自然は正直なんだろう」と感じた思い。バーバンクがダーウィンの本*2に刺激されジャガイモの新品種に挑んだ物語。ロシアやアメリカなどの国々がなぜアンデスまで野生じゃがいも探検に出かけたのか……などを通して「じゃがいもの花と実」が決して無駄なものではないことが解き明かされている。じゃがいもの花が、食料としてのじゃがいもの普及に一役買ったお話も面白い。有名人使って宣伝し流行を作ったり、逆に栽培を禁止して所有欲をあおったり。今も昔もひとの心理というのは変わらないものだ。パルマンティエも科学のすばらしさをよくわかっていた一人だったのだろう。
板倉先生が初めてじゃがいもを作ったのは中学生の頃。戦後で食べるものがなく町の人たちと一緒に上野公園を畑にしてイモを植えていたそうだ。『じゃがいものふるさと』の「作者のことば」でも、山本先生が幼稚園のころ、やはり自宅裏庭でじゃがいもが育てられおやつに出されていたエピソードが書かれている。アンデスの雑草に過ぎなかったじゃがいもは、戦後日本の食糧難を救った立役者でもあるのだ。
- 作者:板倉 聖宣
- 発売日: 2009/08/10
- メディア: 単行本
もとは福音館の科学シリーズとして、1968年に出版されたものだ。
- 作者:板倉 聖宣
- 発売日: 1968/07/01
- メディア: 単行本
*1:『わたしたちのカメムシずかん やっかいものが宝ものになった話(第380号)』参照
*2:『人間のそだてている動植物の変化(The Variation of Animals and Plants Under Domestication)』