みなさん、ぼくのいるところがどこかわかりますか。ぼくは今アマゾン川にいます。それも本流ではなくて、そこにそそぎこむ「小さな支流」にいます。支流でもこんなに広いのです。
2〜3ページにうつる写真はまるで海のようだ。アマゾンといえばイメージする熱帯雨林もそこにはなく、おだやかな遠浅の海のような水面が広がっている。
海……じゃなく、川に浮かぶ小さな台のようなものに座り込むは、作者の今森さん。
若い!月刊誌は1991年発行だから、このとき30代くらいだろうか。
『南米アマゾン 土を食う動物たち(第418号)』で書いたとおり、『アマゾン・アマゾン』の舞台もアマゾンの一部にしか過ぎない。
今森さんがいるのも、アラピオンス川上流に位置するその名もアラピオンス。アラピオンス川はタパジョス川に注ぎ込み、タパジョスはさらにアマゾン川に注ぐという案配なのだ。
ぼくは、なかでもアマゾンでしか見られない、めずらしい、そしてふしぎな昆虫たちに出会うために、旅をしてここまでやってきました。
とは書かれるものの、昆虫が登場するページはほんの一部。40ページ中、8ページ程度だ。
まず描かれるのは、泊めてもらったお家の紹介。ジュワン一家だ。一家は総勢9人。アラピオンス川に面した一軒家に住んでいる。周囲に家はない。電気もガスももちろんない。魚をとったり、畑を作ったり、自給自足の生活だ。子供は7人。長女サンドラ(10歳)を筆頭に、次女エルニッシ(9歳)、長男ジャジャ(8歳)、次男ジェザイエス(5歳)、三男ジュズエ(3歳)、四男ジョジェス(2歳)、三女エリアウマ(10ヶ月)と続いている。上3人は週3、4回学校に通う。学校は徒歩15分くらいのところにある。
なんといっても興味深いのは「ファリーニャ」づくりだ。
ファリーニャは万能食品。できあがったおかずやご飯にふりかけて食べる。ファリーニャを使ってお煎餅やケーキを作る。なんでもファリーニャ。とにかくファリーニャ。食事には欠かせないもののようだ。
粉を摂取しなければ生きられないブラジル人の話 – ブラジル余話
食卓からみる世界-変わる環境と暮らし第10回 キャッサバ芋の焼き畑とアグロフォレストリー | 一般財団法人 地球人間環境フォーラム
ファリーニャづくりは簡単……ではなく、まあ本当にできあがるまでの工程が多い。
まず(1)マンジョカの収穫から始まる。マンジョカとはキャッサバのこと。
キャッサバには毒があるので(2)水にさらして毒抜きをしなければならない。
次に(3)ハーロ(おろし板)で細かくおろす。
それを(4)チピチという竹製しぼり袋に詰め込み、引きのばして水分を搾り取る。
できたものを(5)ペネーラ(漉し網)で漉し、
(6)さらに漉して粒を揃える。
それを(7)熱した鉄板の上でホドウ(混ぜ棒)を使って炒め、水分を飛ばす。
(8)チピチ(竹製しぼり袋)を川で洗って片付ける。
といった具合だ。
本号の表紙は長男のジャジャだろうか。ちょうど手にしているのが絞り袋の道具、チピチだ。手にするといっても身長を軽く越すくらいの大きさ。この表紙は、題字と作者名の配置まで含め、完璧に極まっている。
ジュワンは森でハチミツ取りをするが、そのハチも面白い。ハリナシバチという毒針を持たないハチなのだ。顔かたちはミツバチそっくり、同じように社会生活を営むハチだ。ミツバチは「産卵管」の役割を産卵ではなく毒針に変えたが、ハリナシバチはさらにそれを捨て去り、「大あご」のみを武器に使うことにしたわけだ(『ぼくが見たハチ(第161号)』)。
ジャングルを歩き回って探さずとも、ジュワン家の周りは虫たちでいっぱい。しかもビッグサイズが盛りだくさん。ナンベイオオヤガの大ぶりさときたら、手にする次男ジェザイエスの顔と同じくらいの体長がありそうだ。オオメンガタブラベルスゴキブリ(あまりゴキブリらしくはない)やジャイアントアント(ディノポネラ属のアリだろうか?)、私の苦手とするオオツチグモなど、実際その場で見たら、想像以上の迫力があるに違いない。
珍しいのは虫たちだけではない。植物もまた、見たことがないもののオンパレードだ。アマゾンの人たちが「水の出るツタ」と呼ぶシッポジアグア。つる植物の一種で、たち切ると水があふれ出てくる。天然の水筒だ。アプイと呼ばれる木は『熱帯雨林をいく(第189号)』にも登場した「しめ殺しの木」。厳しい生存競争の中で生き抜くために、植物もみな必死なのだ。
虫たちも植物も生きものたちは、アマゾンで、アマゾンのめぐみで生きている。そして人間も。
今森さんの視線は、生きものたちの様子だけではなく、人の営みにも等しく向けられる。
港町には、船の到着を待ちわびる揚げパン売りの少年。氷売りの少年や、お菓子売りの少女の姿もある。学校が終わってからのアルバイトだ。定期船が着くと、荷下ろしや荷積みの人たちでごった返し活気づく。魚市場には、アマゾンの恵みである川魚がずらり。
ジュワン家の子供たちだって、ファリーニャづくりに駆り出されれば、鳥を捌いたり、火をおこしたり、お母さんがする料理の一工程を担っている。末っ子の面倒を見る役目もあれば、川の水を運んだりもする。お手伝いとかいう生ぬるいものではなく、家族の一員としての仕事なのだ。
アラピオンスのような大自然の中で、自給自足でくらしていくには、家族みんなが協力してしごとをしないと、生きていけません。子どもたちは、小さなころからきびしい自然を教えられながらそだっていくのです。
今森さんのライフワークといえば「里山」。里山は人と自然が共存する場だ。里山は決して自然そのままではなく、人の手が入ってこその場なのだ。アマゾンはあまりにも圧倒的な場であるために、「人と自然が共存」なんて言葉は似合わないような感じもする。しかし同じ今森さんが著した『世界昆虫記』を見ると、こんなことが書かれている。
アマゾン川支流のほとりで暮らす一家の主ジョアンは、「小さな森だけどゆっくり見ていきな」といってニッコリ笑い、家の後ろの森を指さした。冗談をいっていることはすぐにわかった。森は想像できない大きさで、深く暗く不気味に、どこまでもつづいていたからだ。(『世界昆虫記』4〜5ページより)
もちろん冗談だろうが、実は本当に「小さな森」だと感じているところがあるのかもしれない。自然に圧倒されるばかりでは、生活することもままならないからだ。ときに打ち負かされることがあったとしても、それぞれみな自然とうまく付き合いながら生きている。人間を含め、アマゾンとともに暮らす、あらゆる生きものたちが。
『アマゾン・アマゾン』の表紙は人、裏表紙はアマゾンの森。『アマゾン・アマゾン』のカバーは、人と自然がともに生きているという内容を、まさに表現しているのだ。