『ガラス 砂の宝石(第68号)』「ふしぎ新聞」での来月号紹介は、この『シベリア鉄道ものがたり』。
ウラジオストクからモスクワまで九二九七キロもの世界一長い距離を走るロシア号に乗って、みなさんを、はてしなくつづくシベリアの大地にご案内いたします。
今回は外国人が入ることができるハバロフスクから乗車いたします。それでも五泊六日、一三〇時間、八五三一キロも走る大旅行です。途中イルクーツクでおりて、きれいな街なみやバイカル湖をみてください。
また長い距離を走るうえで、運行する側と乗る側にそれぞれ苦労があります。シベリア鉄道の歴史についても少しふれてみたいと思います。とにかく、盛りだくさんの内容です。乗りおくれないように!(『ガラス 砂の宝石』ふしぎ新聞より)
紹介文に違わず「とにかく、盛りだくさん」の内容だ。
今回は外国人が入ることができるハバロフスクから乗車いたします。
というのはこの取材当時、ソ連時代だったから。上りモスクワ行きの始発駅はウラジオストクにあるが、軍港都市だったため外国人の立ち入りなど厳しく制限されていたのだ。そのため、まずは新潟からハバロフスクへ飛行機で向かっている。
現在はソ連時代から変わっている地名・名称もあるが、この記事では本誌のまま表記している。
冒頭は、錦秋のシベリアを駆け抜ける「ロシア号」(※絵本の取材時期は6月下旬)。
折込3ページをフルに使って描かれている。裏面はソ連の地図。シベリア鉄道の経路と主な停車駅が線で結ばれている。どれだけページを使っても、日本で暮らす子供たちがこのスケール感を想像するのは難しいだろう。
折込ページを二つ入れ、44ページ構成。なんせモスクワまで8541キロ、5泊6日の長旅だ。40ページから4ページ増えたところで足りないくらいだろう。
7ページには「ロシア号時刻表」。『時刻表2万キロ』を書いた宮脇俊三らしい。シベリアの風土と、シベリア鉄道が作られた目的についても触れられている。
第2次大戦後、たくさんの日本の兵士がハバロフスクに抑留され、きびしい労働に従事しました。なくなった日本人の墓地が町はずれにあります。
ここだけでなく、折に触れ町の歴史が紹介されている。
2本のレールの間隔の広いこと。新幹線(1435ミリ)より広い1524ミリです。車両も大きいです。
軌間についての記述があるところも、鉄道好きならではだ。
「ロシア号」は18両編成。当時は
車両編成は、
- 1号車は郵便車
- 2〜5号車はロシア人専用の「ハード・クラス」寝台車
- 6〜16号車は「ソフト・クラス」コンパートメント
という構成。外国人は「ソフト・クラス」にしか乗車できない。その他食堂車が2両付けられている。夫は学生時代中国を旅したことがあるが、中国でも「軟席」と「硬席」があって、外国人は?「軟席」しか利用できなかったそうだ。
暖房は石炭ストーブ。今どき?と思うが、これがいちばん確実なのだ。暖房装置の故障は文字通りの死活問題になる。冬場は特に洒落にならない。現在でもそれは変わらないようだ。
11ページでようやく旅のメンバー紹介。
宮脇俊三&黒岩保美の作者ペアの他に、黒岩氏の娘さんである香奈子さん*1も一緒だ。
指定座席は10号車の4人室コンパートメント。この室には他に若いロシア人男性が乗車している。1両には2人ずつ女性の車掌がつき、チャイの提供や清掃、扉の開閉など乗客のサポートをしている。飛行機でいうところの客室乗務員を兼ねているのだろう。
ハバロフスクを出ると、行手にはアムール川。世界第8位の大河にかかる橋は全長2.5kmを超える。複線仕様のシベリア鉄道も、この鉄橋区間は当時単線だった。今のハバロフスク橋はさすがに複線化されているようだ。
海のような川に目を見はりながら大鉄橋をわたりおえると、監視小屋があり、銃をかまえた兵士が立っています。軍事的にも重要な鉄橋で、撮影禁止です。
空港など要所で撮影禁止なところは今の日本でもある。しかし銃を構えた兵士がいるのはなかなか緊張する風景だ。
初夏のながい1日がようやく暮れかけた21時半、「8000」のキロポストが過ぎていきました。モスクワまでのキロ数です。
距離標の数字も折に触れ登場する。律儀に1キロ毎に立っているとは驚きだ。
駅に停車するのは2時間に1回程度。大きな駅では機関車の付け替えや車両点検、給水などをおこなうので、10〜15分程度の停車時間が設けられている。駅のホームには露天商が来て、ピロシキや燻製肉などを売っている。乗客たちもいそいそと買い込んでいる。食堂車もあるが、ずらりと並んだメニューのほとんどが品切れ。3人も結局ボルシチとライ麦パンという簡素なものしか食べられなかったのだ。今は品切れということはないだろうが、値段が高いようだ。
【ロシア】シベリア鉄道 カップラーメンで暮らせる超快適列車【完全解説】 - Geek Travel Inc.
18〜19ページは、ロシア人乗客との交流が描かれる。
日本のお菓子、写真集などの本をさかなに異文化コミュニケーション。このページのイラストには「たくさんのふしぎ」と思しき本もさりげなく盛り込まれている。ロシア人少女の膝にあるのも「ふしぎ」の1冊かなあ。香奈子さんと思われる女性が手にしているのは折り鶴だろうか。
それにしても、ロシア人って、なんて人なつっこい人たちでしょう。日本とソ連とは対立関係がつづいてきたのですが、人間どうしで向いあってみれば、国の壁などきえてしまいます。シベリア鉄道に乗ってよかったと、そう思いました。
今、なかなかこうは思えないかもしれない。戦争が破壊するのは人の命や大事な場所だけではないのだ。
途中描かれる駅は、
- スコボロジノ駅(モスクワまで7313キロ)
- ペトロフスキー・ザボード駅(モスクワまで5784キロ)
- ウラン・ウデ駅(モスクワまで5647キロ)
この後イルクーツクでインターミッションとなる。
ペトロフスキー・ザボード駅のあるところは鉄鉱山と製鉄所の町。流刑囚たちが厳しい労働に従事させられたという。流刑囚というのはデカブリストの乱で蜂起した青年将校らだ。駅ホーム広場には、レーニン像とデカブリスト8人*2の記念碑がある。
Декабристы и Ленин - вместе на станции » PUTI-shestvuy
ウラン・ウデ駅があるのはブリヤート自治共和国。ブリヤート人はモンゴル系なので、日本人と容貌が近い。
国のなかにもうひとつ「国」があるとは私たち日本人には理解しにくいことですが、それが「ソ連」(ソビエト社会主義共和国連邦)なのです。
と説明されている。確かに国が集まってまた一つの国になっているというのは、子供たちには理解しづらかったことだろう。私も子供の頃は、ソ連という一つの国でしか想像できていなかった。
ウラン・ウデを過ぎると、“シベリアの真珠”バイカル湖が見えてくる。真珠といっても九州と同じくらいの広さがあるのだ!湖としては想像の域を遥かに超えるスケールだ。日露戦争時は冬、氷上に線路を敷設して列車を走らせたことがあったという。当時のシベリア鉄道は、バイカル湖付近の工事が進んでいなかったからだ。
イルクーツク駅(モスクワまで5191キロ)到着時の描写が面白い。
バイカル湖の南岸を3時間くらい走ると、まもなくイルクーツク駅の構内にさしかかります。ロシア号は赤信号でとまり、線路があくのを待ちます。大きな駅に着くときは、構内の手前で10分や20分も停車することが多いのですが、イルクーツクのように、とくに大きな駅では、ながいあいだ待たされます。
しかし、イライラしてはいけません。鉄道でも食事でも税関その他のてつづきでも、待たされて腹をたてるようではソ連の旅は不愉快なものになってしまいます。ここは日本ではありません。雄大なシベリアなのです。と、心をしずめますが、やはりイライラしはじめたころ、ロシア号は、そろそろと動きだしました。
到着は1時間以上も遅れたという。もっとも今は遅延が発生することは少ない?ようだ。
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一行はここで途中下車し、イルクーツクの街とバイカル湖観光を楽しんでいる。イルクーツクは流刑地として知られており、ペトロフスキー・ザボードと同じくデカブリストたちが流された地でもあった。『家をかざる(第409号)』でも、イルクーツクとデカブリストの関係が触れられている。
28〜29ページは、
私たちはシベリア鉄道の旅をたのしんでいるのですが、この鉄道を建設した人たちのことをおもうと、たのしんでばかりはいられなくなります。
ということで、建設の悲哀が語られている。
鉄道建設にはシベリア送りになった囚人たちが駆り出されていた。ロマノフ朝を批判した政治犯などだ。建設当初は単線だったが、それでも鉄道開通後、シベリアの開発は格段に進んだという。それまでは馬車で二ヶ月かかっていたところ、なんと十日あまりに短縮されたのだ!
馬車時代のシベリアが、どんなにひどいものであったかは、ロシアの作家、チェーホフの「シベリアの旅」にいきいきとかかれています。図書館で、ぜひ読んでみてください。チェーホフという、あたたかい心の偉大な作家にふれる機会にもなるでしょう。
その後複線化の工事に駆り出されたのは、またもや流刑囚たち。今度はレーニン統治下での政治犯だ。
ですから、シベリア鉄道の複線化に動員された政治犯はロマノフ王朝時代とは反対の立場の人たちです。歴史とはおそろしいものです。
小学生にこの辺の歴史事情がわかるかなとは思うが、理解できるかどうかは別として、しっかり歴史を語っておきたいという気持ちが伝わってくる。チェーホフの紹介にしても、小学生だからといって怯まず、子供扱いせずに伝える姿勢が見えてくる。
思想犯などを駆り出してインフラ整備の重労働にあたらせたのは、日本でも囚人道路など悲惨な歴史が存在している。近年のロシアでもバイカル・アムール鉄道の複線化工事に受刑者を動員する計画が持ち上がっている。現在のロシア情勢では、ますます政治犯が増えていくことだろう。今後も労働者は“補充“され続けていくのかもしれない。
ソ連時代の再現? 旧日本軍将兵も強制労働させられたシベリア鉄道工事、コロナ禍の労働力不足で受刑者動員へ:東京新聞 TOKYO Web
30〜31ページは、鉄道車両の紹介。かつて使われていたSLのほか、ディーゼル機関車や電気機関車、雪かき車が紹介されている。
イルクーツクを出てから紹介される駅は、
スベルドロフスクを出発して、ウラル山脈を行くときに、左窓に白い石柱が見えてくるという。東側に「アジア」、西側に「ヨーロッパ」と刻まれている。ここがヨーロッパとアジアの分岐点なのだ。
第3/4国際列車-RW19雑記 第二回 「ウラル山脈のオベリスク」
ウラル山脈のなかで日が暮れ、ロシア号の旅の6日目の夜があけると、線路ぎわのキロポストの数字が4ケタから3ケタにかわっていました。
ハバロフスクでは「8531」でしたが、とうとうモスクワまで、あとすこしのところまできたのです。
シベリア鉄道の旅も、きょうでおわりです。
終点はモスクワ・ヤロスラブリ駅。モスクワの駅は面白いことに、行き先の都市名を駅名にしているそうだ。ヤロスラブリ駅のそばには、カザン駅、レニングラード駅もある。41〜43ページの折込見開きいっぱいには、この三つの駅がならんだ風景が展開されている。
終わりの文章はあっさりながらも、シベリア鉄道とそれに関わる人たちへの愛情を感じさせるものだ。
これでシベリア鉄道の旅はおわりました。たいくつなときもありましたし、車掌とちょっとしたけんかをしたこともありましたけれど、雄大なシベリアの大地を6日もかけて乗りとおした記憶は、いつまでもきえることはないでしょう。
全編をとおして印象に残ったのは、働く女性たちの姿。
35ページには、シベリア鉄道で働く女性鉄道員の様子が描かれている。
運行中の車掌業務もこなせば、駅での車両点検や給水作業にもあたる。ツルハシ持って保線作業にもあたるし、町も人家もないところの駅や信号所、保線小屋にも詰め、シベリア鉄道を守っている。駅の露店で物売りするのだって女性たちだ。
女性的でない職業の女性:スカートを穿いたプロレタリアの10枚の写真 - ロシア・ビヨンド
女性がハードな肉体労働にも従事するのは、ソ連時代の「男女平等」政策が影響しているとも言われるが、第二次大戦で男性が減ってしまったため、女性が仕事を担わざるを得なかった、その名残であるという説もあるようだ。
ロシア人の働き方は日本人と全然違う?と思って調べてみたら意外と似ていた(寄稿:おそロシ庵)|【パソナキャリア】パソナの転職エージェント
今般の紛争でも、両国とも女性も武器を手に戦場に赴いている。戦争は、社会を支える大事な働き手をいとも簡単に奪っていくのだ。
「作者のことば」によると、
この世界最長の列車に乗るのには大きな期待と、少しばかりの不安がありましたが、ペレストロイカのソ連では、まったく問題がありませんでした。
ということだ。本号発行の1年後には、ペレストロイカ体制を築いたゴルバチョフは辞任し、ソビエト連邦最高会議は解散。ソビエト連邦の崩壊という結末を迎える。作者お二人とも、ソ連のこんな末路は予想していなかったかもしれない。結果的にソ連時代の貴重な旅行記として残ることになった。
この本は別の図書館から取り寄せてもらったが、あちこちに補修の跡があってボロボロだった。普段は書庫で眠っているけれど、愛されて読まれてきたんだなあと思う。内容は古くなっているが、ぜひとも復刊してほしい一冊だ。
偶然にも、つい最近読んだ本にシベリア鉄道が出てきた。
『愛について』という、ロシアの作家ワジム・フロロフによる作品だ。
主人公は14歳の少年。父母と妹の4人家族だ。
演劇の仕事をしている母が、地方公演から帰ってこない。周りの大人たちは事情を知っているようだが、少年には話そうとせずごまかされるばかり。
ある日その母のことで、クラスメイトと大げんかし大怪我をさせてしまう。退学処分が取り沙汰されるなか、ようやっと少年に真実が明かされる。紆余曲折を経たあと、彼は黙って母を迎えにいこうと決心する。シベリア鉄道に乗って、母のいるイルクーツクへ。
少年が住むのはレニングラード。そこからモスクワに出てイルクーツクとはすごい長旅だ。子供が一人で乗り込んできたので、同室の乗客たちに怪しまれ通報されそうになっている。すんでのところで逃げ出した少年は、若夫婦の室にかくまわれ無事イルクーツクまでたどり着くのだ。
乗車中の、車窓からの眺めに触れた箇所がある。
そこでぼくたちは通路へ出た。窓辺に立つと、目の前を草原が走っていた。平坦な大地がはてしなく続き、目に止まるものとては何もない。ただ時たま白樺が三、四本流れ去るのに出合うだけで、そのすらりとした幹や枝の白さがあざやかだった。そのほかには、小さな湖がここかしこに、まるで鏡をいくつも投げ捨てたようなたたずまいを見せている。
汽車が平坦な土地を行くときには特にそうだが、窓外に長いこと目を向けていると、すべてが不意に回り出す────自分は一つ所にじっとしていて、大地と地上のすべてが自分のまわりを回っている────という錯覚におちいることがよくある。(『愛について』332ページより)
……汽車は絶えず走り続け、窓のそとには秋の密林が、黄・赤・緑・青・黄金色・薄紫色にいろどられながら走り去っていた────エゾ松・白樺・松・ヤマナラシ・モミ・カラ松、そしてまた、白樺・エゾ松……。密林は汽車のまわりをはてしなく回っていたが、いつまで見ても退屈しなかった────それほど変化に富んで美しかったのだ……。(同336ページより)
少年が見たのは、『シベリア鉄道ものがたり』冒頭に描かれるような美しい風景だったに違いない。
原著のタイトルは『Что к чему...』。「何にどんなわけが」といった意味合いだという。ちょっと調べてみると慣用句的に使われる言い回しのようで、物事の道理とか分別などを表すものと理解した。
このフレーズが本書の中心テーマとなっていて、書き出しにも盛り込まれている。
ぼくはもう、かなりの年齢になったから、何にどんなわけがあるか、だんだんわかってきた。すくなくとも、ぼくにはそんな気がする。
《何にどんなわけがあるか》────これはユーラ小父さんが口癖のように言う言葉だ。(同1ページより)
「何にどんなわけがあるか」わかってないとみなされ、何も話してもらえない苛立ちが、クラスメイトとの大ゲンカという形で爆発することになるわけだ。
この原題とテーマを、もっとうまく表すタイトルにできなかったものかと思うが、「愛について」というのもあながち外れているわけではない。
ゲスい表現をすれば、3人の、いや母も含めれば4人の女性のあいだで揺れる少年の心を描いたものともいえるからだ。
性の目覚めを呼び起こす、友人の姉。
好きだと思っているクラスメイト。
何くれとなく気にかけてくれる女の子。
そして、母として愛する女性。
少年は、まだ若いうちに母という女性との決定的な別れを経験するわけだが、その絶望からすくい上げる存在が、彼の周りにはある。3人の女性たちだけではなく、父や妹、ユーラ小父さんや妻であるリューカ小母さん、学校の教師など……自分を愛してくれる場所、帰ることのできる場所があるのは、それだけで救いになるのだ。
ユーラ小父さんは、はるばるイルクーツクまで少年を追ってくる。そこで彼はこう言うのだ。
「きみはすっかり大人になったなあ、サーシャ」
ユーラ小父さんにはわかったのだ。少年が「何にどんなわけがあるか」わかるようになったことが。遠くまで母を求めにきた少年が、彼女との別れに打ちのめされたことも、思いをグッと押し殺して立ち去ったことも。
作者のフロロフは、児童文学に描かれる“きれいごと”に我慢がならなくて、この本を書き上げたという。今となってはそれほど“革命的”な作品ではないと思うが、大人の立場で読むと、大人たちの少年に対する気持ちがわかってしみじみする。
おそらく日本での出版独自のものだろうが、装丁や挿絵の方は今見ても“革命的”だ。ユーリイ・ワシリエフというモスクワの芸術家によるもので、表紙の装丁からわかるようにかなり抽象的なものとなっている。時折入るカットもすべて抽象で、児童書としては異色のものだ。
<2023年5月13日追記>
チェーホフの『シベリアの旅』を読んでみた。
「シベリヤはどうしてこう寒いのかね?」
で始まるこの一冊は、まさに“馬車時代のシベリアが、どんなにひどいものであったか”を知らしめるものだ。
なぜチェーホフはシベリアを旅したのか?
サハリンに行くためである。
1890年の春、チェーホフは突如サハリンを目指す。流刑囚の実態を調査するためだ。のちに『サハリン島』というルポルタージュにまとめられている。当時彼は結核に罹っており、病を押しての大旅行となった。
チェーホフの行程は下記のとおり。
- モスクワ〜ヤロスラブリ(鉄道)
- ヤロスラブリ〜ペルミ(汽船)ヴォルガ河、カマ河経由
- ペルミ〜チュメーニ(鉄道)
- チュメーニ〜バイカル湖(馬車)
- バイカル湖〜スレテンスク(馬車)
- スレテンスク〜ニコラエフスク(汽船)アムール河経由
- ニコラエフスク〜アレクサンドロフスク(汽船)
解説によると、4月21日にモスクワを出発。チュメーニ着が5月3日、イルクーツク着が6月5日、ニコラエフスク着が7月5日、目的地サハリンのアレクサンドロフスク着が7月10日と、3ヶ月もの期間を要している。
文豪を苦しめたのはやはり馬車行きの区間だ。
春まだきのシベリアは悪路に満ち満ちており、車輪や車軸を破壊するほどの威力を持っていた。馬車をも壊すくらいだから、当然身体も痛めつけられる。トロイカと衝突し、あわやの事態にも直面している。
とくにトムスクから先は“コズーリカ越え”と呼ばれ、恐れられていた。
トムスクから先は、宿場に着くたびにこのコズーリカで威かされる。書記たちは謎みたいな笑いを浮べ、行き合う旅人は意地の悪い笑顔で、こう言う────「私は越してきましたよ。今度は君の番ですね。」あまり威かされるので、仕舞には神秘なコズーリカが嘴の長い緑色の眼をした鳥になって、夢にまで現れて来る。コズーリカというのは、チェルノレーチェンスカヤとコズーリスカヤの両駅間二十二露里の道を指すのだ(これはアチンスクとクラスノヤールスク両市の間に当る)。この怖ろしい場所の手前二三駅あたりから、既に予言者が出現しはじめる。行き合った一人は四度も顚覆したというし、もう一人は車の心棒を折ったと零すし、三人目は難しい顔をして物も言わない。道はいいのかと訊いて見ると、こう答える、「いやはや結構なの何のって。」とりわけ私を見る人々の眼は、死者を悼む眼附に似ている。何故なら私の馬車は自腹を切って買った車だからだ。
「きっと毀して、泥んこの中へ陥りますよ」と、溜息まじりに言って呉れる。「悪いことは言わない、駅馬車になさい。」
チェーホフも早速洗礼を受けた。コズーリカ越えどころか、チェルノレーチェンスカヤ手前で。道中一緒になった軍人3人グループの馬車がひっくり返るのを目の当たりにし、自身の馬車も軸釘が曲がったと馭者から告げられるのだ。
宿場で修繕が始まったが、馭者たちがここも壊れてるあそこも割れてるナットが飛んでるとか口ぐちにいうのに閉口している。こんな感想を漏らすくらいだ。
が私には何ひとつ分からない。また分りたくもない。……暗いし、寒いし、退屈だし、睡い。……(同33ページ)
宿場で交わされるのはもっぱら、道中起こった悲劇の数々だ。
イルクーツクまでまだ一千露里以上の道程を扣えながら、すでに困憊し切っている旅人の耳には、宿場の物語は唯々凄まじく響く。(同33〜34ページ)
殊にシベリアを行く郵便夫の苦闘は凄まじい。チェーホフは彼らを“殉教者“、“祖国が頑迷にも認めようとしない英雄“とまで呼ばわっている。
もちろん、自らが味わったコズーリカ行きの苦闘も余すところなく描かれている。2段組4ページにわたって語られる悲惨な物語。悲劇も突き抜ければ喜劇になる。チェーホフが意図して書いたかは不明だが、車輪だけでなく心が砕かれていくさまに、思わず笑いが漏れてしまったくらいだ。
一年中を通じて道路は通行に適しない。春は泥濘で、夏は小山と穴と修理で、冬は陥し穴で。(同39ページ)
コズーリカを抜けて、エニセイ川とタイガの描写は素晴らしく濃密だ。コズーリカの試練を乗り越えた喜びがびしびし伝わってくる。奥深さを秘めたタイガの風景は、想像の域をはるかに超えるものだ。文豪に畏敬の念を生じさせるほどの絶景。人知の及ばぬスケールは、言葉を尽くしたところで一見に如くものではない。とはいえ前掲『愛について』にも描写があることからわかるように、どうしようもなく詩情をかき立てる魅力があるのに違いない。
エニセイ地方から先は、さすがの文豪も力尽きた?のか描かれることなく終わっている。しかしこれは『サハリン島』の土台ともいえる旅となった。なぜならサハリンに送られた「気の毒な人達(原注:「囚人たち」の意。ロシヤでは罪囚を明らさまな名で呼ぶことを禁じ、「気の毒な人達」と呼ぶのが慣わしであった)」もチェーホフと同じ旅路を辿ったに違いないのだから。
*1:もしかしたら『スイス鉄道ものがたり (たくさんのふしぎ傑作集)(第88号)』の“香奈子”だろうか?
*2:M.A. Bestuzhev, N.A. Bestuzhev, F.B. Wolf, I.I. Gorbachevsky, M.S. Lunin, A.E. Mozalevsky, N.M. Muravyov, I.I. Pushchin