こどもと読むたくさんのふしぎ

福音館書店の月刊誌「たくさんのふしぎ」を読んだ記録です。

津津浦浦(第456号)

 ぼくは大の鉄道ずきだ。あちらこちらの路線の、いろいろな列車に乗るのがすきだ。列車の写真をとるのもすきだ。

野坂さん、のっけから乗り鉄撮り鉄宣言ですか……。

次のページは、

ぼくがこれまでに乗った鉄道路線をごらんいただこう。

ですよ?

「ぼくが愛用している時刻表の中のさくいん地図」に緑色の線を引いたものがずらり。ちなみに「ぼくが愛用している時刻表」は「JTB時刻表」である。

なにも自慢したいわけじゃなく、こうして乗ってるうちに気づいたのが、駅名が「◯◯津」とか「◯◯浦」ってなってるものが多いということ。津々浦々ってことばもあるけど、これは全国いたるところ、全国のすみずみという意味で使われる。じゃあ津とか浦とかってなに?

そこでまずは図書館に出向いて、津とか浦とかの意味を調べに行く。

今はネット一発で調べられるはずだけど、この辺が野坂さんらしい。

津とか浦とかの意味がわかったところで、どうやら「港」っぽいイメージが浮かんできた。じゃあ実際どんな場所か確かめに行こう!ということで、最初に向かうのが肥薩おれんじ鉄道。この路線の八代ー出水間には「◯◯津」駅が1つ「◯◯浦」駅が4つある。

またもや「ぼくが愛用している時刻表の中のさくいん地図」が登場。該当駅にマーカーがしてあるが、駅名が小さすぎてちょっと見づらい感じ。この辺の手作り感が面白い。

 まずめざすのは、出水に近い米ノ津駅だ。列車をおり、いつもかならずもち歩いている2万5千分の1の地形図と、景色とを見くらべながら駅前を進むと、じきに、米ノ津川が海にそそぎこむ広々とした場所に出た。

いつもかならずもち歩いている2万5千分の1の地形図

ちょっと古い山ヤなら、昔は2万5千分の1の地理院地図を買ってルートや時間を記入しながら登ってたものだ。まち歩きにも使えるとは!今はネットでも地理院地図を見られるけど、本誌に掲載されている地図は紙ベースのものだろう。

地理院地図 / GSI Maps|国土地理院

もう一つ訪ねたのは海浦駅。二つの駅とその周辺を歩くことで、やっぱり「港」に関わる場所であることを確認するのだ。

家にもどった作者は「ぼくが愛用している時刻表の中のさくいん地図」を使って、津や浦がつく駅名に印をつけていく。数えてみると……いくつあったかは本書で確認してみてほしい。

「ぼくが愛用している時刻表の中のさくいん地図」は路線や駅名を優先して作られているので、実際の地形と比べ縮尺や距離感がだいぶ歪んでいる。

そこで登場するのが地図帳の日本地図。『楽しく学ぶ 小学生の地図帳(2011年版)』だ。小学生がいる家庭なら一冊はあるはず。地方ごとに分かれているページをコピーして貼ってつなげて一枚の大きな日本地図を作る。同じように津や浦がつく駅名に印をつけていく。

そしてなんだか、その点をつなげてみたくなったので、線をひいてむすんでみた。

出来上がった線は、日本列島の星座のよう。こちらも手作り感でいっぱいだ。

 

分水嶺さがし(第377号)』もそうだったが、野坂さんの手法は極めてシンプルだ。足で歩く。人の話を聞く。駅前の観光案内所でたずねたり、車で通りかかった人に話しかけてみたり。

なかでも印象的なのは図書館を使い倒していること。地元の図書館で聞く。資料を頼んで送ってもらう。近年、図書館や司書の不要論が取り沙汰されるなかで、図書館のレファレンスサービスがいかに「知」を支えているのか、それを実感できる本でもある。

 

 ぼくは自分でつくった駅名地図をのぞきこんで、次に目指すところを決めた。それは福島県会津鉄道会津線の駅、会津荒海だ。

会津荒海の「謎」!どんなことがわかるんだろう……と思いきや、その物語が描かれることはない。えーもっと知りたいのに。

 日本の津津浦浦には、それぞれにいろいろな歴史があって、いくつもの物語があるから、君のすむ近くにも、きっと小さな物語がかくされているはずだ。

 そう考えれば、興味津々!さあ、じっとしていないで出かけてみよう!

知りたければ自分で調べたらいいんだよ。野坂さんのそんな声が聞こえるようだ。

何かを調べるって面白い。ふしぎだな?と思ったことを、調べに行って確かめてまた新たな発見があって……君たちもやってみない?私は会津荒海の物語を調べに行く。君たちも自分の地元のこと調べてみようよ。

この絵本は「津津浦浦」の話を披露するものではないのだ。「たくさんのふしぎ」は、知識を得るためだけの本ではない。

板倉先生(『わたしたちのカメムシずかん やっかいものが宝ものになった話(第380号)』参照)は、『科学の本の読み方 すすめ方』でこんなことをおっしゃっている。

科学の本というものは、何かの知識を身につけるためだけに読むものではありません。むしろ、子どものときには、〈科学の一つ一つの知識〉よりも、〈科学の考え方のすばらしさ〉を教えてくれるような、そういう読物の方がずっと大切なのです。(『科学の本の読み方 すすめ方』14ページより)

知識を身につけるためだけなら他にいくらでもある。ものの見方、調べ方、考え方……もっと言えば「生き方」のすばらしさを見せてくれるような本。すぐ役立ったり効果があるものではないけど、読む子供たちの血となり肉となって支えてくれるに違いない。意識して作れるようなものでないのが難しいところだけど。

私も「◯◯浦」駅について調べてみた。

ときどきマガンの観察に行く田んぼの最寄駅だ。内陸なのに「浦」地名なのが気になっていたのだ。海からはおよそ30キロくらいの場所に位置している。

その名も北浦駅地理院地図 / GSI Maps|国土地理院)。

まずはこの辺の地名である「北浦」について調べてみた。古くは北浦村だった場所で、小牛田町を経て今は美里町 (宮城県) という自治体に属している。

結論からいうと諸説あって確かな由来は不明だった。この辺がかつて海だったことは間違いないが、だから海に関係してるよという説もあれば、いやいやそれはこじつけに過ぎないよという説もあった。

 

小牛田町史 上巻』によると、

 北浦村はその「浦」の文字から、古く海岸線が彫堂の新山前囲にまで食いこんでいたことと結びつけ、北の浦すなわち北浦村と想定されかねないが、村名の発祥としては附会に過ぎよう。

と書かれており、町史では海は関係ないんじゃね?説がとられている。当時の地形、江合川の分派の様子などが由来になっているのではないかということだ。

地名や村名の由来については、その多くは起縁がたしかでなく、全く伝説・俗説としか言いようのないものもある。しかし地名というものは、人が住むとともに、そこが、労働や生産、そして生活にかかわるのでなければ生まれない。

という記述も見られるのが面白いところだ。

  • 海は関係あるはずだ説(『大崎地名考』)

一方で『大崎地名考 みちのくみやぎの身近な地名を探る』は、海と関わりがあるはずだという。作者は「宮城県地名研究会」で、長年地元の地名を研究している方だ。

すなわち大崎地方の平野部には「ウラ」地名が多い。明治の頃の地名を数えると、古川では70を超え、田尻、小牛田、中新田がそれに続くという。平野の地域が中心で山の手にはほとんど見られない。これは海との関係で考えないと説明がつかないというのだ。

小牛田町史』にもあるように、北浦含め大崎平野の大部分がかつて海におおわれていたのは確かなところだ。『遠田郡史』にも「附設 遠田郡は悉く海なりし説」という文章があり、次のように書かれている。

中埣、北浦涌谷、南郷皆海なりし、田尻邉も海底なりしは、本年(明治三十三年)の夏田尻小學校の掘抜井戸を掘りし時、地下一六七間の所よりカキの介殻を堀出せし事を以て證すべく、且つ本郡到る處地下十五間乃至二十五六間の所より掘り出す所の細砂を見れば、誰人も其海砂なる事を疑はざる可し。即ち今日の平地は皆海なりしなり。想ふに當時本郡に住居せし「コルボックル」人或は涌谷の港、北浦の濱、蕪栗半島、四軒屋敷の岬等の如き之れに類せざる名稱を附せしやも測られず、加之ならず、今日の地名より考ふるも海に因緣あるもの少なからず、その一二を擧ぐれば、小里の鈴懸の邉を長根といふ。長根とは一帯の地長く海中に突出せるもの。鹿飼沼の邉に四島(大貫村下長根區)あり、二鄕に大島小島あり。繼の澤、岸ヶ森網場神社等の名稱何れも後人の附せしものなるべきも、又海に緣ある名稱ならずや。而して本郡の大部分が海なりしは、地質學者の推考に據れば凡そ二千年前にして、其後次第に陸地になりしものとす。(『遠田郡史』29〜30ページより)

「長根」については『大崎地名考』に同じように、

因みに涌谷町の長根(ナガネ)には、国の指定史跡の貝塚があるが、七千年前ころの縄文時代に属する貝は海産のもので、二千年前ころの弥生期の貝は淡水産である。(『大崎地名考』10ページより)

との説明がある。

『大崎地名考』の作者は「北浦」を「見渡すかぎりの平坦地で、大崎平野が海だった縄文時代には、まさに「浦」だったことだろう」と見ており、「北」は松山町の丘陵から見た方角だからとしている。

  • 海いうより「水」に関連?説

他方『宮城県地名考―地方誌の基礎研究』では、「浦」について次のように解釈している。

浦の本来の意味は海や湖の湾曲して陸地に入り込んだ所を指している語であるが、この意を転じて打ち開けた田園を浦とか沖などの語で表現している場合が少くない。(『宮城県地名考』523ページより)

すなわち「北浦」は「北方に展開している田園」と解されるというのだ。北浦の地名の由来は明らかではないとしつつも、大崎市古川の石森方面の丘陵地帯から、北方の低地帯であるこの地を眺めて呼んだ地名ではないかと推測している。「浦」を海由来とはせず、『大崎地名考』とはちょっとズレた場所からの「北」を取っているのが興味深い。

しかし『地名 27』を読むと、この辺りの「浦」地名について、海とはいえないものの「水」関連とした方が自然ではないか、とも書かれていた。こちらは「宮城県地名研究会」の研究誌だ。

宮城県貝塚分布」と「古川周辺の浦地名分布図」を比べた上で、やはり海由来というにはちょっと無理があるのではないかと。そこで海ではなく「川」と読み替えられないか、というのだ。『新漢和辞典』(大修館書店)の「浦」の項には、<1、川や湖などのほとりの地、岸、水辺。2、支流が本流に、川が海に注ぐ所>とあるという。浦地名は沖積地に集中している。海にしろ川にしろ「水」であることは変わりない。山地から流れてくる川が湖沼を作り、それが浦地名の元となった。流れてくる土砂はやがて盆地や湖沼を埋め尽くし、浦地名の残る沖積地を作り上げたというのだ。

地元のローカル新聞『大崎タイムス』の連載「地名から知るふる里」には、そのあたりのことがうまくまとめられて書かれている。二又という北浦にある地名を取り上げた項だ。やはり「宮城県地名研究会」の方による寄稿だ。

 その江合川が運んで来た流砂や土砂が堆積し、しだいに人が住めるような土地になった。今も付近の字名には、谷地浦・船窪・三枚筒・横堀・新高橋・二又下などの水に関わる地名が並び、なんといっても大字の北浦は、大きな水辺であったことを示す地名である。これは江合川と共に沼地や低湿地が広がっていたことを伝えている。

しかし「浦」地名には、ちょっと疑問もある。『美里町 202110 (ゼンリン住宅地図) 』の町名索引で調べると北浦地域の中にもさらに「浦」地名があって、

「大曲浦」「川戸浦」「神明浦」「蓮沼浦」「米谷浦」

の五か所があるが「川戸浦」以外は、浦抜き地名も存在している。「大曲浦」なら「大曲」、「神明浦」なら「神明」という具合だ。この場合の「浦」は必ずしも水由来とは限らないのかもしれない。浦は「裏」を意味することもあるというので、そちらも考えられる。浦地名4か所全部が元地名より北に存在するのは偶然だろうか?

 

ところで『津津浦浦』の「作者のことば」には、こんなことが書かれている。

 私たちの国は海に囲まれた山国であり、雨の多い川の国でもある。こうした国は数少ない。今、時代の大きな曲がり角にあって、船運と鉄道のコラボレーションをもう一度考えてみてはどうだろうか。決して懐かしさからだけで言っているのではない。

「北浦」もまさに、船運と鉄道に関わる土地なのだ。

江合川に面し南方には鳴瀬川も流れる北浦は、舟運の要衝でもあった。

遠田郡史』には、北浦にある「二又渡船場」は対岸の富永村田尻町とを通ずる要路に当たっており「今尚之れが利用頗る盛なり」とある。ちなみに『小牛田町史』によると、この「二又」は、藩政期には独自に肝入が置かれ村に準じた取り扱いをされていたという

また、鉄道敷設以前、米穀などの大量輸送を担っていたのが船運だった。二又にはやはり荷積卸場(船着場)があり「三軒茶屋」と呼ばれるちょっとした宿場まで形成していたようだ。

鉄道の開通により舟運は衰退の一途をたどる。その後も小規模ながら利用されていたものの、河床砂礫堆積や洪水の頻発から機能を失っていった。なかでも明治43年の大水害が決定打になったと言われている。

しかし鉄道開通においても「北浦」は重要な役割を果たすことになる。その前にまずは同じ美里町内にある小牛田駅に触れなければならない。

小牛田駅のある東北本線はもともと日本鉄道が建設した路線で、小牛田駅は1890年4月16日、岩切 - 一ノ関区間の延伸開業にともなって新設された駅だ。仙北の路線は、通常奥州街道旧宿駅沿い(吉岡、古川、築館)に敷設が考えられるところ、右回して小牛田、瀬峰方面に作られることとなった。

理由はおもに次のように考えられているが、

  • 奥州街道沿いの三本木、金成付近に険しい山坂があり、工事の難が予想されたこと。
  • 観光地の松島や海運拠点である塩釜を通す便を考えたこと。
  • 古川などでは鉄道敷設に対し反対の機運が高かったこと(農作物などへの悪影響、旅館・商店が客を奪われるなどの懸念があったようだ)
  • 北浦村では、時の村長鎌田整一郎が「安産の神様山神社があるのだから、鉄道が通れば参詣客も増える」と住民の説得に当たったこと。

なにより、県下での株式募集(一株50円)に際し、北浦村の鎌田常之助が200株という大量応募者になっていること、逆に古川含む志田郡奥州街道筋に応募者が見えないことから、早くから右回り路線を予定していたのではないかとも考えられている。ちなみに鎌田常之助は1889年発足の新制北浦村初代村長をつとめている。

一方、東北線から外れてしまった古川は、どうにかして東北線とアクセスするかに腐心することとなった。「石巻鉄道」の頓挫を経て、古川と小牛田を結ぶ役割を担ったのが古川鉄道馬車だ。ここでも大きく出資しているのが北浦村の鎌田常之助。『小牛田町史』によると、最高の40株(一株50円)を保有し発起人中もっとも有力な一人であったという。

総延長10.159km、20人乗り客車を馬一頭で運行していた。停車場は、小牛田 - 山神前 - 横埣 - 中組 - 二又 - 鶴ヶ埣 - 李埣 - 古川(台町)。ほぼ現在の国道108号線沿いだ。かつて舟運を担っていた「二又」の地は、鉄道駅としても使われることになったのだ。

保有車輌は客車8輌、貨車6輌、馬16頭。事務員6人、車掌5人。一日上り9本、下り9本の18本を運行、片道1時間20分ほどの道のりだった。営業成績は年間乗客のべ80,000人あまり、貨物取扱9,600トン、純益は2,000円ほどとかなり好調だったようだ*1

なかでも前述の鎌田常之助は、藩政期以来の醤油醸造業「鎌田醤油店」を営んでいたが、なんと「横埣」停車場から自家まで私設軌条を設置。馬車鉄道に連絡して製品や米の搬送、原材料の搬入に利用していたという。鉄道への潤沢な投資からもわかるように、鎌田醤油店はずいぶんと繁盛していたようで、正月の初出荷の際などは、数輌の貨車に醤油樽を満載し、途中の家並にさしかかると大量のみかんを撒いて振る舞ったという話が伝わっている。

もとは陸羽線開業までのつなぎであった馬車鉄道は、1913年同線小牛田 - 岩出山間の開業にともない使命を終える。しかし新設された駅は古川・中新田・岩出山のみ。旧馬車鉄道内すなわち小牛田 - 古川間に駅は設けられなかった。そこで動いたのが北浦村議会。中埣村議会にもはたらきかけ、駅設置の請願運動を展開する。場所はいくつか候補地がある中で、村役場の所在地であり、馬車鉄道の停留所もあった「中組」に落ち着くことになった。

こうして1914年、早くも陸羽線開通の翌年には、北浦駅開業が果たされた。

駅設置の篤志寄付者にはもちろん、鎌田常之助の次代茂助が名を連ねている。金九百拾円という群を抜く金額を寄付しているのは、地元資産家というのみならず、駅設置の利益が極めて大きかったからだろうと推測されている。鎌田家には請願書写しの一部が残されており、同家が北浦駅設置になみなみならぬ関心と関与を示したことがうかがえるという。鎌田家の醤油についても触れられているのが面白い。

殊ニ本地方ハ味噌、醤油ノ製造業者多ク(中略)残ニ醤油ニ至リテハ、県下ハ勿論、東北ニ於テ声名アル「常磐」醤油ノ醸造高一ヶ年六千石、遠クハ神戸大阪ヨリ、福島、宮城、秋田、岩手、青森ノ五県ニ及ビ、北海道に亘リ、其輸出額一ヶ年五千石、県下重要ノ一物産タリ……(後略)(『小牛田町史 中巻』391ページより)

この「常磐」醤油は、今のトキワ印醤油につながるものだろう。鎌田商店の醤油は内国益品博覧会で一等金牌を何度も受賞するなど品質に優れ、全盛期にはほぼ全国に販路が及んでいたという。国内のみならず樺太ウラジオストク、大連、果てはハワイにまで輸出していたというから驚きである。

鎌田茂助は先代常之助と同じく北浦駅から自家までの私設軌条設置を目論んでいたが、事業が一時不振に陥ったこともあり実現しなかった。しかし北浦駅に接続した農業倉庫の建設、北浦運送会社の設立などを通して、米の集出荷経営に乗り出している。鎌田家は引き続き北浦駅の発展にも寄与することとなった。

鎌田家のある地は「起谷こうや」と呼ばれる地域だ。起谷エリアを通る陸羽東線にはその名も「鎌田踏切」が存在する。先に紹介した『大崎タイムス』の連載「地名から知るふる里」には、起谷を取り上げた項もあるが「こうや」は新田開発にともなう地名だという。県内の「こうや」地名は、江戸時代の新田開発地に多く見られる。高野・高谷・荒谷・耕野・高屋などさまざま表記されるが、要は開墾後検地がおこなわれ取高がしっかり決まるまで無税地だったことを伝えているというのだ。筆者の太宰氏は当地における鎌田家の尽力についてこう評している。

 開墾を始めたばかりの頃は、ただひたすら土地を耕し、無事に米が収穫できることを願う暮らしがあったのかもしれない。お訊ねすると、稲作の技術者を秋田の方から招聘し、その指導に当たらせていたという。そうした努力や深慮そして指導力や技術があったればこそ、現在の起谷に江戸時代から続く鎌田家が存続しているのであろう*2

現在の北浦駅。のどかな田園地帯が広がっている。


古川鉄道馬車について調べるなかで、印象に残ったものが二つある。

一つは『赤い鉄道馬車(古川の昔いろいろ)』という本。

地元古川の方が描かれた絵本で、自家出版として出されたものだ。

著者の紺野さんは、絵の上手だった叔父が「古川の昔の事を絵に画いておけばよかった」と言っていたのをずっと心に留めていたそうだ。ある時ふと絵筆を取ってみたのがきっかけとなり、以来昔の記憶をたどりながら描き続けてきた。その作品をまとめたのがこの絵本だ。

紺野さんは子供の頃、お母さんと鉄道馬車に乗ってよく小牛田町まで出かけていたという。その懐かしい思い出から『赤い鉄道馬車』と名付けたそうだ。

赤い鉄道馬車!

馬車鉄道の資料として残る中には写真もあるが、当然のことながらモノクロ写真なのだ。自治体の史書などに載るのは沿革や数字などが中心、客車が何色だったかまでは記録されていない。モノクロ写真時代のものは、どんな色がついていたか知られることはないのだ。記憶に残っている人がこうして色絵に起こさない限り。

表紙題字

1ページ目、いの一番に描かれている

思い出として描き起こされた絵を見ていると、当時の人々が生き生きと立ち上がってくる。馬車鉄道は、暮らしの中に確かに息づいていたのだ。

よくぞ描いて残してくださった、と思わざるを得ない。

しかもご本人が地元図書館に寄贈してくださったおかげで、こうして「必要な人」の元に届けられることにもなったのだ。

ちなみに文に見える「永沢才吉さん」は“古川の水道の父”とも呼べる人だ。東北本線の古川通過にも賛成していたとは、さすが先見の明がある。

https://www.pref.miyagi.jp/documents/1290/669059.pdf

 

もう一つは『鉄道ファン』の記事。「70余年ぶりによみがえった古川馬車鉄道」だ。

「70余年ぶりによみがえった古川馬車鉄道」とは、古川台町に設けられていた「チバミンウッディパーク」のモニュメントのこと。古川台町はかつて馬車鉄道の起点があった場所だ。この地で材木業を営んでいた「株式会社チバミン」が、歩道に面する自宅敷地内に、馬鉄の由来板と時計塔を設置しちょっとした憩いの場を作っていたという。

時計塔は馬蹄をイメージした形になっており、天辺には馬車鉄道をかたどった風向計が取り付けられている。歩道の防護柵は馬鉄の様子が描かれた飾り柵となっていて、往時の面影を伝えるオブジェとして作られている。

地元の人でもない、いち鉄道ファンによる記事。

記事の書かれた1990年代でも、この地にかつて馬車鉄道が存在していたことを知る人は少なくなっていたことだろう。

著者は最後に、

廃止から70余年を経た地方の小さな馬車鉄道の歴史を後世に伝えるため、地元の人の手によって鉄道の始発駅があったその地にモニュメントが設置されたことは鉄道ファンとしてもとても嬉しいことで、これが永久に残されることを切望してやまない。

とまで書いている。

しかしこのミニパークはすでにない。一帯の再開発で撤去されてしまっているのだ。

かろうじて残されているのは歩道の飾り柵のみ。時計塔は新たな商業施設「リオーネ古川」に移設されているが、馬車鉄道の由来板はないので、どちらもどういう経緯で作られたものか、知る人はますます少なくなっていくことだろう。意外なことに当時の写真などもほとんど見つからないので、その意味でこの記事は貴重な記録となっている。

時計塔

歩道の防護柵(商店街に複数設置されている)
※実際は二頭引きではなく一頭引きだった

 

そのほか、古川台町の商店街記念誌『新道 台町の今昔』でも、馬車鉄道の思い出が語られているのを見つけることができた。「日露戦争で出征する人はみな馬車鉄道で行ったが、われわれは停車場で万歳するのをよく見たもんです」という記述が生々しい。

商店街近くの中里にある金刀比羅神社境内には、馬車鉄道で活躍した馬を弔った供養碑が残されている。

懐かしい古川馬車鉄道

明治35年建立の碑

明治43年建立の碑

明治35年11月に建立された供養碑は「如燕、騰霧、嘶春、荒神、越影」の五頭を弔うもの。この年4月、台町の大火で馬車鉄道会社社屋と五頭の馬を焼失した。

明治43年建立の方は「武蔵、嘶春、越影、巽北」の四頭を顕彰するものだ。

 

少しだけでも「◯◯浦」駅について調べてみたが、まさに、

日本の津津浦浦には、それぞれにいろいろな歴史があって、いくつもの物語がある

を実感することができた。

『津津浦浦』本文でも「ここからはぼくの推測も入るけれど」という言葉が見られるように、本当のところは不明で推測するしかないところもある。

でも乱暴なことを言えば、本当のところなんてわからなくてもいいのだ。

もちろんわかった方がいいけど、本当のところを知ろうわかろうという探求心こそ、大事なものなのだ。

「北浦」の由来の正解はわからなかったけど、そのかわり昔の人たちの暮らしぶりを知ることができた。

地域のために尽力して働いていた人たちを見つけた。

昔のありさまを絵に描き起こし記録していた絵本があった。

地域の地名を熱心に研究し、本当のところを知ろうわかろうとしている人たちがいた。

地域図書館のリファレンスの方にも大いに助けられた。資料を読んでいる間にも、こんな資料がありましたよ、こんな角度から調べてみてはどうですか?と次々にアドバイスをくださった。

調べたり資料を探したりするなかで楽しい時間を過ごせたのが、何よりの果実だ。

調べたり資料を探したりするためには、記録として残っていなければならない。どんなささやかな記録であっても、いつかどこかで役に立たないとも限らないのだ。このブログもいつか誰かの役に立つときがあったら面白いなあと思う。

 

<参考資料>

相澤繁雄(2008)「水と地名の分布 浦、谷地、そして要害」,『地名 27』2008年5月18日号, pp.3−11, 宮城県地名研究会.

遠藤浩一(1991)「70余年ぶりによみがえった古川馬車鉄道」,『鉄道ファン』1991年9月号, pp.93-97, 交友社.

菊地勝之助(1972)『宮城県地名考 地方誌の基礎研究』宝文堂.

小牛田町史編纂委員会編(1970)『小牛田町史 上巻』宮城県遠田郡小牛田町.

小牛田町史編纂委員会編(1972)『小牛田町史 中巻』宮城県遠田郡小牛田町.

紺野敏雄(1988)『赤い鉄道馬車(古川の昔いろいろ)』横町コンヨー.

新道編集委員会(1992)台町商店街振興組合創立15周年記念誌『新道 台町の今昔』台町商店街振興組合.

鈴木市郎(1997)『大崎地名考 みちのくみやぎの身近な地名を探る』おおさき河北.

鈴木市郎(1997)「地質情報と縄文・弥生地名の関係 ー大崎地方を中心としてー」,『ちめい 6』1997年6月10日号, pp.5−9, 宮城県地名研究会.

太宰幸子(2015)「地名から知るふる里 34 二又 ー美里町北浦ー」,『大崎タイムス』2015年10月1日付, 5.

太宰幸子(2016)「地名から知るふる里 60 起谷 ー美里町北浦ー」,『大崎タイムス』2016年3月31日付, 5.

古川市史編さん委員会編(2007)『古川市史 第四巻 産業・交通』大崎市.

宮城県遠田郡教育会編(1926)『遠田郡史』名著出版.

「小牛田風土記ー古川馬車鉄道」,『こごた河北』13巻, p.3, 河北新報小牛田駅前販売所.

現在の鎌田醤油

*1:『こごた河北』の記事によると、山神社の例祭には臨時便も出て運賃割引もあったという。明治35年10月26日には、荒雄村の13歳の男の子が轢かれて重傷を負うといった事故も起こっている。

*2:もっとも『小牛田町史』は「当主鎌田茂助の過大な善意が経営の損失をまねく」一因となったことを指摘している。茂助は農業経営に熱を入れるあまり、莫大な私財を投じて事業をおこなっている。「稲作の技術者を秋田の方から招聘」というのもその一つだった。また前述の農業倉庫や運送会社の経営によって、確かにこの地域の米の市場価値を高めることに寄与した一方、米穀商人への貸米回収が不能となる事態が相次ぎ、家業に打撃を与えることにもなった。