こどもと読むたくさんのふしぎ

福音館書店の月刊誌「たくさんのふしぎ」を読んだ記録です。

ノントン・ワヤン!(第286号)

タイトルの意味は「ワヤンを見に行こう!」

ワヤンとは、インドネシアはジャワ島やバリ島で行われる影絵芝居のこと。

ただの影絵と侮るなかれ。1000年以上の歴史を持つ伝統芸能なのだ。

この絵本の主人公はビルン、小学4年生の女の子。ジョグジャカルタの町はずれに住んでいる。姉のワティと一緒にワヤンを見に行くところだ。

にぎやかに立ち並ぶ夜店を冷やかしながら会場に向かえば、ワヤンへの期待はいやが上にも高まってくる。ガムランの奏でる前奏曲がビルンの胸を掻き立てる。

今夜の演目は『森の小鹿カンチルの冒険』のお話だ。

主人公カンチルはマメジカ。お話はとんちの効いたものが多い。『おはなしのろうそく 8』には「まめじかカンチルが穴に落ちる話」、福音館からも『まめじかカンチルの冒険』として4つのお話が紹介されている。「インドネシアでは、トラやワニなどの大きな動物を、知恵と勇気でやりこめる昔話の主人公として、とても人気があります」ということだ。

ワヤンを掌るのは「ダラン」。

ダランとはお話のナレーションから人形の操作、音楽の指示にいたるまで、すべてをとりしきる演者です。ダランひとりですべての人形をあやつり、物語を語ります。

『カンチル』は2時間半ほどの短いワヤンとはいえ、一人でほぼすべてを取り仕切るのは大変なことだろう。

 

ビルンとワティのお母さんは野菜市場で働いており、姉ワティが手伝いに行くこともある。お父さんはトラックドライバーだったが、3年以上前に家を出て以来行方不明なのだ。おじいさんは、ワヤン人形を作る職人で、小さなワヤン工房を営んでいる。ワヤン好きのビルンは学校のない時間帯、工房のお手伝いをしている。妙にリアリティのある設定なので、モデルとなったご家族がいらしているのかもしれない。

ビルンのおじいさん曰く、

「ワヤンの影、あれはね、私たちを守ってくれるご先祖さまをあらわしているんだよ」

「いっぱいの物語があるけれど、わしはこの世の生きにくさに立ち向かう英雄の物語が好きだな。大男のビモとかね」

ワヤンが上演されるのは、結婚式や誕生日などお祝いの場。お祝いの場をご先祖さまに守ってもらうという意味合いもあるのだ。

おじいさんからの勧めでビルンが見に行くことになるのは、その大男ビモの物語。『デヴォ・ルチ』だ。ワヤンの演目は、インドの古代叙事詩マハーバーラタ』『ラーマーヤナ』から取られたものが多い。『デヴォ・ルチ』はそのマハーバーラタから派生したお話だ。

パンダワ第二王子のビモは、武芸の師匠ドゥルノに言いつけられ、山奥にある“いのちの水”を探しに行くことになる。“いのちの水”は飲めば永遠のいのちを手に入れられるという水。しかしそこで待っていたのは、恐るべき二人の怪物たち。ビモは死闘の末彼らを斃すが……というお話。

ビモは“いのちの水”を手に入れることができるのか?師匠ドゥルノの陰謀とは?家族の制止を振り切って危険な大海に向かうビモに待ち受ける運命は?ドラマティックでありながらも、精神性の高いお話になっている。

この絵本では、先の『カンチル』も『デヴォ・ルチ』もその様子は、ワヤン人形の影絵写真と、絵の具による効果線の色づけで表現されている。本来なら動きのあるワヤンの一場面を、写真という静止画でどう展開するのか、工夫が要る作業だったに違いない。

しかし限られた紙面で伝えられるのは、その魅力の一端のみ。そこを補うのが、ビルンの気持ちや観客の様子の描写だ。

 しんと静まりかえって息をのむ観客たち。満員のお客は今日はひとりも居眠りをしていません。緑色の空気がそよぐ夜空に、ガムランの音はやわらかく、ダランの語る声だけが、するどく人びとの胸にしみいるのです。とっくに真夜中はすぎ、月が今や遠い山のむこうに落ちようとしています。

 

インドネシアではワヤンに因んだ名前がさまざまなところで見られるようだ。

「町にでれば、お店やホテルの名前にも、ワヤンの名前がたくさん見つかるね」

「ビルンだって、ワヤンだって、ワヤンにでてくる名前なのよね」

ユドヨノ大統領だって、スカルノ元大統領だってそうだよ」

現在はジョコ・ウィドドがその地位に就いているが、本号発行当時はユドヨノが大統領だった。スカルノは日本ではデヴィ夫人を妻にしたことでも知られる大統領だ。ワヤンの英雄カルナからその名を取っているらしい。

 

最後は4ページにわたって、ワヤンに登場するさまざまな人形が紹介されている。

先に言ったとおりワヤンは影絵芝居。影しか見えないから簡素なものと思いきや、人形には鮮やかな色彩が施されているのだ。もともとワヤンは、絵巻を繰り広げては物語を語っていく芝居だったからだ。絵本ではこれまで影絵しか見えてこなかったので、素の人形がこんなにも壮麗なものとは思いもしなかった。水牛の皮でできているとは思えないくらい艶やかだ。

ですからジャワでは現在も、人形が見えてダランが座っている側が正面で、影の見える側は裏側なのです。

あのビモの人形もある。怪力で鳴らすビモらしく、隣に並ぶほかの兄弟の中でも抜きん出て偉丈夫だ。

付録の一枚絵にもビモが登場。ビモと「グヌンガン」の“実体”と影絵がそれぞれ並べられて紹介されている。グヌンガンは“山のようなもの”という意味。中心に“生命の樹”が描かれていて、世界や宇宙のシンボルを表す。開演の合図として用いられるという。

“実体”の華麗さはさておき、当然のことながら、影絵の繊細な美しさも見事なもの。影はシンプルな濃淡でできているので、却ってごまかしが効かないのだろう。表がこうなっているのに影がああなるとは、驚きである。

 

作者松本亮氏は、ワヤンに魅せられ、日本での翻訳上演や創作上演、ジャワからの招聘上演に力を尽くした人。インドネシアでワヤンを鑑賞すること多数、自らもダヤンとして操演する傍らで、ワヤン人形のコレクター(という生半可な言葉では言い表せないが)でもあった。東京家政大学には、氏の集めたワヤン関連の資料が寄贈され、一部は常設展示されているようだ。

インドネシアのワヤン|東京家政大学

芸能の古層を紐解く 松本亮さん 40年の研究成果 「ジャワ舞踊 バリ舞踊の花をたずねて」 ワヤンや踊り、源泉に文学 | じゃかるた新聞

日本ワヤン協会

「作者のことば」では、

本の絵や写真を見るだけでは、ワヤンはいい加減なことしかわからないのです。

とおっしゃっている。

それでもワヤンのことをもっと知りたいと思い『ワヤンを楽しむ』を手に取ってみた。

これまたすごい。すごく濃い。なんせ初っ端からこうだ。

ジャワのワヤン上演は影の側からも影でない側からも見ることができ、どちらからのほうがいいのかわからない。人にきくと、たぶんどちらからでもどうぞ、あちこちすればどうでしょう、といわれるだろう。いつ終るともしれぬガムランの調べが心をゆすり、影に舞うワヤン人形は幻想的で、影でない側にみえる水牛の革のワヤンの透かし彫りは工芸の粋をつくし、いずれもみごとだ。だが私たちは同時にその両側を見るわけにはゆかぬ。裏と表は死者と生者の世界のありように似ている。(『ワヤンを楽しむ』2ページより)

『ノントン・ワヤン!』は子供向けの本なので、その本領は垣間見えるだけだったが、この本ではワヤンの本番である夜に、ワヤンがかける魔法の場に、一気に引きずり込まれる。

先に『デヴォ・ルチ』上演の様子を紹介したが、こうしたフルバージョンのワヤンは夜8時半ごろから前奏曲が始まり、9時には上演が開始されるという。

祖霊たちははるかなる天から降下して、ワヤン(人形そのものの呼称でもある)となり、そこに、夜を徹し悪霊の跳梁を防いで白みゆく明け方までほぼ八時間、魔除けのドラマが展開されるのである。(同10ページより)

なんとワヤンは、夜っぴて上演されるものなのだ!道理で居眠りがどうとか書かれているわけだ。お客ばかりでなく、ガムランを演奏する人も半ば眠りながら奏でていることもあるらしい。

その間お客は、夜店で腹ごしらえしたり、飽きれば途中で帰ったりと、自由に出たり入ったり。傍らには寝袋にくるまって眠る子供たちが転がってたり。作者はワヤンのその、周囲のざわめきを感じながら浸り、舞台にだけとらわれない味わい方に、安らぎを感じている。

能や歌舞伎といった日本の伝統芸能もそうだが、ワヤンのお話も古代叙事詩がもとになっているので、荒唐無稽と感じられるものが多い。作者はそのありようについてこんなことを語っている。

だが別な観点からすれば、厖大な仏教経典にせよ、聖書またはギリシア神話にいたるまで、むしろ非現実的で、荒唐無稽そのものなのだ。しかもその中にこそ人類は巨大な知恵を見出してきたのである。私たちには一寸先がわからない。無限の闇だ。それどころか私たちは自分自身の肉体すらどんな構造になっているかを知らない。理科の時間で学んだ観念的な視点だけで、自分の皮膚の一枚下を想像できるだけにすぎず、だれもいま自分の内臓や脳や血行がどんな働きをしていてくれるか正確にその目で見ることはかなわない。明日の正午に私たちはどこでどんな運命に見舞われているかしれたものではないのだ。人間とはつねに浮き草のようでしかなく、しかも人間はなぜかしっかりした基盤の上に立って生きていると錯覚させられている。その荒唐無稽さこそ、あえて世の賢人たちが人類に指摘し続けてきたことであり、ワヤンもまたその歩みをあゆみつづけているのである。つじつまのあわなさを容認し、むしろその危うさを大切に見詰めつづけようとしているのだ。(同22ページより)

ワヤンは単なる娯楽ではなく、「この世の平穏を希求するための祈りの場」であると作者はいう。ひとの運命の一寸先は見えないからこそ、祝福の場をもって祖先の霊に祈りを捧げ、加護を願うのかもしれない。どんなに“先が見える”ことが増えてこようとも、人の営みにおいては不意の出来事と無縁ではいられない。無事でありますように。幸せでありますように。無事や幸せがいつまでも続くとは限らないからこその祈りなのだ。

ワヤンが夜という特別な時間に、影を主体として演じられるようになったのも、うなずける話だ。祈りの場として、霊魂たちの世界を作り上げ、現世の人間がその世界と交わるための場だからだ。名ダランは軽く五千人の観客を集めるという。一方で若手のダランは観客の罵声を浴びせられることもある。ダランにとってもワヤンは一期一会、生活や生命にかかわる修業の場なのだ。

しかし「本の絵や写真を見るだけではいい加減なことしかわからない」と喝破されたように、どんなに読んでも隔靴掻痒、もどかしい思いが募るばかりだ。ワヤンのわの字もわかった気がしない。これはやはり、体感しないと決してわからないものなのだろう。

<2022年8月1日追記>

先日ふたたび奥州市 牛の博物館を訪れたところ(一度目は『家をかざる(第409号)』参照)、展示の中にワヤンがあるではないか!

インドネシア関連で「水牛信仰の民・トラジャ」の展示も充実しているし、

【展示案内-牛と人とのかかわり The Relationship between Cattle and Human】水牛信仰の民・トラジャ 奥州市 牛の博物館 公式サイト

なによりワヤンは水牛の皮でできている!これは盲点だった。

【展示案内-牛と人とのかかわり The Relationship between Cattle and Human】牛から作られる工芸品 奥州市 牛の博物館 公式サイト

ワヤン・クリット(奥州市 牛の博物館

中央にある山型のワヤンが「グヌンガン」だ。意外と小さいものなんだなあという印象。右上はアルジュナかなあ?と思うが、他のものも含め同定は難しい。見る人が見れば一発でわかるのだろうが。