こどもと読むたくさんのふしぎ

福音館書店の月刊誌「たくさんのふしぎ」を読んだ記録です。

ポスター(第258号)

ご存知だろうか?

しばらく前から、たくさんのふしぎのうち4冊が、無料公開されているのだ。

期間限定なので、いつ終了するかわからない。今のうちにぜひ見てみてほしい。ただし、スマートフォンではなく、パソコンやタブレットで見ることを強くおすすめする。

たくさんのふしぎ試し読み(公開終了)

ページ見開きの折れ目、「のど」の部分がないと、こんなにきれいに見えるんだ!と驚くはずだ。ノイズのない、まっさらな1枚の絵/写真として現れてくる上、色鮮やかで目にもまぶしい。写真など、まるでその場にいるみたいな臨場感で迫ってくる。4冊以外も、あれもこれもみてみたい!と思わせる美しさだ。惜しむらくは、表紙の見開きを一面で見られないこと。まあ『宇宙とわたしたち(第385号)』とか『野生のチューリップ(第386号)』とか見開き続きだけど、裏表紙の白抜き部分が気になってしまうかもなあ。

ひときわ、イラストが際立つのが『へんてこ絵日記(第371号)』。

「5月17日」の“本の木”なんて、ページめくっただけでわあっと圧倒されるし、「8月18日」のスイカとか「9月22日」のフェンスとか、絵ハガキに仕立てたいくらいだ。「6月14日」、「12月5日」、「12月16日」なんか、切れ目があっても雑音になりにくいけど、フラットに見せることで、広がりや奥行きを感じさせることができる。紙媒体の良さはそれとして、新たな見方や発見ができて面白かった。

 

『ポスター』は『へんてこ絵日記』を手がけたU. G. サトーによるものだ。

ポスターなんて今どき流行らない手法かもしれない。しかし、WEB広告全盛期の中、ポスター広告もまだまだ健在だ。その最たるものが「政治活動ポスター(+選挙運動ポスター)」というのは、なんとも度し難いけれど。

ポスターは絵や写真、文字を使って伝える、古くからある素朴な広告だけれど、それはシンプルな方法だからこそ、いつまでも古びないのかもしれない。

本誌発行2006年当時にして、“古くから”あり、“古びない”と言われるポスター。

私がポスターと出会ったのは——それは、サヴィニャックに出会った瞬間だったといってもいいすぎではない。

U. G. サトーは、サヴィニャック描くところの『ハム』*1を雑誌で見て、衝撃を受けたという。

私もデザインを勉強し、こんな作家になりたいと思ったんだよ。

サヴィニャックの作風は、一目でそれとわかる特徴的なものだ。しかし、ポスターというのは芸術性を要求される一方、通俗性も求められるという、難しいバランスの上で成り立っている。アーティストとしては、自分の美を追求したいのに、その表現にはわかりやすさ・・・・・・が必要となるのだ。サヴィニャックの個性が、美が、ポスターの上に花開いたのは、幸福な出会いだったと言えるのかもしれない。

サヴィニャックの名声を確かなものにしたのは「牛乳石鹸モンサヴォン」のポスター(脚注*1リンク内参照)だ。「私は41歳のとき、モンサヴォンのこの雌牛のおっぱいから生まれた」という言葉を残している。『レイモン・サヴィニャック フランスポスターデザインの巨匠』の解説によると、

一見したところ純粋に面白い詩的な絵を見ているように思うのだが、実はすべてが厳密に計算しつくされている。例えばこの素晴らしい薄紫色、そしてこの濃いブルーは石鹸の包装紙の色なのだ。(『レイモン・サヴィニャック フランスポスターデザインの巨匠』212ページより)

ということで、商品の宣伝としても、ふさわしい表現がなされていることがわかる。宣伝ポスターとしてのみならず、時代をこえ「純粋に面白い詩的な絵」として見られるのは、サヴィニャックの才能あってこそだ。素晴らしいポスターは時の経過を耐え、一つのアートとして後世に残っていく。しかし「純粋にポスターとして」楽しめるのは、同時代そこにいた人たちだけだ。できることならその時代に生き、ポスターに目を奪われるだけでなく、購買意欲をそそられてみたかったなあとも思ってしまう。

 

U. G. サトーとサヴィニャックとの“出会い”もまた、幸せなものといえよう。U. G. サトーの作品は、サヴィニャック仕込みのユーモアを兼ね備えたものだからだ。

 深刻な問題や残虐な事件を訴えるにも、生まじめに表現しすぎれば、かえって人の目をそらすことになりかねない。

ポスターは芸術作品ではなく、あくまで「メッセージを伝えるための表現手段」なのだ。多くの人にメッセージを届けるという使命がある以上、パッと目を引きつけ、何を伝えたいのかすぐにわかってもらう必要がある。

 サヴィニャックは、自分は「ユーモアの大道芸人」だといい、人々を陽気にすることを心がけていたんだ。「あまりにも美しく描きすぎると、自分のいいたいことを忘れてしまう」ともいっているが、それは負け惜しみではなく、明快で素朴な自分の表現方法の発見につとめていたんだね。

すぐれたポスターは、広告主のイメージアップに貢献するばかりでなく、作家自身のブランドを高めることにもなる。サヴィニャックの、U. G. サトーの作品だから注目する、いいイメージを持つという逆転の効果も生まれてくるのだ。

 

本号28〜29ページは「ここは私の仕事場」と題し、アトリエに展示されたこれまでのポスター作品を一堂に紹介している。目を引くために作られるポスター、一つに集めればさぞかし賑やかに思えることだろうが、テイストが統一されているため不思議とうるさく感じさせない。色合いははっきりしているけれど、シンプルなデザインが多いからかもしれない。『2本足と4本足 (たくさんのふしぎ傑作集) (第25号)』の表紙も、ポスターサイズに引き伸ばされて展示されている。ポスターとしてもまったく違和感がない。家にひとつ飾っておきたいくらいだ。

 

ポスターがなくなることはないとはいえ、今はなかなか厳しい時なのではないだろうか。人の目がスマートフォンに取られている上、街へ出るな出歩くなという状況だからだ。ポスターが輝くのは、衆目を集める場でこそ。そしてポスターの出番は広告主の懐具合にかかっている。それを考えると、ポスター冬の時代はしばらく続くのかもしれない。「政治活動ポスター(+選挙運動ポスター)」を除いては。

サヴィニャックも、時代の変化にともなう“受難の時”を経ている。企業広告の世界は、時代の変化を敏感に察知し流行に乗るのが宿命だ。1970年代から手描きポスターがはやらなくなった上に、広告代理店の存在感が大きくなり、仕事のやり方が変わってきてしまったのだ。

伝統的な意味でのポスター作家という職業は死に、サヴィニャック自身が一人だけの広告代理店だった。商業界に見限られたサヴィニャックは政治運動や団体運動、文化的催しなどの広告主のために多くのポスターを描く。(『レイモン・サヴィニャック フランスポスターデザインの巨匠』195ページより)

その後、終のすみかとして選んだトゥルーヴィルの街でも、惜しみなくその才能を発揮している。観光案内所のために旗をデザインしたり、地元商店や地域のため多くのポスターや壁画も手がけている。今でも現地は彼の作品に満ちあふれているという。自分の愛した街に愛され、今なお愛され続けるというのは、なんと幸せなことだろうか。

ポスター たくさんのふしぎ 2006年9月号

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「作者のことば」での、

ところで、私はよくアメリカ・インディアンに間違えられる。長髪で顔のシルエットが似ているからだろう。

という言葉を受けるように、「今月号の作者」紹介欄では、ネイティブ・アメリカン風のコスプレで登場している。極まり過ぎてておかしいくらいだ。

*1:ポスター史上に残る名作も展示、エスプリで心を癒す『レイモン・サヴィニャック展』 - アート・デザインニュース : CINRA.NET

『ランクハムための原画』参照。ほぼ同じだが、本書に載るのはこれとは違うバージョンのもの。