こどもと読むたくさんのふしぎ

福音館書店の月刊誌「たくさんのふしぎ」を読んだ記録です。

「植物」をやめた植物たち(第462号)

朝ドラ「らんまん」は、植物学者牧野富太郎をモデルにしたドラマだ。

昨日は主人公の万太郎が、山中で会った遍路宿の案内役に導かれ、不思議な植物を見つけるシーンがあった。のちにヤッコソウと名付けられる植物だ。

地面に這いつくばって観察する万太郎。

 緑の葉を持っちゃあせんゆうことは、おまんらあどこから養分を…?

 シイの木か!

緑の葉を持っちゃあせん……これはまさに“「植物」をやめた植物たち”ではないか!

と思って本号を見直してみると、冒頭にヤッコソウが登場している(1〜3ページに出てくる植物の名は裏表紙見返しに明記されている)

なんてジャストなタイミング。ちょうど今月号なんてドラマの出番に合わせたかのようだ。今日も登場してたので、ほらほら「ふしぎ」にも出てるんだよ〜っていったら、夫も子供も大層感心していた。

 

植物といえば光合成

本号の主人公はなんと、その光合成をやめてしまった奴らだ。

光合成をしないので「緑の葉を持っちゃあせん」ということになる。葉緑体を持つのもエネルギーがいるからだ。『まるいはマリモ(第134号)』で見たように、普通の植物だって日の当たらないところに葉緑体は(ほとんど)ない。まして光合成しない奴らが緑である必要はないのだ。

意外にも奴らは全国各地いろんなところにいる。だが見つけにくいものだという。

実は、光合成をやめた植物は、葉ででんぷんをつくる必要がないので、花が咲いて実をつけるわずかな期間しか地上に姿を現しません。また小さなものが多く、1センチにも満たないものまで存在します。さらに昆虫に食べられるのを防ぐため、枯れ葉そっくりの種類もいます。

省エネ生活のため、小さく目立たないように生きているというわけだ。『地下にさくなぞの花(第186号)』も同じく光合成をしないなかまだけど、地上に姿を現すどころか繁殖期すら地下に潜ったままだった。おかげで探すのにかなりの苦労を強いられている。

見つかりにくいというのは、新種の宝庫でもある。

日本は、万太郎もとい牧野博士のおかげか?植物の調査が世界でもっとも進んでいる地域だという。そんなわけで新種が見つかるのもごくわずか。

しかもそのほとんどは「すでに地元の人はその植物の存在を知っていたものの、正式に発表されていなかったもの」か「すでに知られている種を詳細に検討した結果、複数の種に分かれることになり発表されたもの」のどちらかです。

対して光合成をやめた奴らは、新発見のフロンティアだという。これまで誰も見たことがないものを見つけるチャンスでもあるのだ。

 

奴らはどうやって生きているのか?自前で栄養を作れないのに?

それは読んでのお楽しみ。

騙し騙され面白いドラマがいっぱいだ。手練手管を尽くして他の力を借りまくる生き様に、感銘すら受けることだろう。光合成する植物だって、他の生きものとの関係で生かされていることもわかる。みな生きもの同士のネットワークのなかで、生きて生かされているのだ。

奴らはアマミノクロウサギの力を借りてたりもする!絶滅危惧種に頼るからというわけでもないだろうが、ご本人のヤクシマツチトリモチの方も希少植物になっている。

アマミノクロウサギは「光合成をやめた植物」の種子の運び屋さんとして活躍 | Research at Kobe

何かに依存するのは一見楽なようにも思えるが、裏を返せば他力本願ということだ。肝心の他力に余裕がないと難しくなる。生態系に余裕がある森林でなければ、生きることはできないのだ。

つまり、光合成をやめた植物が存在するということは、そこが豊かな森であることを示す証拠なのです。

なんというかまあ、安易に人間社会にも当てはめてしまいそうだ。多様な存在を受け入れられる社会は、豊かな社会である証拠だとか。

作者は今後、奴らの手練手管を暴くことを目指しているという。それがわかれば、生きものがどういうときに敵対し助け合うのか理解できるようになるかもしれないと。

 

ちなみに中学生の子供は、本号を興味深そうに読み込んでいた。確かにこれ、内容をきちんとつかめるようになるのは中学生くらいだと思う。しかし、たとえ小学生でしっかり理解できずとも、不思議な植物の存在を知るだけで面白いし、バラエティ豊かな彼らの姿を鑑賞するだけでも楽しめる。「たくさんのふしぎ」は、理解だけ・・が目的の本ではないし、すべてをわかる必要もない。好奇心のタネを幅広くまいておけば、いずれ誰かのところから芽吹くときがあるはずなのだ。

惜しむらくは、致命的な誤記があること。

大人は明らかな間違いだとわかるが、小学生はこういう知識が常識になりきっていない。子供向けの科学絵本としては看過できないミスかなと思う。誰にでも誤りはあるし、そんなのは編集の方がいちばんわかってると思うけれど。

<2023年9月15日追記>

今日の「らんまん」にも“「植物」をやめた植物たち”がご登場。

ツチトリモチだ。

アマミノクロウサギを運び屋に使ってる、あのヤクシマツチトリモチのなかまだ。

ある日主人公万太郎の元に一通の手紙が届く。かつて植物学教室で一緒だった野宮からだ。明治政府の神社合祀政策のせいで、神社の森が悲惨な状況に陥っていることを伝えるものだった。ちなみにこの週は万太郎と南方熊楠との手紙のやり取りも登場するが、南方こそ伐採を余儀なくされる森林を憂い反対運動を起こした本人でもある。

神社合祀反対運動 – 南方熊楠記念館

万太郎は野宮の手紙に心を動かされ、伐採前に植物を記録するべく熊野へと出かけていく。帰京したのち義兄の竹雄にツチトリモチを見せ、こんな会話を展開する。

この子は 木に寄生して生きる。
木を切ってしもうたら 枯れてしまう。
この子は 森の小さな守り神じゃ。

 ー森が切られたら…この神さんも消えるがか?

うん。木が倒され 日がさし込み この子らは 消えていく。

森の小さな守り神

『「植物」をやめた植物たち』の最後には、

つまり、光合成をやめた植物が存在するということは、そこが豊かな森であることを示す証拠なのです。

と書かれているが、ツチトリモチの存在自体、豊かな森であることを表すものなのだ。森の小さな守り神というのはそういうことだ。

彼らは森がなければ生きていけない。だから「森を食べる植物」と表す方もいる。

森を食べる植物――腐生植物の知られざる世界』を書いた塚谷裕一先生だ。

もっともこの本で取り上げられるのは、“「植物」をやめた植物たち”のなかでも「腐生植物」と呼ばれるものだ。だから「寄生植物」であるヤッコソウやツチトリモチは登場しない。

本誌でいう“「植物」をやめた植物たち”は、すなわち「光合成をやめた植物」のことだが、そのなかでも「寄生植物」と「腐生植物」がある。「ふしぎ」ではこの辺の区別はあえてしないで「光合成をやめた植物」として一緒に取り扱われているが、ざっくりいえばこれらは寄生先が違うということになる。「寄生植物」の寄生先は(ほとんどが)種子植物「腐生植物」の寄生先は菌類なのだ。だから万太郎も、寄生植物であるヤッコソウもツチトリモチの時も「木から養分」「木に寄生して生きる」という言葉を使っている。

『森を食べる植物』で扱われているのは、菌類に寄生する腐生植物のみだ。

腐生植物というと、なにか死んだ生き物を分解して食べるイメージになるがそうではない。彼らは生きた菌糸を食べている。なので今は「菌従属栄養植物」という呼び名が多数派となってきている。塚谷先生ご自身は、シンプルに「菌寄生植物」という方が好みらしい。

「菌寄生植物」がちょっとわかりにくいのは、菌に寄生するというのが直感に反するからだろうとおっしゃっている。普通、寄生するものは寄生されるものより小さい。サナダムシは人間より小さいわけだし、コマユバチ(寄生蜂)の幼虫がアオムシより大きかったらびっくりだろう。栄養を横取りするわけだから、自分より小っちゃいものから分取ることはできない。しかし、こと菌寄生植物においては、単純に比べれば菌糸寄生されるものより植物寄生するものの方がはるかに大きいのだ。

だが、小さい菌糸もネットワークを組めば巨大な生き物と化す。たとえばツチアケビの寄生先であるナラタケ。実は大変獰猛なキノコで、枯れた植物のみならず生きた植物にも手を伸ばす凶悪な生きものだ。寄生性、病原性が強く、ナラタケ病を引き起こすこともある。地上に見えるキノコ(子実体)は、からだの一部にしか過ぎない。本体は地下にある菌糸の巨大ネットワークなのだ。よってツチアケビは、ナラタケより決して大きいわけではなく、逆にこの巨大なネットワークのスキマにちょこっとお邪魔して栄養を拝借している形になる。

世界最大の巨大生物「ナラタケ」は、美味いが、凶悪な森の病原菌!! | キノコ・ハンティング 【BE-PAL】キャンプ、アウトドア、自然派生活の情報源ビーパル

ナラタケはサワモダシとかモダシとか呼ばれ大変おいしいキノコだ。うちも秋になると山のキノコ屋に食べに行ったり、買いに出かけることがある。

ちなみに、ツチアケビが自動自家受粉することを突き止めたのは末次先生だ。「ふしぎ」の26ページでも触れられている。塚谷先生も『森を食べる植物』64ページで紹介されている。

ナラタケはあまりに攻撃性が強いので、オニノヤガラなどは、種子の発芽段階ではクヌギタケ属に頼っているという。小ちゃいうちは手に余り逆に返り討ちにされかねないので、大きくなってからナラタケに乗り換えるというわけだ。

森のなかには多様な菌類が生息しているが、腐生植物はなんでも取りつくわけではなく、それぞれ好みの菌類がある。一見すると選択肢を広げる方が理にかなっているように思えるが、寄生というのはリスクが大きい行動でもあるのだ。知らない相手にうっかり取りつけばどんな危険があるかわからない。勝手知ったる相手に頼る方が、結局はコストもリスクも最小限にできるというわけだ。

 

面白かったのが、タヌキノショクダイを解説した一説。先生によると、タヌキノショクダイは「日本の腐生植物を代表する花」だという。

あえて説明するとすれば、基本構造は筒だ。3枚の花弁にあたる内花皮と、3枚の萼片にあたる外花皮とが癒合して、まず白いぼんぼり状の筒をつくっている。その筒は先の方で内花皮と外花皮とにいったん分かれる。3枚の外花皮はそれぞれ、筒の外に向けて短く三角形に飛び出させ、ここで終わり。それとともに、筒には壷状の口ができる。一方、外花皮と互い違いにある3枚の内花皮は、外花皮が終わったところで筒から離れ、外花皮の先端を超えて3枚それぞれが伸び出す。そうしていったん一枚ずつ自由の身になった内花皮は、その先で幅を広げつつアーチ状に合流し、兜状に筒の上を覆う。さらにその上でその兜の頭の方から、3本、短い突起を角のように突き出させる。(『森を食べる植物』19ページより)

なんのこっちゃという感じである。字面だけで絵を描くのはまことに困難だ。いや、写真を見てもよくわからない。

植物なのに、光合成も開花もやめた!?珍奇すぎる腐生植物の世界 | ブルータス| BRUTUS.jp

先生は続けて、

 ……しかしこう書きながらも、無力感を禁じ得ない。実物を生で見るまで、私も何度もいろいろな人が書いた記述を読み返しつつ図を眺め、何がどうなっているのか理解しようとしたが、100%理解することはできなかった。

とも書いてらしている。その後、生の花を見てはじめて理解できたというのだから、素人は何をか言わんやである。「読者のみなさんも、この奇妙な花の構造を理解するためには是非一度、生で見ていただきたい」とおっしゃるが、とても見つけられる気がしないのが残念だ。

末次先生は、タヌキノショクダイのなかでも絶滅したと考えられてきた「コウベタヌキノショクダイ」を再発見している。「ふしぎ」では、2ページと11ページに他の植物と並んで慎ましく載っているが、実は結構な大発見だ。

 

『森を食べる植物』の「はじめに」ではこんなことが書かれている。

腐生植物とは、緑の葉を持たず、光合成をしない代わりに、カビやキノコを食べて暮らす植物のことである。カビやキノコを食べると言っても、曲がりなりにも花の咲く植物のこと、動物のようにキノコをもぎ取って食べるというような乱暴なことはしない。もっと静かで、優雅なやり方をする。すなわち、この腐生植物の根に自ら侵入してくるカビやキノコの菌糸を返り討ちにして、自らの栄養源としてしまうのだ。腐生植物の地下部では人知れず、静かな戦いがくり広げられているのだ。

 ではそのカビやキノコは、そもそもどこから栄養をとっているのか?

 それは森からだ。なぜならカビやキノコは森の樹と共生したり、森の落ち葉や枯れ枝を栄養源とすることによって、暮らしている。そのカビやキノコから、腐生植物は栄養を奪い取っている。ということはすなわち腐生植物は、間接的に森を食べて暮らす植物なのである。(『森を食べる植物』ⅲページより)

腐生植物が食べていける森は、豊かな森であると言われる。

じゃあ豊かな森とはどんな森なのか?どうすれば腐生植物を見つけることができるのか?

ポイントの一つは「安定期に入った落ち着いた森」であるということだそうだ。腐生植物が余剰分を失敬してもビクともしないくらい生態系に余裕があること。

そんな森のなかでも「林床がきれいな場所」が狙い目だという。きれいなというのは「草が茂っておらず、落ち葉が裸出し、静けさのある状態を指す」。そういう場所ではキノコもよく見られるという。

見つけるコツは、歩くときに視線を斜め前方に向けること。運転するときよく、目線を遠くにと言われるがあんな感じだろうか?さらに先生はパターン認識で腐生植物を見分けているというが、これはある程度植物を見慣れてないと使えない技だろう。

落ち葉の下に小さく埋もれているヤツもいるので、歩きながらだと見つからない場合もある。なので植物学者ではなく、意外にも陸貝研究者によって発見されることがあるという。落ち葉をかき回して探索するからだ。タヌキノショクダイもその一例だ。

腐生植物というとじめじめしたところにすむ印象があるが、種類によっては乾いた尾根筋にいることもある。沢筋や川沿いなど水没しそうなところも案外狙い目だ。海辺の、潮をかぶりそうなところでも見つけられるという。

腐生植物を見に行きたいと思ったならば、要はよい森を探し、そのきれいな林床を探すことだ。(『森を食べる植物』114ページより)

「よい森」「きれいな林床」はどういう場所か、タヌキノショクダイと同じく、現場を何回か体験しないとつかめなそうだ。

 

末次先生は「ふしぎ」の「作者のことば」で、光合成をしない植物との出会いは小学生の頃、図鑑のギンリョウソウだったと書いている。こちらの塚谷先生も、子供の頃最初に好きになった腐生植物としてギンリョウソウを挙げている。インパクトがあってきれいだし、比較的見つけやすいからだろうか。

「あとがき」によると、なんと塚谷先生は腐生植物がご専門ではないという!本業である「発生遺伝学」のいわば副業だとおっしゃっている。専門とする研究者が多くないことも、腐生植物が「新発見のフロンティア」である一因なのだ。

 日本に居ながらにして新種の植物の名付け親になれる!生き物好きの若者なら、この魅力に抗することは難しいはずだ。本書の目的の1つは、その魅力を次の世代に伝えることである。(『森を食べる植物』127ページより)

日本中のフローラを明らかにすることを目指し、数多の植物の名付け親となったと、同じことができるかも?というわけだ。

もう一冊読んだのが『枯木ワンダーランド』。こちらは枯木を取り巻く小宇宙を、さまざまな観点から見せる(読ませる)ものだ。腐生植物は「腐生ラン」として一章割かれている。作者曰く「枯木も山の賑わい」ではなく「枯木こそ山の賑わい」だそうだ。バクテリアやウイルスというミクロの視点あり、地球環境の変動というマクロの視点ありで、枯木に蠢く世界をダイナミックに見せてくれる。

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